『アメリカから<自由>が消える』堤未果

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アメリカの現状。ぼくらがイメージする自由で豊かな「アメリカ」と、人口的に移民層がマイノリティでは無くなった「アメリカ庶民」のリアルな生活との隔たり。9.11のテロを現場で体験してジャーナリストに転身した堤未果さんのルポを読むと、アメリカが、かつて日本が憧れた「アメリカ」からは程遠い、貧困大国へと突き進んでいることが分かります。日本にいるとかの地の実態はあまり伝わってきませんが、オバマ政権になっても、社会的格差の拡大に歯止めはかからず、医療、教育、刑務所といったものが産業構造として市場原理に呑み込まれて崩壊していく様子が、克明に描かれています。ここでの格差とは、巨大企業による支配構造の現れです。それを日本でも行おうとしているのがTPPなんですが、それはまたべつの記事で。

今回取り上げたいのは、同じく堤未果さんの『アメリカから<自由>が消える』という著書。現地での丁寧な取材、詳細な事例から浮かび上がってくるのは、まあびっくりするくらい衝撃のアメリカの実態。文字通り、自由が消えていっている。すべては「テロとの闘い」という大義名分のもとに、監視社会、警察国家と化している。一般市民が「安心してふつうに暮らす」という、たったそれだけの権利が奪われているのです。ぼくはオバマ自身が悪人だとは思いませんが、合衆国に広く深く根を張った見えないちからは、大統領のちからだけで変えるのは難しいのであろうと思います。

かつて日本人が憧れた「自由の国アメリカ」は、もう存在しないのです。



飛行機に乗れなくなります。
空港で突然足止めされ、自分が搭乗拒否リストに掲載されていると告げられるそうです。理由は教えてもらえません。テロリストと同姓同名だというだけでリストに載せられた子どもの例も報告されているとのこと。一度リストに載ると外してもらう手段はなく、飛行機に二度と乗れないだけでなく、就職もできないなど、社会的に大きな影響が出始めているのだそうです。さらには、搭乗の際に「ミリ波スキャナー」によって裸の全身画像を撮られます。プライバシーの侵害だとの反対意見が多数寄せられていますが、この路線はさらに強化する方へ向かい、なんと政府は人の頭の中を読みとれる装置を企業に開発させているというはなしもあります(おいおい)。もちろん、そのおかげで警備業界は巨大市場に成長しているそうです。

何故自分の名前がリストに載ったのか、その理由は決して教えてもらえない。どう考えてもテロと関係のない人々がこんなにも載っているのを見ると、そこに明確なルールなどない。

一度リストに載ってしまったが最後、一般市民にはそこから削除してもらうすべはない。そして『テロとの戦い』に関する案件については、裁判をする権利も、司法審査の権利も適用されないのだ。


2009年3月、バージニア州警察が作成した「テロリストの脅威に対する評価」レポートの中には、アルカイダやハマス、ネオナチなどと並んで「中絶支持」「税制改正推進」「憲法と矛盾する現政権の政策糾明」などの社会問題にかかわる学生たちの名前がテロリスト欄に記載されていることが明らかになっている。


その流れで当然のごとく、反政府的な言論の封殺も行われています。国内でやりとりされる電話、メール、ファックス、インターネットなどの全通信を政府が監視し、反政府的な言説はもともと「なかったこと」にされます。アメリカの自由をかたちづくっていたはずの「多様性」の否定です。アメリカの自由は完全に死にました。

どっちを向いても『テロとの戦い』しか報道しない大手メディアにうんざりして、インターネットで検索を続けているうちに、奇妙なことに気がついたのだ。大手メディアで報道される以外のトピックに行きつくたびに、翌日そのサイトそのものが消されてしまう。それでも検察を続けていると、今度は画面そのものがフリーズして動かなくなるのだ。


ふつうに考えるだけで恐ろしくなるような「暴挙」ですよね。でも、暴挙は最初から暴挙の顔をしてやってくるわけではありません。これがとっても大事なところです。現在のアメリカの監視社会・警察国家という体制は、9.11のテロ後に成立した「愛国者法」が根拠となっています。すべては「テロと戦う」ためなのです。そこからはじまっている。そして、それはアメリカ国民自身が選んだものでもある。

9.11当時テロを間近に目撃したリサ・ウィリアムは当初のインタビューで監視されていることの不安は無いか、との問いに「何故そんなことを思うんでしょう?テロとの関連を疑われるような行動を取っていなければ、問題ないじゃ無いですか」と言っていた。九ヵ月後の2009年10月リサは警官に呼び止められる。四時間に渡る尋問を受ける。何故、何を調べられているのかも最後まで知らされなかった。それ以来前とまるきり行動が変わってしまったとリサは言う。「監視カメラの前を通るときは、息が苦しくなるようになったんです。銀行でも書店でも、自分が不自然な態度になっていないか心配で長居ができなくなりました。友人との電話も短くなり、Eメールも一通送るのにすごく時間がかかります。何日も迷った挙句、結局返信しないものもたくさんありました。自分が書いた文章の中に、疑いがもたれるような単語が入っていないかどうか、何度もチェックするようになったからです」


もういちど言います。アメリカ社会に蔓延している息苦しさは、アメリカ国民が自分たちで選んだ結果なのです。本書でレポートされているアメリカの姿は、よーく覚えておいた方がいい。ぼくたち日本人にとっても大事なことです。なぜなら、アメリカで起こってるようなことが、同じような構図をもって日本でも起ころうとしているから。

どうも息苦しい世の中になったと感じている人は多いと思います。特にオウムの事件以来、ぼくたちは、たえず自分たちの外側に「敵」を設定して世界を眺めるようになりました。よのなかには、悪いことをする理解不能なモンスターがいて、そいつはやっつけないといけない。また、そういうモンスターは早いうちに潰さないといけない。そういったコンセンサスが、法律などで明文化されているわけではないのに、ぼくたちの意識下に刷り込まれています。それはメディアの報道の仕方による影響も大きいのでしょう。ワイドショーと化したニュース番組は、不安と怒りを煽るばかりです。

たえず敵を想定するマインドは、必然的に監視社会を生みます。当事者でもなんでもない一市民までもが、警察気取りで、社会正義を声高に叫び始める。そうすると、お互いがお互いを監視し合うような空気が瀰漫していきます。自由なことや冒険は出来なくなる。下手なことを言うとホリエモンのように逮捕されちゃうから。いま日本に瀰漫しているのはそういう息苦しさですよね。先日、大阪の橋本府知事が「教育とは強制である」と発言したことに強い抵抗を覚えたのも、そういった危険性を感じたからです。だって施行する側はもちろん、それに賛同する人って、自分が「悪」になる可能性は考えないんですね。ぜったいに自分は間違えない。だから間違った人を許さない。これは怖いです。(大人っていうのはほんとうはそういう「正しさ」によって高められるものじゃなくて、「トホホ感」が醸すものだと思います(過去記事)。)

先日、石原都知事が再選しました。都知事選の直前には、児童ポルノを規制する法案についての議論が巻き起こりました。それでも都民は石原氏を選びました。同氏は再選後、今までのやり方を変える必要は無いと名言しています。また、日本は核武装すべきであるとか徴兵制もやればよい等と発言しています。たえず自分の外に「悪」を設定して、わたしたち日本人は団結してこれらの「悪」と戦っていこう、「悪」を排除していこう(自分たちの中には「悪」は無いから、排除すれば安心な社会が訪れる)、というマインドが基本にあるからなんだと思います。テロ後のアメリカにそっくりですが。しかしだからといって、石原氏が「悪」である、と考えるのもまた違うでしょう。要は、それを選んだのは自分たちである、ということでしかない。

石原氏の再選に関して書かれたブログです。
石原再選以後、誠実に考えよう - 風考計blog
端的に言って、敵はなにか?石原慎太郎ではない。政治を変える王道、それを妨げるのは、なにより私たちの中にある、具体的な問題を前にして安易な感情的反発に逃避する知的怠惰と、臆病である。

ほんの少しずつしか変わらないだろうが、それでも少しずつ思考し、考え、問題から逃げず、誠実に議論する。そうやって、民主主義の土俵を豊かに肥やしていくことしか、さしあたり方法はない。


まったくその通りだと思います。

日本のマスメディア報道は、記者クラブによって完全にコントロールされてきました(過去記事)。広く市民たちに開かれた自由な言論など無かったに等しい。ぼく自身も、政治にはまったく無関心でなんの期待もしていませんでした。基本的にお任せしていたし、政治オタクによる生活から乖離した議論の意味がわからなかった。それが、子どもが生まれたことと、ツイッターをはじめたことで大きく変わりました。マスメディアを介さない情報がフリーのジャーナリスト等から次々に入ってくるインプットツールとしてのツイッターは、政治というものに対する認識を一変させました。政治と宗教のはなしはタブーである(いまはそれに放射能も加わってるの?)とよく言われていましたが、こんなにおもしろくてクリエイティブなものだとは知らなかった。こんなおもしろいものをわざわざ矮小化して、関心を持たせないようにしているのはそれこそマインドコントロールだったのだと思います。

SNSが、情報の在り方を大きく変えています。SNSというサービスは、コミュニケーション・ツールとしての機能はもちろんですが、情報の「インプットツール」として非常に有効です。膨大な懸案のひとつひとつを、いちいちサイトにアクセスして偏りのないように様々な角度からの情報を比較検討していたら時間がいくらあっても足りません。というか、いくら比較検討するといっても視点はひとつしかない。その点、SNSでは新鮮な情報が、自分が信頼する人を経由してばんばん入ってきます。しかも視点がひとつではない。ああ、こういう見方もあるのかというような視座を常に与えられます。このように多様な情報を与えられながら、その中で自分なりに解を探っていくこと、というようなクセを、ぼくも含めて多くの日本人は長らくしてこなかったんじゃないでしょうか。多様性がもたらすアメリカの自由は死んでしまいましたが、日本において多様性がもたらす自由というものは、戦後社会(というより明治以降なのかな)の中ではそもそも市民の間まで広く浸透していなかったわけです。それが、SNSの普及によって自分のあたまで考えるという人たちの環が広がっています。これって、日本に生まれはじめた自由の芽だと思うんです。

だからこそ、その芽を摘もうという動きは必ず出てきます。
渋谷駅の岡本太郎壁画に落書きをしたとして書類送検されたグループがありましたね。目くじら立てるほどのことじゃないだろうに。コンピュータ監視法案なんてのもあります(成立したんでしたっけ?)。監視社会への足音は着々と忍び寄っているように感じます。ぼくたち一市民が監視すべきなのは、お互いの悪さや失敗などではなくて、その視線は権力側に向けられるべきじゃないでしょうか。注意して見ていないと、いつのまにか住む場所が無くなっちゃった、なんてことになりかねません。

経産省資源エネルギー庁が不適切なツイッター・ブログ監視業務の入札募集中、との情報がツイッターで流れてきました(入札公告仕様書)。仕様書によると、その目的は以下だそうです。
「ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する。」

こういう動きが出てくるということは、逆に言うと、インターネットにはそれだけ何かを変える力があるのだと、統治側が認めているということです。日本に生まれかけた自由なマインドの芽は、アメリカのように摘まれてしまうのか、それともエジプトのように大きな花となるのか。それもまたぼくたちしだいです。それが自由という意味なのかもしれません。


『アメリカから<自由>が消える』堤未果

『アメリカから<自由>が消える』堤未果 2011.07.15 Friday [読書] comments(0)
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