「保育の質」とはなんだろね

 このエントリーをはてなブックマークに追加 TOPSY
民主党政権が現在画策している「子ども子育て新システム」(過去記事「幼保一元化を含む子ども子育て新システムについて」参照)。この新システムをめぐり現在、内閣府とNPO法人や親御さんたちによる議論が行われています。この議論の中でよく出てくるキーワードが「保育の質」という問題です。しかしひとくちに「質」と言っても、その内容はさまざまであるはずです。みんながみんな同じ「質」を望むわけはないんだから、具体的な事例をもって議論がなされていくことが重要と思います。ただ単に、賛成か反対かの二元論に陥るのではなく、どこが問題点で、どのように改善していったらよいのか、具体的かつ建設的なシステムに発展していくことを期待しています。ヘタにマスメディアが取り上げることで、たとえば待機児童の解消とか幼保一体化というフレーズで、陳腐な二元論に矮小化されてしまうことがいちばん怖い。人によって様々な捉え方ができる言葉だから、自分の願う「保育の質」とはどのようなものなのか、考えたいとぼくはいま思っています。

「保育の質」ということばの指す意味を考える時に、ぼくは、子どもに関心のない人には発言してほしくありません。関心がないんだったら考える必要がない(いい悪いの問題じゃないです。ほんとうに必要がないと思う)。関心がないくせに「考えているフリ」をすることが(多くの場合、「考えているフリ」を助長するのがマスメディアですね)、保育に限らず、数多くの悲劇を生んでいるのだと思います。ふだん歌舞伎なんか見ないくせに酔っぱらいのケンカを糾弾する。相撲なんか関心ないくせに八百長を糾弾する。自分もやっていたくせに他人のカンニングを糾弾する…主語のない「正義」が集団ヒステリーを生みます。関心のない、主語のない「空気」が多数を占め、それが民主主義としての政策を決定する。そんなものは、ほんとうにくだらないと思う。

だからぼくが考えるのは、あくまでも親の立場としての思いです。現場の保育士としての立場、保育所を経営する立場など、いろいろな立場があるでしょう。その中で自分の意見が全てだとは思いません。だからこそ、現場や経営側のことまで考える必要はないと思います。ただ単に親としての自分の思い(自分の生活を主語にした思い)を確認することが大事だと思います。

昨夜、大宮勇雄さん(福島大学人間発達文化学類教授)の著書『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』を読み始めました。前書き部分の数ページを読んだだけで、この本は信頼できそうだと思いました。ぼくが親として望む「保育の質」とは何か、いまはまだうまく言語化できません。ただ、この本の冒頭に描写されたある現場での一場面、それに対する著者の視線に、ぼくはたいへん共感しました。

ある幼稚園。運動会が近づいて、五歳時が園庭でリレーをやっていた。すると一人の男児が、顔を真っ赤にして赤白帽子をたたきつけるように捨てて「もうやめた」とクラスに戻っていく。その子は足が速いが、彼のチームは何度やっても勝てなかったらしい。よほどくやしかったのであろう。

たかがリレーである。何ということもない、たわいのない遊びである。しかしそんなささいなことに、外聞もなく自分をさらけだしてくやしがれる時代はもう二度とこない。同じチームの仲間が懸命に走ったことは彼にもわかっている。だから、くやしさをどう表現していいのかわからない。自分をおさえきれないのだが、仲間に対しては自分をおさえようとしている。見ている側も切なくなる。しかしこういうことを繰り返しながら彼は、他者の気持ちと向き合い、自分の気持ちに気づいていくにちがいない。

こんなとき、保育者っていい仕事だなあと思う。子どもの息づかいや感情の揺れ動きがビンビンと感じ取れる近さで子どもと関わるとき、子どもも幸せだが、保育者も「子どもと生きる幸せ」を感じているのだろうと思う。

大宮勇雄『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』より


可愛い自分の子どもを他人に預けるということは、預ける側への信頼がなければ出来ないことじゃないでしょうか。現場で子どもたちと真摯に関わる保育士たちは、ほんとうに大変な仕事をしていると思います。そしておどろくほど純粋に子どもと向き合ってくれていると思います。そういった現場のプロに対しては、ぼくは敬意を払いたいです。そして、だからこそ安心して子どもを「任せ」られる。

これは保育の話に限ったことじゃないけど、実際に現場でたずさわる人の裁量に「任せる」ってことは大事だと思います。0から100まで全部自分でチェックしないと気が済まないのでは他人に何も頼めません。たとえば代議士による間接民主主義というのも、政治家にある程度「任せる」というゆとりが有権者に無ければ制度そのものが成り立ちません。そういったゆとりが無いから、大局が見えず、ひとつひとつの案件への揚げ足取りになり、個人への紛糾になり、けっきょく政治が停滞する。「任せる」とは「信頼」に他なりません。

子ども子育て新システムに於いて、いちばん危惧されているのは、保育現場の市場化です。市場経済の原理が導入され、利益の追求や作業効率が優先されるようになることで(市場経済ってそういう淘汰システムですから)、現場ではたらく保育士がよろこびを見失い、主語を失ってしまうことが、ぼくはいちばんおそろしいです。なぜ? 親が子どもを預けるのは、実際に現場にいる保育士さんだからです。子どもと触れあうのは現場にいる保育士さんだからです。

ふたたび『保育の質を高める』前書きより。

マニュアル化が徹底され、けがや小さな事故がある度に事故報告書を書くべきか、そんなことに精力を注ぎ込むようになったという院内保育所。本社からスーパーバイザーが毎月やってくるようになって、保育者自身が事故やトラブルを避けようとして、子どもの遊びを管理・制約することが多くなり、保育がつまらないものになってきたというベテラン保育者の話。民間の認可保育所の中では、能力給制度と職員評価制度をセットで導入する方向を打ち出すところが出てきていて、もの言えぬ職場になるのではないかという不安が広がっていると聞いた。

何が保育者から保育の喜びを奪い、子どもたちの育つ豊かな生活を奪っているのか。それが「構造改革」「規制改革」をとなえる経済効率優先の政治であり、そこから繰り出される保育政策であることは多くの人が知っている。

大宮勇雄『保育の質を高める―21世紀の保育観・保育条件・専門性』より


市場経済と保育は、まったく異質のものです。保育を市場経済の原理で語ろうとすること自体に、ぼくは違和感を覚えます。待機児童の解消が、いちばんの問題点であるかのように語られる議論には、最初から馴染めません。だって、待機児童の解消って、働きたい親の都合でしょう。あるいは、乳幼児を預けてでも働かなければ食べていけないような社会設計をした国の都合。それはそれで大事かもしれませんが、それは子どもじゃなくて、大人の都合のはなしです。

「保育の質」とはなにか。具体的な数値で指し示すのは難しいのかもしれません。ぼくが願うのは、ただただ子どもの笑顔です。少しぐらいケガしようが、痛い目にあおうが、子どもの「想像力」を大切にしてくれるような場面にたくさん触れさせてあげたいと思っています。

子ども子育て新システムが、保育現場を「構造改革」「規制改革」し、市場化していくものだとしたら、想像力などという曖昧なものは駆逐されてしまうでしょう。ぼくは大いに反対です。では具体的に、新システムでは何が為されようとしているのか、どういった問題点があるのか、どうしていったらよいのか。ぼくはまだうまく頭の整理ができていません。それを考えるために、本書(新システムが発表される前の著作ですが)をこれから読んでいきたいと思います。まずは現段階での思いとして、メモっておきました。



「保育の質」とはなんだろね

「保育の質」とはなんだろね 2011.03.05 Saturday [子育て・教育] comments(0)
このエントリーをはてなブックマークに追加TOPSY









url: http://yamachanblog.under.moo.jp/trackback/235
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...