新しい公共の芽

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朝。6時に起きて涼しいうちに颯爽とベビーカーを押してお散歩〜、おれってかっこいいイクメン〜、と前日に妄想していたのですが、けっきょく寝坊してしまい、8時。日差しがすでに強くなってしまった中、どうしてもお散歩行きたかったので、まだお寝ぼけの息子を連れ出して公園までとことこ。気温はまだそんなに上がっておらず、木陰の下では風が気持ちよく吹いていました。木漏れ日に照らされる木の葉が透き通っていて、木の幹はやさしく、ふと気がつくと秋の虫の声が。こういう、日本人ならではの情緒的な感性(外国の方は虫の音が雑音に聴こえるという話をどこかで聞いたもので)を大事にしたいなあ、それが豊かな生活になるし、幸せのもとになるんだよなあ、なんて思いつつ、ふむ、出かけてよかったと自己満足に浸っていたら、息子がぐずりはじめたので、抱っこしてなだめていたんです。(あ、そうそう、息子は9ヶ月になります。)

そうしていましたら、3歳くらいの女の子とパパが公園にやって来まして、ブランコできゃっきゃと楽しそうに遊び始めました。パパはずっと笑顔でにこにこ、とっても楽しそうに女の子と遊んでいました(軽く会釈した程度でしたが、こざっぱりとしていいパパでした。見習いたい)。ぼくに抱っこされながら、その様子をじーっと見ていた息子。はじけるように笑う女の子の声に触発されたのか、次第に笑顔に。声を出して笑ってくれました。まあ、よくある何気ない一コマかもしれませんが、ぼくはこの時に「笑顔の連鎖」を感じたんです。そして、新しい公共というのはこの「笑顔の連鎖」の中でこそ動いていくのではないかと。

昼。近所にある「農家のおにぎり屋」に家族3人で出かけました。外から見た感じはあまりきれいじゃないし、なんとなく入りづらいと思っていたのですが、イートインのスペースもあってお気に入りなんだと友人から聞き、試しに行ってみたら、これがなんとも良い感じの、ゆる〜い雰囲気のお店で。屋根裏部屋の2階が座敷になっており、そこでおにぎりと味噌汁のセットを食しました。とても素朴なおにぎり。総菜も手づくりで、地味だけどほっとする味です。ぜんぜん混んでなくて、なんだか人ん家でゆるりとくつろいでるような気分になりました。子連れには、こういうスペースがほんとうにありがたいです。

我々の他にお客さんが一組、5歳くらいの男の子とお母さんがおにぎりを食べていました。ウチの息子に気づいたあちらのお母さんが声をかけてくれて、少し会話をしました。男の子の名前は「うみ」くん。興味深そうに、でもとてもやさしく、息子に触れ合ってくれました(息子はきょとんとしていましたが)。ほんの5分ほど、先に食事を終えたうみくん母子は「じゃあお先に」とバイバイして去って行きました。その距離感がとても「ちょうどよかった」んです。相手の懐まで過剰に入り込みすぎず、かといってよそよそしくもなく。ごく自然で。うーん、なんかうまく言えませんが。子育て中の親にとっては、こういうちょっとした交流でずいぶん気持ちが救われるんですね。ただそれだけで、ほっこりと幸せな気持ちになりました。そしてまた、朝に引き続き、ここでも新しい公共の芽を見た気がします。すなわち、うみくんのお母さんのような、さりげないスタンスこそが新しい公共を作っていくのではないかと。このさりげないやさしさは、自立した「個」から出るものだと思うのです。




子育てに関して言えば、子育て支援センター等のハコもの施設を整備することももちろん重要ですが、それだけじゃないんですね。ハコを作っておしまい、ではない。ハコがあるから安心、でもない。支援センターに行けるのなんてわずかな時間だけだし、その時間はどちらかというと「祭り」に近い。非日常というか。それよりもむしろ、それ以外の時間、大部分を占める日常生活、生活実感と乖離しないような「相互扶助」こそが、親にとってはありがたいわけです。むかしはご近所、地域がそういう相互扶助の役割を担っていたと聞きます。近所の人間関係が希薄になった現在、ではどうしたら公共の立場での相互扶助が成り立つのか、ぼくにはわかりません。ただ間違いなく言えるのは、ぼくが今日の朝や昼に感じたような、日常の生活の中にこそ「新しい公共」の芽が在ると思うんです。(だから例えば、大資本系の企業ばかりでなく、そういう派手で綺麗で経済活性化にいかにも役立ちそうなお店とは対極にあるような「農家のおにぎり屋」にも補助金を出して相互扶助のコミュニティの場にしてもらうとか)

「新しい公共」をかたち作るのは、言うまでもなく、ぼくたち市民ひとりひとりです。内田樹さんや平川克美さんが言っていましたが、そこでは「公民=citizen」という意識が欠かせません。「公民」と言うとすぐに社会主義的とか滅私奉公的なイメージを持たれる方もいるかもしれません(ぼくも少し前まではそう思ってました)。でもそれはもう古いマインドセットです。先日の記事にも書いたように、「公」は滅私奉公、ボランティア精神では成り立たない。だって、それじゃあやってるほうが楽しく無くなるから。持続性が無い。「新しい公共」は自発的なものであるはずだし、「自分のやれる範囲」で、「やりたいこと」をやるものだと思います。そこでの人間関係は、浪花節的なウェットなものではなく、うみくんのお母さんのような、さりげない、ドライな距離感。自立した「個」が繋がる中で、笑顔の連鎖が生まれることをぼくは夢想しています。テレビの中で報道されるよりも、人はもっとずっとゆるくてやさしい生き物です。(それを観念でなく実感で教えてくれたのは息子の存在。いろいろと教えられる日々です。)


鳩山内閣において内閣官房副長官を務めた、参議院議員の松井孝治さんが新しい公共について積極的にツイートされていますので転載します。
松井孝治Twitterより
書生じみているかもしれないが、やっぱり政策論争、しかも国民の生活や経済実感とかけ離れないところでの政策論争が必要だと思います。地元の有権者の皆さんと話しての実感。この週末から自分なりに動きます。

日本の文化を語れる政治家を育てなければ。経済も生活ももちろん大切。それらは必要条件。でも十分条件ではない。自国の文化を高めることがその国の教育や経済や政治の一義的な目標なのではなかろうか。

国家戦略局。そこが行政各部を超えた国益追求のためのパワーを持つためにも予算編成権を持つことは必要不可欠。でもそれだけにとどまってはならないと思います。もっとも重要なのは日本の文化を高めるための文化戦略だと思う。

僕が「文化」というとき、狭い意味での芸術文化もさることながら、中央の「官」だけでなく、地域の人々が「公共」をささえるような、社会のありようまで含みます。豊かな日本独自の「文化」を更に深化させたい。前提として経済が大切であることとも、他国の文化を尊重することとも両立すると思います

「人間のための経済」。鳩山演説で問いかけたこと。2000年代、マクロ経済はそれなりには成長した。マクロの成長も必要。ただ、国民生活がどこまで豊かになったか、地域の絆が強化されたか、地方が空洞化していないかを振り返り、今の日本に必要な経済社会政策を立案しなければ。

その議論の中で、思い切った地域主権、「新しい公共」。これらは経済の活性化のためにも重要という方向性を、前内閣では見出しました。


文化は、人の営みの中にこそあります。
ぼくが今朝感じたような日本人ならではの情緒も、生活にゆとりが無く食べていくだけで精一杯の状況ならば、そんな気持ちも生まれないでしょう。ぼくは願わくば、息子にも、そういう豊かな感性を持って欲しいし、豊かな文化を「楽しんで」欲しい。そのための経済政策であって欲しい。だから「国民の生活が第一」なんです。松井さんのご意見に賛同します。

ちなみに、ぼくが北欧の社会に憧れるのは、政治学だとか経済学だとか教育のあり方とかいうシステム的な問題もあるけれども(難しいのでよくわかりませんが)、テレビの旅番組などで見る現地の市井の人が、おだやかで幸せそうな顔をしているなあとしみじみ思うからです。人々が信頼し合って暮らす、合理的で大人の「成熟社会」なのだろうと想像できるからです。生活実感こそが第一。文化は人から生まれます。


新しい公共の芽

新しい公共の芽 2010.08.29 Sunday [妄想] comments(0)
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