クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

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前の記事で、これからは「所有」から「シェア」の時代になるのでは、と書きました。たとえば本は読まれる人のところに在ればよくて、そのモノが誰のモノであるかは、あんまり関係なくなってくるのでは、と。ただそれには重大な問題があって、本のたとえで言うと、それじゃあ作者はどうやって収入を得るんだという問題がありますね。作者の権利を守らなければ、作品が蹂躙される。劣悪な海賊版があふれる。たしかにそれも一理あるような気がします。だから作者の権利を保護するのが、著作権という概念でした。「コピーライト」。

これはあくまでもぼくの感覚なので実情がどうなのかは知りませんが、「著作権」の使われ方というものが、作者の知的所有権を保護するという「名目」よりも、関連企業の利潤や消費者への囲い込みにかなっている例のほうが多いような気がします。CCCDなんていう、作者側も消費者側も誰もよろこばないものをやろうとしたり。知的所有権を根拠に理不尽な訴訟を起こして農地を巻き上げるモンサントのやり方もその悪例ですよね(TPPに参加したら日本もその餌食になります、きっと)。「権利」というものが、ほんとうに「ものをつくる」人の思いにかなったものとして機能しているのだろうか、という疑問が常々ありました。

「コピーライト」に対して「パブリックドメイン」という考え方があります。これは完全に著作権を放棄して(あるいは保護期間が終了して)、人類の共有財産であるとする概念です。ツイッターなんかも割とこちらに近いんじゃないかと思います。1つ1つのつぶやきに対して所有権を主張するような人はたぶんツイッターには向いていない。ことばが自由にただよい、リツイートしたりされたりするうちにもともとが誰のことばなのかわからなくなってきます。というか「誰のことば」というのはそんなに重要ではない、という感覚。この感覚がツイッターの心地よさでありおもしろさだと思います。

「コピーライト」と「パブリックドメイン」は、両極端な例です。実際にはそういった杓子定規では測れないことのほうが多いことも、ぼくたちは感覚的に知っているような気もします。

「クリエイティブ・コモンズ」という考え方があります。

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンより
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスは、インターネット時代のための新しい著作権ルールの普及を目指し、様々な作品の作者が自ら「この条件を守れば私の作品を自由に使って良いですよ」という意思表示をするためのツールです。


クリエイティブ・コモンズでは、「All Rights Reserved」に対して「Some Rights Reserved」を提案しています。作り手の権利を守りつつも、受け手にも作品を自由に扱う領域を確保する。「コピーライト」か「パブリックドメイン」か、という二者択一ではなくて、その中間のグラデーションを、作者自身が決めることができる。これって、ごく自然な考え方のように、ぼくは思います。

「ものをつくる」人にとって、「作品を守ること」と「作品を通じてつながること」のどちらが大事なんでしょうか。人それぞれの解釈があっていいのだと思いますが、ぼく個人としては後者のほうにものづくりの醍醐味があるような気がします。自分のつくったものが未来永劫に残ってほしいとは思わないし、自分の書いたものが自分の意図の通りに読まれないと気が済まないとも思いません。作品は、出来た時点で作者の手をはなれるものだと思っています。あとは風にのってふわりふわりと様々な人の目に降れ、様々な解釈を生む、そのほうがたのしいと思うんです。これはあくまでぼくが作り手だった場合の個人的な考えですが。

だからといって、なんでもかんでも好き勝手にやっていいかというと、それはまたべつの話ですよね。作者への敬意があるかないか。それだけだと思います。敬意と言うとちょっとカタい感じがしますが、要はこういうことだと思います。

SIGHT 2011WINTER号 内田樹×高橋源一郎対談より
仕事なんて、自分で作るもんじゃない?マーケットがあって、それにどういうニーズがあるのかって探すんじゃなくてさ、「俺はこれがやりたい!」って言ってると、「もっとやって」って言うひとが出てきてさ。「じゃあちょっとお鳥目ちょうだいよ」「うん、払うよ」ってなって、続くってもんでさ。


あるいはこういうこと。

内田樹Twitterより
震災後の日本はどうなるんだろうね、という母のご質問に、「昔みたいになるんじゃない?」とお答えする。「近所同士でお醤油やお味噌を貸し借りするみたいな?」そうです。近いもの同士で助け合うことができない人たちが作る自治体や国家に人は救えませんよ。


これって、おそらく多くの人が思い描く「古きよき日本」の像なんじゃないでしょうか。わざわざ権利立てしなくたって、日本にはすばらしい概念がむかしからあるじゃないですか。「おたがいさま」。「シェア」の時代において、その土壌をカタチづくっていくのは「おたがいさま」という心持ちなんじゃないかと思います。内田さんのたとえのように「おたがいさま」っていのうは、じぶんの身の丈の届く範囲の、スモールでローカルなものにおそらくなるんじゃないかなあ(これからのローカルとは、地域性というだけではなく、マスの対義語としてのローカルという意味になるとも思う)。互いへの敬意さえあれば、「おたがいさま」の心持ちでうまいことやっていけると思うんだけどなァ。大人だったら、ねえ。


クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ) 2011.06.28 Tuesday [妄想] comments(0)
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