子どもを社会で育てる、ってどういうこと?

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昨日、テレビでちらっとだけ見たのですが、岡田克也幹事長と石原伸晃氏の討論で「子どもを社会で育てる」ということが論点になっていました。石原氏曰く、それは社民主義であり、ポルポトだと。なんで社民主義がポルポトになるのか、あまりに乱暴で筋違いな発言に驚きました。岡田幹事長は、民主党の指針に「子どもを社会で育てる」があることは間違いがない、と言っていましたが、その具体策についてはよく伝わってきませんでした。たしかに鳩山政権時の民主党は、社民主義的な方向を目指していたと思いますが、菅政権になってからは新自由主義路線へと舵を切ったように見えます。その総括もなしに、社民主義=左=共産主義=ポルポト=悪いものという図式だけで、政治家が話をしていることに改めて脱力しました。社会主義を赤とか悪といって弾圧しようとした、二項対立式の古い政治言語体質です。

まず「子どもを社会で育てる」ということに対するコンセンサスが形成されていなければ、その具体案である子ども手当に対する評価であるとか、現在推進されようとしている「子ども子育て新システム」をめぐる論議(幼保一元化を含む子ども子育て新システムについてはこちらの記事に書きました)も成り立ちません。いまの日本においては、このコンセンサスが欠如しているように感じます。その目指す先のイメージが見えないから、机上の論理だけが先行して、イデオロギーによるヒステリックな批判ばかりが繰り返されます。肝心の子どもはそっちのけで。

各人が育ってきた時代や生活環境も大きく関係するから、世代間による意識の断絶もあるし、万人が共通のコンセンサスを形成するのは難しいかもしれません。それでも子どもの成長はそれこそ待った無しです。子どもこそが未来のこの国をつくっていくということに物理的にも精神的にも反論する人はいないでしょう。「子どもを社会で育てる」とは、そもそもどういうことなのか。

ぼくは、プロフィール欄に書いてある通り、北欧の教育・社会のしくみに憧れています。といっても、北欧諸国の教育・社会のしくみを具体的に詳しく知っているわけではありません。専門家でもありません。じゃあなぜ憧れを持つようになったのかというと、まずはじめにイメージ(像)があったからです。それは、たとえばテレビの旅番組。歴史とモダンが息づく街中を、ベビーカーを押す男性の姿、トロッコのような押し車で子どもを保育園へと連れて行くお父さん、嬉しそうな子どもの笑顔。店先にベビーカーを置いたままちょっとした買い物をするママたち。子どもを中心に談笑が連鎖する街。お互いを信頼する成熟した大人がくらす街。…旅番組の映像や、北欧を特集した雑誌記事の写真などを通して、こういった「おたがいさまのこころ」が息づいているように感じたからです。まずはじめに、イメージ(像)があったから、じゃあどうしてこういう街ができているのか、そのしくみが気になるようになりました。

2003年の記事になりますが、雑誌『ソトコト』の北欧(ストックホルム)の子育てに関しての記事が、その空気をよくあらわしていると感じたので、転載します。

ソトコト 2003年9月号より
『共働き家庭が9割を占める北欧。子どもたちはコミュニティのなかで成長する。』

初夏、ストックホルムの昼下がりの公園。保育園児たちがランチを広げている同じ芝生に、上着を脱いで日光浴する会社員や、静かにくつろぐ老夫婦の姿がある。積極的に関わるでもなく、かといって無視するのでもなく、子どもと大人がおだやかに場所と時間を共有している様子は、この街の「スロー」を象徴するかのように感じる。

(中略)

ストックホルムの街を歩くと、いたるところに、こんなにもたくさんの子どもがいる、という現実にまず圧倒される。大人たちの過ごしている社会や自然が、子どもたちの「地続きの世界」として、家庭や学校のむこうがわに広がっていることを実感する。親や保育者以外の大人たちが、子どもたちとすれちがい、ときに関わり、意識し、つかず離れず見守っている。

(中略)

育児休暇中の経済的・社会的な保障や、復職後の親と子どもをバックアップするきめ細やかな制度など、聞けば聞くほど溜息が出るばかり。たしかに街を歩くだけで、…子連れに対する街の「バリアフリー度の高さ」がわかる。しかし、それにもまして印象に残るのは、子どもを特別かわいがるわけでも無関心を装うわけでもなく、大人たちが実にさりげなく、子どもたちを「近くに感じている」ということだ。

(中略)

東京に暮らす大人たちはこぞって「意識をスローダウン」すべきではないだろうか。ストックホルムではどんなに混んだバスでも、ベビーカーは堂々とゆっくり乗り込んでくる。親をせかすアナウンスも、客たちの迷惑そうな視線もない。東京ではだれもかれもが忙しすぎて、「子どもになんか構ってられない」というのが本音ではないだろうか。ストックホルムの街や人がとりたてて子どもに親切なのではない。子どもが好きな人もいれば嫌いな人もいて、かわいがる人もいれば迷惑がる人もいる。それは東京と変わらない。ただ、そこに子どもがいることに「気付く」あるいは「待つ」時間を、ストックホルムという街はもっている。

保育園の数を増やすこともたいせつだろう。しかし、子どもを専用の場所や時間に囲い込むのでなく、社会という大きな家庭のなかで育てることは、日本古来のスタイルでもあったはずだ。子どもを好きになれ、というのではない。都市としての成熟を目指すとき、子どもの居場所を考えることは、大人の暮らしにも大切なものを取り戻すことではないだろうか。


ぼくは自分が子どもを持つまで、「子どもはかわいい」ということさえ、よく知りませんでした。なんだ、そんなこと、と思うかもしれませんが、そんなことだからこそ大事なんじゃないかと。

数週間前にツイッターでつぶやいたことを転載します。
………

今日夫婦でも話したんだけど、毎日つくづく思う。子育てがこんなにも楽しいことだとは知らなかった。ほんとうに知らなかった。だって、誰もそんなこと教えてくれないんだもん。ここにおおきなおおきな穴があるように思う。この楽しさはもっともっとアナウンスしたほうがいい。共有したほうがいい。

子育ての楽しさを社会が共有できていないことが、不幸を生んでいると思うんです。むしろ子どもがいるほうがリスクが大きいと思っている人が多いのでは。それは、そういうふうにアナウンスされているからです。風潮が。それはとっても悲しいことです。

子どもはカネがかかるし人生のリスクも大きくなるとアナウンスされている社会で、どうして子どもが欲しいと思うでしょうか。子どもを産みたいという女性の本能が無ければ、出生率はもっと壊滅的になっていると思います。男は産みたいって思わないからね、基本的に。

でもね、男も子どもに接することで親の心情が発動してくるものです。自分でもぜんぜん知らなかった感情が、自然に発動する。あるべき父親像なんかを掲げている暇はない。こういうこともぜんぜん知らなかった。

目まぐるしく過ぎてゆく子育ての時間は、感情もアップダウンをくりかえす。いいこともいやなこともけっこうすぐ忘れちゃう。ほんと次々と新しいことが起こるから。振り返るひまがない。だから、子育ての楽しさ(つらさも)が伝わっていかないんだと思う。

世論は机の上にはないし、電話口にもない。それは各人の生活実感の中にしかないはずだから。だからぼくは、親バカなツイートをすることで、いまのこの気持ちを少しでも残しておきたいと思っています。これがいまのぼくにとっていちばん大事な生活の基盤だからです。

ツイッターとiPhoneがなければこのツイートも無かったと思います。いまも息子の隣でベッドに寝転がりながら打ってます。子育ての楽しさ(つらさも)は現場にしかないから。電通の会議室やパソコンの画面の中にはないから。身体感覚に近いメディアとしてのツイッター。技術革新が、ゆるやかなつながりを生み、コミニュティと価値観の新しいかたちをつくりつつあるように思います。
………

「子どもを社会で育てる」とは、そんな大仰で難しいことじゃないと思います。
子どものかわいさを、子どもの笑顔を、子どもの可能性を、大人が知っているかどうか。それが「子どもを社会で育てる」というコンセンサスにつながっていくのではないかと。そこから先の、実際になにか行動するかしないかは、各人の自由でいいわけで。

子連れの家族が迷惑がられて肩身を狭くしなければならないような社会設計の中では、子どものかわいさとか、子どもの笑顔とか、子どもの可能性とかを、身体実感・生活実感として知ることは困難です。実際にぼくも自分の子を持つまでは、ちっとも知らなかったのだから。だから、大人の社会の中に「地続きの世界」として、子どもが存在しているという環境づくりが必要なのだと、ぼくは思います。

子どもを社会で育てる、ってどういうこと?

子どもを社会で育てる、ってどういうこと? 2011.01.10 Monday [子育て・教育] comments(0)
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