BEADY EYE (オアシスのリアムによる新バンド)

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バンドというのはつくづく不思議なものであるんだなあと思います。
ぼくはバンドをやったこともないし楽器も演奏できないので実際の現場はわからないのだけれども、カタチとして残されたいろいろなバンドの作品から、彼ら特有のマジックを感じる瞬間を共有することができます。元オアシスのリアム・ギャラガーによる新バンド『BEADY EYE(ビーディ・アイ)』は、意外にもそうしたマジックを色濃く感じさせてくれる瑞々しいバンドです。

こちらがファースト・アルバム『Different Gear, Still Speeding』。
ぼくの誕生日と同日に日本先行発売だったんですね(と、さりげなく誕生日をアピールしておいて)。いやあ、新譜への感度が低くなっているので、今日までぜんぜん知りませんでした(ちなみにニコニコニュースで彼らの存在を知りました)。



サイケデリックなジャケットのアートワークからも、60年代への憧憬をもろに感じさせるサウンドからも、目新しさはぜんぜん感じません。というよりも、あまりにも直球まるだしだったので、はじめに聴いたときは笑ってしまいました。リズム&ブルースを下敷きにした、古き良きロックンロール。2011年のいまとなっては、なんてことのないありふれた曲たちです。

まあ、このPVをご覧ください。



まんまビートルズじゃないですか。

いやあ、でもこれでいいんですね。ぼくはこのPVを観てちょっとうるうるしちゃいました。ロックンロールが生まれて間もない頃、まだその「熱」に多くの若者が酔っていた頃、そこには確かにマジックが存在していたと思います。それは、皆が共有できるマジックであり、各自が自分を投影できる物語でもありました。ビートルズには、世界をひとつにする奇跡があったかもしれません。21世紀に入り、情報の多様化がいまも進行中である中で、ロックンロールに限らず、そのようなカリスマ的な存在が出現することはもう無いでしょう。それと同時に、音楽が持つマジックも消えてしまったのか。ぼくが数年前にロックを聴かなくなったのはなぜか。

1991年に登場したオアシスは当時から、「おれたちはビートルズになりたいんだ」と公言していました。ビートルズへの愛と、憧憬を(もちろん音楽的にも)隠さずに掲げることで、彼らはまたたくまに国民的バンドになりました。もちろん楽曲も素晴らしかったし、キャラ的にも際立っていました。ブリット・ポップというブームの後押しもありましたね。しかしブリット・ポップのブームの中でも彼らの存在感は突出していたように思います。その要因は、ギャラガー兄弟の「我が道を行く」ぶりにあったのではないかと、いまになって思います。それが各地での暴言や破天荒なスキャンダルというかたちで表れることも多々ありましたが。

「ビートルズになりたい」と公言することで、我が道をすすんでいた彼らですが、アルバムはデビュー作から大ヒット、続く2ndアルバムも大ヒットと、あっというまに商業的成功を収めてしまいました。ビッグマウスだけでなく、実際にビートルズと同じくらいにビッグになったとき、さて、彼らはどこにすすむのか、その道しるべを失ってしまったように見えました。「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。「ビートルズになること」自体が目的化してしまったとき、彼らが持っていたマジックは消え、楽曲は奮わず、セールス的にも苦戦を強いるようになってゆきました。ああオアシスも終わってしまったか、ぼくもそう思いました。

オアシスの後期作品群がオーバープロデュース気味になっていたことは事実です。ある意味で完璧主義者であったノエルの影響が大きかったのかもしれません。身体が感じた直感よりも、楽曲としての完成度をあたまで追求していった帰結なのかもしれません。「道」を追求するストイシズムは、彼らから開放感を奪いました。

しかし2008年のアルバム『Dig Out Your Soul』では、「らしさ」の呪縛から吹っ切れたかのような音を聴かせてくれ、2009年3月にミュージックステーションに出演。その放映を観たときは、ああオアシスが帰ってきた、そう思った矢先の8月、ノエルが脱退を表明。えええ、けっきょくは兄弟喧嘩かよとツッコミまくりでした。その後、リアムは残されたメンバーでレコーディングを行い、完成したのが本作であるわけです。

オアシスの楽曲の要はノエルであったことは間違いなく、リアムというと暴れん坊のイメージしか無かったので、ノエルがいなくなることでいったいどうなるのかと不安でしたが、なかなかどうして。オアシスという看板を離れることで、なんだか軽やかになった彼らがいます。その曲は驚くほど身体に心地よいものです。

「ビートルズになりたい」ってどういうことだったのか。
紆余曲折を経て、リアムが公言してきたことの意味がようやくわかったような気がします。ただ純粋にかっこいいと憧れていた若い頃の、自分もあんなふうに演りたいと目をきらきらと輝かせていた頃の、その質感(クオリア)がすべてなのではないかと。

気心の知れた仲間が揃って、「せーの」でジャーンとやる。
バンドという形態の醍醐味がそこにあるような気がします(くり返しますがぼくはバンドの経験がないので想像のはなしです)。今回のアルバムに収録された楽曲は、メンバー各自が曲を持ち寄り、セッションして出来上がったのだそうです。なんのことはない、音楽を楽しむという、いちばん基本的な「愉快さ」がここにはあるんです。オアシスらしさとか、マーケティングとか、そういったしがらみから離れて、ただやりたいことをやる。好きなことをやる。それは彼ら自身の身体が訴えるままに演奏した結果であり、だから、聴いている側のフィジカルに訴えてくる。

オアシスにおいてはギャラガー兄弟の引き立て役であり、黒子であった、他のメンバーがここでは「バンド」として有機的に機能しています。わがままであったはずのリアムが(各自が曲を持ち寄るという)民主的な方法で作ったこのアルバムは、だから、バンドとしてのマジックが復活しているのだと、思いました。楽曲としての出来よりも、有機体としてのつながりを、その空気を共有する楽しさを教えてくれる彼らの曲は、ちょっと感動的ですらあります。(先日のユニコーンの記事でも、作品の質を落とすことで魅力が増す不思議について書いたばかり。さいきんそんなロックンロール回帰が増えている気がします)。

ちなみにこれはインタビューもなにも読んでいない状態での、音源を聴いただけで感じたことから連想していったぼくの想像(というか妄想)ですので、本人たちの意図は違っているのかもしれません。リアムにしてみれば「は?なに言ってんだこのマスかき野郎が」といったところでしょうか。

BEADY EYE (オアシスのリアムによる新バンド)

BEADY EYE (オアシスのリアムによる新バンド) 2011.03.10 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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