仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス

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まさかこの日が来るとはね。

うちの息子はクルマがほんとうに大好きで。1歳の頃は道路を走る自動車を見るだけで喜んでいたし、早起きした日は近所の始発バス停まで見学に行ったり(思い出)。バス→緊急車両→スポーツカーと、車種への興味が移るとともにトミカは増えていく一方だけど、ほほえましいもんだった。ディズニー映画『カーズ』シリーズも大好きで、カーズトミカは塗装がボロボロになるくらい飽きもせず遊んだ。

小さなミニカーを、小さい手ではさんで「ぶーぶー」と一生懸命にやる様子は、やっぱり可愛いです。年齢が上がるにつれ、「ぶーぶー」の速度がはやくなり、衝突は激しくなり、パトカーの逮捕が頻出するようになってきたけど、それでもやっぱりうちの息子はクルマが好きなんだなあと思ってた。男の子は「クルマ派」と「ヒーロー戦隊もの
派」に分かれるそうだけど、うちはクルマ派だよね、なんて安心してた。

いやですね、子供が生まれる以前から、夫婦ともに「ヒーローものはちょっとね…」という見解だったんです。だって、暑苦しいし、うっとおしいじゃないですか。絵に描いたような「正義の味方」っていう構図も、ひねくれ者のぼくとしてはなんだかなあで。ましてや、いやこれがいちばんの理由なんだけど、まあなんと言いますか、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか。痛そうだし。

だから、たまにその手のテレビ番組を見せてもあまり興味を示さなかったという経緯もあり、うちの息子は「クルマ派」でほんとよかったねえ、なんて高を括っていた。

しかし。

来たんですよ、うちにも。あいつらが。


画像は東映より



断っておきますが、只今絶賛放映中の『仮面ライダー鎧武(ガイム)』も、『キョウリュウジャー』も、息子はテレビ放送を見ていません。前日の夜に「見るー」と言って意気込むも、当日になると「(悪者が怖いから)見ない」となり、本編はほとんど見ていないのです。

なのになぜ、うちにこいつらが上陸してきたのか。

おそらく保育園の影響かと。彼にもマブダチができたようなのです。朝、保育園に送り届ける親の身体からなかなか離れようとせずにぐずぐずしていた息子が、いまではお友だちの待つ教室へ振り返りもせずスタコラサッサと走っていくようになりました。毎日のように、チラシの裏紙で作った剣や手裏剣を持ち帰ってきます。毎日のように、お友だちと「戦いごっこ」をしているそうです。『キョウリュウジャー』や『鎧武』の名前が頻出するようになったのは、「戦いごっこ」を愛する彼らにしてみれば当然のことでしょう。

そんなわけで、見てもいない『鎧武』『キョウリュウジャー』に登場するアイテムについてあれこれ喋るようになるわけですが、こちとら番組を見ていないのでよく分かりません。「ブラック」や「ゴールド」の靴下、コンビニで売ってる「ロックシード」を買ったりしてお茶を濁していましたが、いよいよ逃れられないビッグイベントがやって来ます。世界中の大人たちが同じドッキリに参加する暮れのあの日です。

一ヶ月ほど前から、クレヨンでまるを付けたカタログを見える場所に飾り立て、毎日のようにそのポジションをチェックし、サンタさんがこれとこれをくれるんだと主張していた商品がこちら。



いやあ、まさかこの日が来るとは。こんな俗なものをこの俺が…。はじめは難色を示していた私(だって、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか)ですが、しょうがねえなあと調べていくうちにだんだんおもしろくなってきました。

最近の仮面ライダーはカニやパイナップルを被ってるのかと目を丸くしていたアレが、カニの甲羅ではなくてオレンジであったこと。もはや仮面ライダーという面影はなく、戦国武将をイメージした新しいキャラもの(ライダー同士で戦う戦国時代だそうで)と考えたほうがよさそうなこと。果物をモチーフにした「ロックシード」をベルトにロックオンすることで、同じ果物をモチーフにした兜や鎧が装着され、ライダーに変身すること。そしてバンダイが販売する「ロックシード」には2種類あること。

すなわちコンビニ等で売られている「サウンド・ロックシード・シリーズ」とトイザらス(地方都市では玩具やと言えばもはやトイザらスしかありません)で売っている「DXロックシード・シリーズ」(参考)。なぜこんなに価格が違うのかと不思議でしたが、例の「ベルト」や「セイバー」に装着した際に、光と音が連動するものとしないものの違いだったようです。なんだか、とてもややこしいのです。

子供向け(というか親やじじばば向け)の抱き合わせ商法というか、はじめにアイテム販売ありきで番組が作られているという匂いがぷんぷんします。主人公の鎧武はすでに「オレンジ」と「パイナップル」。これから節操なく新しいロックシードがばんばん登場するわけです。おまけにこれ価格設定が高いですよ。トミカの可愛らしい価格に比べると、バンダイ恐るべし。

と、ぶーたれながら、それでもまあこれだけ欲しがってるんだから年に一度くらいいいだろうと意を決してサンタさんにお願いしました。ふしぎなもので、手配してしまうとだんだん好きになってくるんですね。今までにないタイプの仮面ライダーでなかなか良いじゃないかと。多彩なロックシードも、男子にありがちな収集癖をくすぐります。

そして何より、欲しかったモノを手にしたときの息子の表情。



「サンタさん来てくれたんだね」と目を輝かせる4歳児に、こちらがぐっとくる。前日まで「いい子にしてないとサンタじゃなくて妖怪が来るよ」と散々脅していたので尚更。
この日は、朝から晩までベルトを付けたり取ったり、ロックシードを何度も付け替えて、音とアクションを楽しんでおりました。いつのまにか操作も手慣れてきて、ひっきりなしに「ロォックオォン」だの「オォレェンジパァワォー」だの喧しいことこの上無しですが、まあ好きなだけやりたまえという気持ちになりました。

ちなみに武器を手にした彼、いつもより威勢の良い台詞を口走るようになりまして、ああ大きいクルマに乗って人が変わったように強気になったり、戦闘機に乗ってポーズを決めたりするのは男子の性なんだなと思ったことも書き留めておきます。戦闘機に乗ってポーズを決めて喜ぶ政治家の気持ち悪さって、軍国主義者うんぬんというよりも、4歳児と変わらないその幼児性にあるんじゃないかな。そういうのは子供のうちに卒業しておこうよ。


娘(1歳)にはキッチンが届きました。



こちらも一生懸命に遊ぶすがたは、めちゃくちゃ可愛いです。


イブの夜、息子からママにサプライズ的な告白があったそう。ぼくら夫婦にとっては非常に感慨深い出来事なのですが、これは夫婦だけの胸にしまっておくことにします。こうして家族4人でクリスマスを過ごすことができる幸せを噛み締めながら。


子供が二人になってから、その数倍くらい子育ては大変になりまして、出るのは愚痴ばかり。傍若無人な子供らに毎日イライラして怒りっぱなし。それでも、こういう日くらいはしみじみするのです。きっとどんな親だってそうでしょう。だからこの壮大なフィクションに世界掛かりで乗っかり続けるのです。

Merry Christmas, and I love my family.

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仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス

仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス 2013.12.25 Wednesday [子育て・教育] comments(0)
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スマホ子守やめてという正論やめて

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昨夜、寝る前に目にした記事。

スマホ子守やめて…小児科医会 啓発へ - 読売新聞

「スマホに子守をさせないで!」。日本小児科医会(松平隆光会長)は、乳幼児の心身の発達への影響が心配されるとして、来月から、スマートフォンの利用を控えるよう保護者に対し啓発活動を行う。

スマホの普及に伴い、絵本やパズルなど乳幼児向けのアプリも増えている。中には100万回以上ダウンロードされている人気アプリもある。スマホを子供に渡して、こうしたアプリで遊ばせたり、アニメの動画を見せたりして、放っておくケースもあるという。

 東京都内の1歳児の母親(32)は、「子供が外出先でぐずると、つい渡してしまう」と打ち明ける。

 今月1日には乳幼児向けアプリを企画・販売する企業が、乳幼児のスマホ利用のガイドラインを独自に作成した。「親子で会話をしながら一緒に利用しましょう」「創造的な活動になるよう工夫しましょう」など5項目で、ホームページで公表している。

 ただ、日本小児科医会の内海裕美常任理事は「乳幼児期は脳や体が発達する大切な時期。子供がぐずるとスマホを与えて静かにさせる親がよくいるが、乳幼児にスマホを見せていては、親が子供の反応を見ながらあやす心の交流が減ってしまう」と指摘する。また、画面をなぞるだけの仮想体験を重ねることが、手の機能や五感を育むことに影響を与えかねないと心配する。


気持ち悪い記事だなあと思いつつ、眠かったので深く考えずにそのまま入眠。
翌朝、さっそくこの記事に噛み付いているやまもといちろうさんの記事を目にして、たいへん共感しました。実際に現在進行中で子育てをしている親からしてみれば、やまもとさんの言っている内容に頷くことのほうが大きいと思います。少なくともぼくは、ほとんど同意です。

「スマホde子守」の是非(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

基本的には、レストランや電車などの公共交通機関など、騒いで欲しくない局面で必ず騒ぐ仕様になっています。この親の顔が見たい状況に陥るのは、私たち親の教育が悪いのではありません。そこに子供が登りたがる高さのソファーだったり、子供が投げやすい形状の調味料入れがあったり、くぐって腹ばいになるのに適した大きさのテーブルであるとか、騒いでいる子供を見ると露骨に嫌な顔をする年寄りやカップルに責任があります。

(中略)

朝から晩まで頑張って育児していても、何でもするのが子供というものであります。

私たち夫婦が何も悪くないということを存分に読者に印象付けたところで、出てまいりますのはこちらのiPad。もうね、これのお陰で父親母親が人間らしい生活が送れるのだといっても過言ではないほど、大騒ぎが日課の兄弟には抜群の効果をもたらしてくれます。最高。

(中略)

こんなスマホで少しの時間大人しくしてくれて、他人に迷惑がかからず親も息抜きできるんであれば、そう多くない時間与える分には何の問題もないのではないでしょうか。


もうまったくその通りでして、大人が「言ってきかせる」ことが出来るんなら、誰も苦労しないですよ。日本小児科医会のお偉い先生方によれば、まるで、子供にスマホを見せている親は子供の反応を見ていないとでも言いたげですが、スマホを与えてでも静かにさせなきゃいけない、というところまで親を追いつめているものは何なのかについて、少し思いを巡らせたらいかがかと思います。

おそらくいつの時代にも繰り返されてきたであろう「しつけ論」。親学や道徳教育やらといかにも親和性の高そうなご高説です。それらは「正論」という顔をしています。ぼくが気持ち悪いと感じるのは、その多くが紋切り型の定型文になっている点と、それらが自身を戒めるためのものではなく他人を貶めるためのもとして機能しているからです。

子供が「騒ぐ」「ちゃんとしない」のは、親がちゃんと「言い聞かせない」のが悪いからだと。子供の育ちにとって、家庭での環境が第一のベースになることはその通りだと思います。家庭での教育が最重要であることも頷けます。しかしだからといって、「悪いとき」だけ親のせいにされるのではたまったもんじゃありません。ふだん「言い聞かせ」していないとでも?というか、なんでそういう時だけ他人の子供の教育に首をつっこみたがるのか。あんたそんなにおとなしく大人の言うことをきく「良い子」だったのか。

そりゃあね、「親が子供の反応を見ながらあやす心の交流」で、子供が公共の場で「良い子」にしてくれるんなら、それにこしたことはありません。そりゃあね、安易にスマホを見せて静かにさせることに躊躇がないわけじゃないですよ。出来ることなら、「言ってわかる」子になるような家庭教育を実施したいですよ。だけど、それはあくまで机上の論理です。現場を無視した理想論です。

読売新聞の元記事が、印象論だけで書かれた粗雑な論旨なので、ぼくも印象論だけで書きます。自信をもって他人に語れるような子育てをしているわけでもありませんし…。

しつけって要はルーティンワークなわけじゃないですか。「言えばわかる」というのは結果的にはそうなのかもしれませんが、何回言ってわかるか、何万回言ってわかるかはその子の個性によります。数式だってすぐに覚える子もいればなかなか覚えられない子もいる。逆上がりだってそうです。向き不向きにもよる。しつけも同じようなもので、同じことを延々と何万回も言い続けることで、ある日とつぜんに出来るようになるのだということを聞いたことがあります。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うことを聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。いつかわかるようになると思わないとやってられません。じゃあその「言ってわかる」までの回数が、子供の善し悪しを決めるというのでしょうか。

おそらく、こういう「しつけ論」をぶつ人って、子守りをしたことのない人か、子育てがスムーズにいった人かのどちらかでしょう。子育てがうまくいったというケースは、それが親のやり方がよほど良かったのか、子供の性格が良かったのか、それともたまたまだったのかは分かりませんけれども。いずれにしても、自身の成功体験を子育ての極意みたいにすべての子育てに当てはめて上から目線で語るのは、そこから外れる人への圧力にしかなりません。子供の性格や育ち方は千差万別ですし、誰だって望んでガミガミ叱ったりしたくなんかないし、それが「しつけ」なのか自分の怒りの感情なのか判然としない境界線上で揺らぎながら子供と向き合っている親御さんのほうが多いと思います。

それと、大人の「言うことをきく」子がほんとうに「良い子」なのか。それって「大人の都合」という物差しでしか見ていないんじゃないか。という問いかけは自分の中に常にあります。もちろんだからといってすべて「子供の都合」に合わせていたら生活が成り立たないことは重々承知しています。これは答えのない問いです。

「正しい子育て」なんて存在しない。スマホが普及してから、たかだか数年です。子供の成長に与える影響を判別するにはスパンが短すぎる。というか、子供にとって良い影響か悪い影響かだなんて、誰がどういう基準で決めるんでしょうか。「誰かの都合」にすぎないってことはないでしょうか。


印象論を加速させます。読売新聞の元記事が気持ち悪いのは、「いまの親はダメだ」という個人的印象に基づいて、その印象を増長するための論旨展開でしかないからです。1歳児の母親のなんてことない台詞を、まるで悪いことをしているかのように「打ち明ける」と表現したり、「スマホを子供に渡して放っておく親」というイメージに基づいてミスリードしていることが端々から垣間見える。新しいモノが登場すると必ず表出するアレルギー反応にも見えます。

子供の「ゲーム脳」を問題にするより、こういう記事を書く「偏見脳」のほうがよっぽど害悪だと思います。自分らの頃にはこんな便利なものは無かった、というやっかみ以上にこのような「啓発活動」を行う理由があるんでしょうか。「正論」をぶつ自分に酔ってるだけじゃないの。こういう「啓発好き」な人にかぎって、公共の場で子供が騒ぐのは親のしつけが云々と説教を垂れて親を追い込むわけで。何の躊躇もなくスマホを与えて放っておく親、というモンスターペアレント像は、「啓発好き」な言説が作り上げた虚像に近いと思います。子供にスマホを見せたその一瞬だけを切り取って、親の教育が云々言い出すのは、あまりに早計で稚拙です。

くり返しますが、親の言動が子供に与える影響は間違いなくあります。そんなことは、多くの親御さんはわかってます。わかってる上で、スマホを使うことだってありますよ。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うこと聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。もう毎日おなじことでガミガミくり返し、こっちが嫌になります。それでも言い続けずにはいられないのは、親だから。何万回と言い続けることでいつかわかるようになるというのを信じるしかない。だけど四六時中子供と向き合っているだけの時間はありません。それに親だって疲れるし、休みたいときだってある。それを上から説教されたり、冷たい視線を投げ掛けられたりするのは、無言の同調圧力という刃にしかなりません。なんの助けにもならない。

たまたま外で見かけた他人の子育ての一コマを、勝手に脳内でモンスターペアレントに化けさせて、勝手に憂いて、勝手に正論を押し付けるのは、あんまり良い趣味じゃないと思います。日本小児科医会という「権威」を装ってこういう記事を吹聴するのはやめていただきたい。と、こういうことを書くのもあんまり良い趣味じゃないですが、愚痴りたかったので。駄文失礼しました。


スマホ子守やめてという正論やめて

スマホ子守やめてという正論やめて 2013.11.18 Monday [子育て・教育] comments(5)
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『フィンランド流イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て』、『コウノドリ』、そしてぼく自身の出産立ち会いについて

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フィンランドのイクメン事情 ミッコ・コイヴマー氏の記事より

これ、とてもいい記事だと思います。
「イクメン」という言葉がない国フィンランド―ミッコ・コイヴマー駐日フィンランド大使館参事官に聞く"世界一幸せな子育て" - ハフィントン・ポスト


(画像はハフィントンポストより©大河内禎)

まあ、ぼくが北欧ラブなオタクであることは差っ引いて考えなければならないとしても、にしても、北欧における子育ての記事を目にするたびに、ぼくはため息が出てしまうのです。なにも北欧を無条件に礼賛したいとか、駐日フィンランド大使館のゆるキャラ「フィンたん」から袖の下を握らされたというわけではありませんが、なんというか、「憧れ」の気持ちですかね、素直に尊敬しちゃう。こういう社会が形成されているという事実に。

この記事では、フィンランド政府の子育て支援が充実している理由として、男女平等に対する意識を挙げています。フィンランドでは、「男性も育児をすることは普通なこと」。ミッコさんのように妻と協力して育児をする男性がとても多いそうです。なぜなら、「フィンランド人男性は男女は平等であると考えており、子育ての権利や責任についても公平に分かち合うべきだと考えている」から。
フィンランドは「世界で3番目に女性が参政権を得た国であり、世界で最初の女性議員が誕生した国」であり、「国会議員も5割近くが女性」なのだそう。

「男女平等」という視点、たいへん重要だと思います。

以前、クーリエジャポンの「ノルウェーの幸せな母親たち」という特集について紹介しました(北欧の子育て事情を支えるもの)。同記事の中でとりわけ印象的だったのが、この文章。

保育園の受け入れも、父親の育児休業も法律で保障されているこの国の根底にあるのは、男女が同じように働き、同じように家事をすることが、合計特殊出生率の上昇につながるという共通認識だ。


3児の母でもあり、現在の出生率上昇に大きく貢献したというノルウェーの女性大臣は「いま私たちが手にしている権利は、政治的決断の結果です」「男女が平等な社会を実現させるための政策は、経済を潤す石油よりも大切です。」「私たちが実現した政策は、社会の接着剤のような役割を果たしているのです。男女が同じように家事を行えば、離婚率が下がり、出生率も上がるのです。」と語っています。

この大臣の発言はとてもユニークですよね。男女が同じように家事を行えば離婚率が下がり出生率も上がるだなんて、日本だったら笑われるかもしれない。でも実はそれこそが核心なんじゃないかと思います。

日本の男性にとって「子育て」は異次元の世界であり、妻にお任せの場面があまりに多く、「自分とは関係ない」世界になってしまっていることが多かったと思います。戦後日本のロールモデルでは、父親が子育てにタッチすることは少なかった。核家族化が進む中で、お父さんは会社で夜遅くまで働き、お母さんがひとり育児に奮闘するのがふつうだったわけです。右肩上がりの成長を続ける日本企業の、年功序列や終身雇用といった企業制度が、ある種の社会保障的な役割を果たしていたという側面もあります。

しかし社会構造の変化とともに共働きがデフォルトになってきたにも関わらず、人々の意識にあるロールモデルがまだ「働くお父さんと家事をするお母さん」から抜け出せないために、いろいろな歪みが生まれているのだと思います。共働きでなければ生活が成り立たないような現在の日本の社会構造の中で、年功序列や終身雇用といった企業制度が崩れ、社会保障も杜撰であるならば、子どもを持つことによってリスクと負担が増えるということを考えれば出生率が下がるのは合理的に考えて当然のこと。もはや右肩上がりの経済成長など望めないのは明らかであるから、ロールモデルを書き換えなければならない。

・・・はずなのですが、いまの日本では子育て世代が少数派であるらしく、子育てに関する社会保障を手厚くするのは難しいかもしれません。子ども手当の処遇をみれば、それは如実に表れている。じゃあ、日本はこのまま「子育てしにくい社会」を堅持していくのか。政府が打ち出す子育て支援策が、ことごとくママたちから総スカンを食うのはなぜか。

ノルウェーの大臣は、なぜ男女平等な社会が出生率上昇につながると思ったのか。デンマークでは、なぜ買い物に行っても赤ちゃんを乗せたベビーカーを店の外に置きっぱなしにできるのか。北欧の充実した社会保障はいったいどこから生まれているのか。



ハフィントンポストの記事を読んで、ミッコ・コイヴマーさんが書いたという著書も読んでみました。そのタイトルはどうなの、というつっこみはさておき。



フィンランドにおける育児についてのコンセンサスは、同国での男女平等に対する意識の高さに由来するという、先述の記事を読み、フィンランドの育児事情とりわけ政府による財政支援の内実を詳しく知りたいと思って本書を手に取った人は(って、ぼくもそうですが)、ちょっと肩すかしを食うかもしれません。

本書は、フィンランドにおける子育て政策がどのように変遷してきたか、またその根幹となる男女平等に対する意識はどうやって培われていったのか、などについてはあまり紙面が割かれていません。ある程度、北欧の社会制度について興味のある人であれば、すでに知っているような内容が多いので、入門編といえるのかも。

その代わり、ミッコ・コイヴマーさん自身が父親になっていく上での体験談が本書のメインになっています。ミッコさんがどのように妊娠・出産と関わり、育児休暇をどのように過ごし、どのように子育てに関わり、何を感じているのか。パーソナルな内容ですが、そのぶん男性として共感できる部分も多く含まれています。というか、実はパーソナルな体験こそが大事であって、ミッコさんのような考えの人が多いからこそ、フィンランドの子育て政策が立案されていくわけです。

とはいえ、フィンランドの男性も昔からイクメンだったわけではなく、ミッコさんの親世代あたりはフィンランド人らしくシャイで寡黙ないわゆる「男性的」な男性が多いそうです。社会的にも始めから男性の育児休暇に寛容だったわけではなく、80年代後半には有名企業のCEOが「育児休暇をとる男性従業員は、職場に復帰すべきではない」と発言するなど現在とはまったく価値観の異なる社会だったとか。
それがなぜ、この数十年で男女の定義やアイデンティティについて大いなる変化があり、子供やパートナーへの愛情を大っぴらに示すようになり、「男性も育児をすることは普通なこと」となったのでしょうか。

(そのまんまですが、)子育てに携わるようになったから、だと思います。
すなわち、「男女が同じように働き、同じように家事(育児)をすること」です。

ミッコさんは以下のように語っています。
『フィンランド流イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て』より
子どもが生まれる前なら、男女はふたりの個人でいられます。しかし子どもが生まれたら両親は「チーム」となり、互いに助け合わなければなりません。


男性がこのことに気づくこと。身にしみて体感すること。
それが「イクメン」の第一義的価値であり、その結果として、「父親は子どもと一緒にいたいと思っている。今日のフィンランド社会はその考えを受け入れ、奨励さえしている。」という流れにつながっていくのだと、ぼくは思っています。

一般的に、“労働”に対する「たいへんさ(苦労)」と「やりがい(幸せ)」は、日本では老若男女にとてもよく認識されています。苦労は買ってでもしろとまで言う。けれども、“子育て”に関する「たいへんさ(苦労)」と「やりがい(幸せ)」はあまり認知されていない気がします。やってみないと分からない。ぼくも自分が子どもを持つまで、子供にまつわることなんて、ほとんど何も知りませんでした。自分が子を持ってみて、はじめて知る世界のなんと多いことか。視界がまるで違う。

ぼくは自分の子が生まれるまで、自分が子供を持つなんて想像もできなかったし、他人の子供にもほとんど関心がありませんでした。ところが、子供が生まれることで一変しました。生まれ変わったと言ってもいいかもしれない。子供の存在がこんなに愛しいものだとは知らなかったし、育児がこんなにしんどいということを身を以て知りました。そうすると、妻との連帯意識が強まったのはもちろん、ふしぎなことに他人の子も可愛く思えてくるようになり、親への感謝の気持ちも生まれ、いろいろなことに寛容になりました。それまで無関心だった政治のことを考えるようになったのも、子どもがいたからです。目の前で日々じぶんのちからで成長していく我が子のすがたを見ていると、ああ、世界をつくっていくのはまぎれもなく自分自身なんだと気づかされるし、そうして、未来の子どもたちが暮らす社会をつくるのが、いまの一票なのだと初めて知りました。



出産と向き合う 漫画『コウノドリ』より

子育ては、自分自身の弱さと向き合うことでもあります。

見たくないけど、そこにあるものを見ないといけない。
自分が思い描く台本通りになんか何ひとついかない。
子育てはそんな日々でもあります。

雑誌「モーニング」で連載中の『コウノドリ』という漫画が話題になっています。産科医を主人公にした、妊娠・出産がテーマの漫画が男性誌で連載されているというのも、時代の流れだなあと思いつつ。



こちらで第4話まで試し読みできます。ハンカチをご用意してご覧下さい。
コウノドリ / 鈴ノ木ユウ - モーニング公式サイト - モアイ

「出産は病気ではない。だから通常の出産に保険はきかない。産科医療は怪我や病気を治す訳ではない。なので通常の出産に産科医は必要ない。だが、何かが起こりうるから産科医は必要なのだ──。」

命が生まれるということが、いかに奇跡的なことであるか。
医療技術の進歩により、「何かが起こった」場合の赤ちゃんの命が助かるケースも増えました。しかし出産とは、もともと母子ともに生きるか死ぬか、文字通り命がけの出来事です。
そんなことを、ぼくがいくら力説したって説得力ありません。10ヶ月間、自分のお腹の中で新しい命と、そして体重と、アップダウンする精神と対峙し続ける母親が持つリアリティ。鼻の穴からスイカを出すとか、鬼の金棒をぐりぐり回しながら尿道から出すなどと形容される出産の痛みに比べたら、男性が浮ついた言葉で飾り立てたキレイゴトなんて、お花畑に毛の生えた程度のものでしかない。

上記『コウノドリ』試し読みの中で印象的だったシーン。



授かった第一子が無脳症だという事実に直面した夫婦は、夫と妻がそれぞれ極限まで思い悩み、苦しみ、すれ違っていきます。「まかせるよ。産むのはお前だから。」夫のこのセリフが、妻にとってどれほどショックであるかは言うまでもありませんが、男性ってこういうことを言ってしまいがちでもあります。見たくないものを、見ないようにする。見たくないものからは、目を背ける。それを正当化するためにあれこれ理屈をこねる。現実と向き合うのが怖いほど、男とは理論武装をしたがるものです。ぼくも自身の胸に手を当ててみればそういう傾向がある。だから、このシーンにどきっとした。自分を戒める意味でも、そう思います。

母親にとってお腹の中の新しい命が「私の赤ちゃん」であることに異論は無いし、その世界観において男は到底かなわない。と同時に、「私達の赤ちゃん」でもあるという事実。女性のように、自らの体内で鼓動を感じることは出来ないし、それを実感することはなかなか難しいことでもあります。パートナーと寄り添うことで、少しずつ育んでいくしかないのだろうなと。



ぼく自身の出産立ち会いについて

ぼくには現在、3歳の息子と1歳の娘がいます。2度とも出産に立ち会いました。上の子は予定日ぴったりで、陣痛室から13時間での出産、下の子は予定日から数日遅れて陣痛室から2時間ほどでした。幸運にもどちらもフリースタイルでの自然分娩で、ぼくの唯一の仕事はへその緒を切ったことぐらいです。あとは、ほんとうに、一緒に「居ただけ」です。

出産時にビデオカメラを回すという行為が、ぼくには理解できないので(それ後から観るの?)それは無しにするとしても、のたうちまわり続ける目の前の妻に対して、何かしてあげられる、役に立つことがある、と思ったら大間違いです。何もできません。薄暗い陣痛室で十数時間、何もできません。じゃあ立ち会いなんてしなくてもいいんじゃないか。理屈で言うとそうなりますが、そうじゃない。

何もできない無力な自分と向き合うこの時間こそが、出産立ち会いの意味なんじゃないかとさえ思います。


第二子出産の翌日に、ぼくは以下のようにツイートしています。

陣痛の耐えがたい痛みに苦しむ妻を目の前にして、夫に何ができるか。はっきり言うと、何もできない。余計な手出しをするとかえって邪魔になるくらい。でも、何もできないのと何もする気がないのは違う。何もできないのにそこに居続けること。

何もできない自分を嫌というほど見せつけられること。それが出産立ち会いの大きな経験になっている。

何もできないこと。だったらはじめから何もしないということと、何もできないけどそこに一緒にいること。あるいは実際に何かをしてあげることが、相手の望むことなのか、それとも何もできない自分を誤魔化すための行為だったりはしないか。寄り添うということの意味。

(ツイート引用ここまで)


「イクメン」とは何か。子供の面倒をみることか。家事を手伝うことか。たしかにそれも重要です。子育てに決まった型があるわけではないし、役割をどう分担するかは、それぞれの夫婦で決めればよいことです。ミッコさんは、フィンランドでは「男性と女性の定義と役割は自由でフレキシブルである」と語っています。
いちばん大事なのは、そういったことを通して、夫婦で協力し合って子育てに携わることで、子育ての空気を「共有」することだと思います。いままで「母親」だけに過剰に偏っていた「育児のこと」を、夫婦が一緒に考えていくことが、いちばん大事だと思います。

上の世代からは「なよなよ」しているように見えるかもしれないけど、病院の産科で見かける若いパパのやさしそうな雰囲気は、決して「弱さ」の現れってわけじゃないだろうと思うんです。べつに、女性や子供に迎合しているわけじゃない。そうしたいからしているのです。



フィンランドではどうしてイクメンが多いのか。なぜ、フィンランドの父親は子どもと一緒にいたいと思っているのか。「(子育ては)とても大変です。自分の自由時間は、ほどんどないです。でもその代わりに日々、成長して学んでゆく子供を愛することは、とても楽しいです。子育ては大変な仕事ですが、代わりはありません。」というミッコさんの言葉に集約されていると思います。

『フィンランド流イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て』より
僕の人生に息子と娘が登場したからというもの、彼らなしの人生は想像できなくなりました。子どもたちが生まれる前の自分を想像することは、思い出すのも難しいくらい。仕事が終わった後の自由な時間はどう過ごしていたんだろう?エリサと僕、ふたりきりの生活はどんな感じだっただろうか?いま思えば、その頃の自分はいまとはまったく違う人間でした。


子供が生まれることで、女性は変わるとよく言われます。
それは、男性も同じなのだと、ぼくは自分自身の体験からそう思います。

第一子が産まれたその瞬間。
なんだか分からないけど、ぼくは涙が止まりませんでした。嗚咽といっていい。生まれたばかりの赤ちゃんも、痛みに耐えぬいた妻も、愛おしくてしょうがなかった。命が誕生する瞬間の、あの空気を夫婦で「共有」したこと。それから、その日の夜にはじめて3人で「お泊まり保育」したこと。ぼくにとってあの体験が、子育ての原体験になっています。



『フィンランド流イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て』、『コウノドリ』、そしてぼく自身の出産立ち会いについて

『フィンランド流イクメンMIKKOの世界一しあわせな子育て』、『コウノドリ』、そしてぼく自身の出産立ち会いについて 2013.07.30 Tuesday [子育て・教育] comments(0)
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「予測不能」という豊穣性

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なんだか中身のよく分からない「成長戦略のメッセージ動画」を発表した安倍晋三首相。株価を乱高下させ、おそらく大きくはじけるバブルとなるであろう「大胆な金融政策」、数十年前と同じ手法の大型公共事業による土建屋への「機動的な財政政策」。首相はこれらの政策による実績を強調していますが、少なくとも山形在住の一市民としては「生産も消費も確実に良くなって」いるという実感は、まったくありません。

諸々突っ込みどころの多い安倍政権ですが、中でもぼくがいちばん危惧しているのが「教育」分野です。このことは、安倍さんが自民党総裁に選ばれた時点で記事を書いています(戦後レジームという欺瞞)。

教育が国の未来をつくる基本だという前提には異論はありません。その通りだと思います。しかし往々にして混同されるのですが、しつけと教育は異なるものだと思います。自民党が主張している「教育」とは、しつけ的な要素が色濃く感じられます。「なんでも知っている」大人側が、「なにも知らない」子供に対して、正しい価値観を教授するという構図なのです。そこで主張される「正しい価値観」というものが「単一の価値観」として取り扱われ始めると、おかしげなことになります。

「反TPP」は「左翼」であると発言した安倍首相。その左翼が捏造したという「自虐史観」を払拭するために教科書を直そうというのが安倍首相の考える「教育再生」である。右翼思想であり、軍国主義へとつながる恐れがある。はじめは、そう思っていました。たしかにそういう側面もあります。だけど、そういうイデオロギー的な面よりもっと多くの人が共有出来る「単一の価値観」があります。安倍政権の唱える教育再生は「成長戦略」とむすびついています。「グローバルな人材」を育成するのがその柱とされています。海外で活躍できる人材を、と言いますが、それってつまり、グローバルな市場で「使える」コマを育てる、という意図があるわけですよね。一歩間違えれば、社畜育成と紙一重になる。グローバル市場には、グローバルな基準でグローバル企業が蓄積してきたノウハウがあります。つまり単一の価値観(答え)です。

実際に、自民党の「教育再生実行本部」が画策する「教育再生」とは、子供たちが「自分で考えるちから」を再生していくというような教育改革ではありません。あくまでも大人側が主体となって、(主にビジネスの現場で活用される)「答え」を教えていく、という位置づけなのです。たぶん、そこからこぼれ落ちる子供は「落ちこぼれ」とされてしまうでしょう。ものごとに対する「どうして?」という根源的な疑問よりも、答えを出すための最短ルートが重視されるようになるでしょう。そのような教育観に基づいた教育再生で、「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」が生まれるとは到底思えません。

平川克美さんのツイートより
「何を教えてほしいかを明確に教科書会社に伝達し、それにのっとった教科書を作ってもらうようにしたい」と、教育再生実行本部主査。http://sankei.jp.msn.com/life/news/130612/edc13061223100002-n1.htm
これは教育ではなく訓致。これを思想統制という。何故メディアは批判しない。


現在のマスメディアには、教育再生実行本部が主張する教育観を批判するだけの度量がありません。なぜなら、メディア自身が台本至上主義に陥っているからです。最近のテレビ番組を見ていると、その傾向は顕著です。あらかじめ決められた答え(台本)の通りにしか、ものごとを決められない。クレームを恐れ、予防線を張りすぎて、その結果ガチガチの台本至上主義に自身が縛られていることに、たぶん自分自身が気づいていない。

教育とは、子供の「考えるちから」を育てることです。子育てをしている方なら分かると思うのですが、子供の考えるちからとは、大人には予測不能です。子供の発想や発言には、大人が数十年生きてきた中でいつのまにか降り積もった「常識」や「価値観」といったものをぶっとばしてしまうような、新しい発見があります。そういう中にこそ「チャレンジ」「オープン」「イノベーション」の種があると思います。

教育とは、「予測不能」なことを、予測不能なまま携えて、一緒に考えていけるようにサポートしてあげることなんじゃないかと、ぼくは思います。「出力が入力を超える」という点に教育の豊穣性がある、という内田樹さんの言葉に、深く納得します。

教育の奇跡 - 内田樹の研究室より
私が知って驚倒したのは、「教師は自分が知らないことを教えることができ、自分ができないことをさせることができる」という「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。
教師であるためには一つだけ条件がある。一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。
自分は自分がよく知らないこと教える。なぜか、教えることができる。生徒たちは教師が教えていないことを学ぶ。なぜか、学ぶことができる。この不条理のうちに教育の卓越性は存する。それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。


この文章だけで、ぼくは感動して泣きそうになります。
自分の子供たちに対する親の思いというものが凝縮されていると思う。

尖閣諸島の棚上げ論は、次世代の私たち世代よりももっと賢い人たちに解決策を委ねようというものでした。原子力発電所の核廃棄物の最終処理問題にしても、ぼくらの世代はなんら答えを見つけることができていません。次世代に丸投げするということと、次世代に委ねるということは違います。その分岐点は、「出力過剰」のメカニズム、豊穣性を信じているかどうかにあるのではないかと。子供のちからを信じるとは、そういうことだと思うのです。


何故メディアは、思想統制ともいえる「教育再生」の方向性を批判できないのか。自身が、台本至上主義に陥っているマスメディアには、教育の「予測不能」という豊穣性を受け入れる度量が無いのです。「台本」が無いものには対応できない。

たぶん日本社会全体がそういう体質になってしまったのではないかと思います。政治家は、官僚の台本を読むだけのお仕事になっています。台本に従って予算が決められ、台本に従って様々な基準値が決められ、台本に従って原発は再稼働されていく。台本に従ってTPPに参加する。選挙戦が近づけば、台本に従って選挙レースが演出される。多くの人はその台本にのっかって投票するだけです。ほんとうの住民の意思が政治に介在する余地はありません。

男って、どうしても結論ありきでしゃべりたがる生き物です。ただ話を聞いて欲しいだけの女性の愚痴にいらついて、こうしたらいいとかなぜこうしないのかとアドバイスしたつもりが反感を買うというのはよくある光景。さらには困ったことに、男脳ってやつは、自分が設定した、自分が信じたい結論いがいのものを信じたくないんだよね。だから、都合の悪いことには目を背けようとするし、はてには「無かったこと」にしてしまう。

橋下市長の弁論テクニックなんかも、結論をまず設定して、そこに向けて勝つ(相手を言いくるめる)ための論理を探してくるというものです。だから、橋下さんっていうのは、ある意味で戦後日本(男脳がつくった社会構造)の象徴みたいな存在だと思う。そして、慰安婦の強制連行は「無かった」と主張する人たちもそうだし、脱原発の声を風評被害だと主張する人もそうなんだけど、だいたいそういう男どもって怒ってる。「論理」だったり、大きな声という恫喝だったりで、相手を押さえつけようとする。

なぜ怒る必要があるのか? 信じたくないからだと思います。信じるのが怖いんです、きっと。そんな現実には、自分が「対応できない」ということが実は分かっているから。「予測不能」という豊穣性に、対応しきれずにオロオロする自分を許せないから。見たくないから。

見たくないけど、そこにあるものを見ないといけない。
自分が思い描く台本通りになんか何ひとついかない。
子育てはそんな日々でもあります。


「予測不能」という豊穣性

「予測不能」という豊穣性 2013.06.14 Friday [子育て・教育] comments(0)
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ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン)

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数日前に、「福島県産の野菜を給食に取り入れる市町村には食品購入費という補助金が出る」という情報がタイムラインに流れてきました。もともと学校給食には胡散臭さを感じていたので、充分あり得る話だと思いましたが、それにしても、よりによって子供の給食に汚染された可能性のある食材って…なんなんでしょうこの国。子供の健康より、生命より、経済活動が大事だと宣言しているようなものです。なぜそこまで子供を軽視するんでしょうか。

ちなみにソースは「福島民友」だったようで、福島県の方針だそうです。こちらに詳しく書いてあります。
福島県、来年から福島産の野菜を給食に取り入れた市町村に補助金!県外産使用は適応外 - 正しい情報を探すブログ

学校給食のお題目としてよく挙げられる「食育」っていったい何なんでしょう。子供のためだと言って、しょうもないスローガンばかり掲げて、実際にやってることは自分らの経済活動なのです。大人たちって、そうなのです。それはもう、震災前のずっと昔からそうだったのです。

元豊島区議会議員の橋本久美さんが、「学校給食はいつも政治利用されてきた」と言っています。共感する部分が多かったので、こちらにまとめました。
橋本久美さんの学校給食に関するツイートまとめ - Togetter

原発事故以降、政府と東電の発表が信じられないということも手伝って、世の母親たちは子供の食事を作るのに神経をすり減らしています。自身も6歳の娘さんを持つ橋本さんは、小学校に食材の安全性と弁当持参の有無を確認しただけでモンスターペアレンツ扱いされると言います。自炊の食材をチェックするだけでも労力なのに、さらに学校給食が同調圧力となるならば、これは相当なストレスです。というか、おかしいですよね。子供に食べさせたくないという親の任意が、白い目で見られるなんて。


ぼくが学校給食に胡散臭さを感じるようになったきっかけのひとつが、速水健朗氏の『ラーメンと愛国』に記載されていた或るエピソードです。同書はラーメンをめぐる変遷で戦後史を考察するという、とてもユニークな本です。なぜ日本でラーメンが国民食となったか、その原因のそのひとつとして戦後の食料不足とアメリカの小麦戦略があったことが挙げられています。その中で学校給食の話もちらっと出てきます。以下引用(要旨)。

速水健朗『ラーメンと愛国』より
戦後、重度の食糧難に陥っていた日本に、食糧援助という形で真っ先に手を差し伸べたのはアメリカの慈善団体だった。援助の物資は、衣料や食料、医薬品などで、ララ物資と呼ばれていた。ララ物資は46年から52年まで継続的に届けられ、これによって困窮から立ち直った人々は数多く存在する。

日本中の小学校で学校給食が維持されたのは、ララ物資以外にもアメリカから小麦などの援助物資が届いたからである。当時、アメリカの小麦農家は大量の余剰在庫を抱えていた。国内市場では供給過剰。このままでは小麦の価格が暴落し、農家は大きな損失を抱えかねなかった。
米陸軍のガリオア資金も日本への給与分は7割がアメリカの余剰農産物の購入に充てられた。日本が小麦を購入する見返りとして、アメリカは学校給食として使う分の小麦を無償提供した。こうした小麦の無償提供には、純粋な慈善精神から生まれたと思われるララ物資とは異なる意図が含まれていた。

戦争が始まると大量の兵食が必要になる。戦時下のアメリカ農家は大型の農機具を購入し農産物の大量生産に乗り出していた。だが戦争が終わると、規模を拡大した農家はその生産力を持て余す。国内の小麦市場は暴落しるが、持て余した生産力をいまさら縮小させるわけにもいかなかった。こうした事情を抱えたアメリカ農務省は、中長期にわたり余剰穀物を海外に輸出する策を考えざるを得なくなっていく。

余剰穀物は、まずはヨーロッパへの食糧援助という形で利用されることになる。これは単なる人道援助ではなかった。共産主義陣営の拡大阻止が、ヨーロッパへの食糧援助の目的である。第二次世界大戦で戦場となり、爆撃によって都市の生産機能が失われていた欧州諸国は疲弊していた。多くの軍事力を温存していたソビエト連邦はこれに乗じることで勢力を拡大できる。それを食い止めるためにアメリカはヨーロッパの西側諸国の一刻も早い経済復興を見据えた援助を行った。
この欧州復興のためのアメリカの援助がいわゆるマーシャル・プランと呼ばれるものである。マーシャル・プランにはもう一つ、アメリカの欧州市場への進出という目的もあった。だがマーシャル・プランは52年で打ち切られる。朝鮮戦争の勃発である。アメリカの余剰農産物は再び戦地に回された。だが、この戦争が終わると、アメリカの小麦農家は再び大量の余剰在庫を抱えることになった。この頃すでに欧州諸国の農業は復興を果たしていた。そこでアメリカの余剰小麦は、新たな売り込み先を必要としていた。

農業会をバックに持つアイゼンハワー大統領の指示のもと、全米製粉協会のボールズ調査団が世界中を調査した結果、余剰穀物の販売先として最もふさわしいと結論づけられたのは、日本であった。余剰農産物処理法は日本をターゲットとした形で法案が通過し、日本が主たる交渉相手となった。
日本は、余剰農産物処理法に基づいた二度の協定締結で総額720億円の余剰農産物を購入。その約半分を小麦が占めていた。余剰農産物処理法によれば、購入した国は、すぐにその代金をアメリカに支払う必要がない。それどころか、被援助国は農産物を国民に売って得た代金を自国の経済復興支援として使えることになった。自国の産業発展のためにアメリカが低金利で資金を貸してくれるのだ。食糧までセットにして。

ここで起きた問題の一つは、日本の小麦農家が壊滅的な被害を受けたことである。安価なアメリカ産の小麦に対して、国内の小麦農家は価格競争で太刀打ちできなかった。
もう一つの問題は、大量に購入した小麦の使い道である。日本が余剰農産物協定を締結した主たる目的は、復興資金の借り入れである。小麦はあくまでおまけに過ぎない。米を主食にしてきた日本人にとって、大量の小麦は手に余る代物だった。日本政府は小麦を国民に消費させなくてはならなかった。

小麦の使い道は、日本政府単独でなく、アメリカ農務省と日本の各省庁が共同で取り組むことになった。余剰農産物交渉における政府間の話し合いには「粉食奨励費」という項目が存在した。つまり小麦食の普及を促すための広告宣伝費が設定されていたのだ。アメリカ農務省は当時の額で4億2000万円の資金をもって、小麦食を普及させるキャンペーンを行った。これには日本の厚生省、農林省、水産省、文部省などがそれぞれ外郭団体をつくることで手足となって動いたという。特に厚生省は「栄養改善運動」としてパン食奨励運動の旗振り役を務めた。

1954年の「学校給食法」の施行によって、全国の小学校でパンと脱脂粉乳による給食が実施されるようになった。「パン又は米飯、ミルク及びおかずである給食」と定義づけられているが、実際には完全にパンを中心としたものが四半世紀続いた。米飯が用いられるようになったのは70年のこと。
食糧事情が悪く、育ち盛りの子どもたちの栄養不足が懸念される時代に、大量の援助小麦、および日本がアメリカから購入した余剰小麦が給食に提供されたことは、日本側にとっても都合が良く、悪いものではなかった。だが一方では、日本の食文化に変化を与えるきっかけにもなった。
子ども時代からパンを主食とした食生活を送れば、それがライフスタイルになる。給食のパン統一は、日本人の主食を米からパンにすることを意味した。余剰農産物処理法におけるアメリカ農務省の目論見とは、一時的な余剰穀物の輸出ではなく、小麦の市場開拓と長期的な輸出であったのだ。

「粉食奨励費」の問題はそれだけではない。厚生省が外郭団体として立ち上げた日本食生活協会は、キッチンカーを稼働し料理講習会を開くというキャンペーンを行った。「栄養改善運動」の一環として全国を走り回ったキッチンカーは、走る栄養教室、働く台所としてもてはやされたが、ここで教えられる料理は必ず小麦と大豆を使ったものでなくてはならなかった。もちろんスポンサーであるアメリカ農務省の意向である。キッチンカーは総勢200万人を動員したが、これが小麦食を奨励するための広告費にひも付いたキャンペーンだったことには誰も気づいていなかった。うした奨励運動の中には、米食に対するネガティブキャンペーンが含まれていたこともあるようだ。「日本人の早老短命は米の大食偏食」などの言葉を記したパンフレット配布などが行われたケースもあったという。


給食の問題はもとより、いろいろと現在の問題と重なることが多く、考えさせられる事案だと思います。このアメリカの小麦戦略はTPPにも通じますね。アメリカは商品の魅力で輸出するんじゃなくて、非関税障壁だ何だと難癖をつけて相手国に無理やり市場を作っちゃうわけで。一国の文化を書き換えることだって、そんなに難しいことじゃない。アメリカの対外戦略はこの頃から現在まで変わっていないということです。

給食のパンと言えば、袋に入ったマーガリンが定番でした。トランス脂肪酸たっぷりで、なにが栄養改善運動だよ。でも植物由来だからバターよりもヘルシーだという刷り込みがずっと支配的だったんですよね。キャンペーンの成果でしょう。牛乳が毎食出るのもキャンペーンの賜物ではないかと思います。

べつにパン食を批判したいわけではありません。パン屋さんは好きだし、家族でよく行きます。米が日本の主食になったのだって、実際のところいつからなのか分からない。思い込みかもしれない。少なくとも東北が米どころとして認知されるようになったのは、戦後に東北が政治利用された結果だといいます。それはそれとして、日本の食環境が多様な食文化を体験できるものになっていることはすばらしいと思う。現場で給食を作る栄養士さんたちは、ほんとうに子供のことを考えて調理してくれていると思う。批判すべきは現場ではなく会議室です。すなわち学校給食が大人たちの都合で政治利用されてきたという点にあります。だから現在となっては合理的でもなんでもないものが惰性で続いている。

戦後の学校給食がどのような背景で維持されてきたかをこうやって顧みていくと、福島産の野菜使用で補助金という発想が出てくるのも頷けます。すべては子供の育ちよりも大人の都合が優先されるのです。経済活動という大義名分のために。ぜんぶそういうことですよね。しかも、自分の好きなものしか食べない大人と違って、子供が自分で選ぶことができない学校給食は、供給する側にとって都合のいい市場です。

大人の都合でそうなるならそう言えばいいものを、わざわざ食育などといって自己正当化し、美化してごまかそうとするのは、やましいからでしょう。選べないものにかぎって、美辞麗句が並ぶのは鉄則です。だいたいは子供がターゲットになる。


こんなニュースもありました。
子宮頸がんワクチンは効果がないことを厚労省が認めた il-manoのアロマでサンバ

子宮頸がんワクチンに対する懐疑的な見方は、ワクチンに対するリテラシーの高い人たちの間ではだいぶ共有されていましたので、今さら驚くことでもないですが、日本はワクチン後進国です。昨年ようやく認可されましたが、不活化ポリオワクチンという安全なものがあるにも関わらず、接種される側にとってひとつもメリットの無い生ポリオワクチンを延々と続けていたのは世界の先進国で日本ぐらいです。

接種しないリスクと接種するリスク。双方のリスクを知らせた上で、親の任意で受けさせるのが予防接種のはずです。にも関わらず、ほとんどの親御さんは何も考えずに、小児科から言われるがままに予防接種スケジュールをこなしているのだと思います。ワクチンは「打たなければならない」という強迫観念が強い。知らせない方が悪いのか、知ろうとしない方が悪いのか。

田辺あゆみさんのようにワクチンは接種させないという選択肢もあります(参考)。そこまで徹底する度胸もぼくにはありませんが、重篤な副作用が出てから初めて慌て始めるのでは手遅れになる可能性があります。少なくとも、「接種させないという選択肢もある」という認識だけは持っていたい。



ワクチンビジネス、教科書ビジネス、制服ビジネス、給食ビジネス、どれもはじめから選択肢が無いと思い込まされるという点では、電力会社やNHKと共通しているかもしれません。ビジネスならビジネスと言えばいいものを、相手が子供だからといって、教育だの食育だのなんだと美辞麗句でごまかすところが本当にいやらしい。

給食やワクチンという現場にかかる同調圧力。それを政治的に利用する大人たち。多様な選択肢や考え方を認めないのは、想像力が足りないからです。原発の問題にしても体罰の問題にしても、想像力の欠如という差別の問題だと思います。オヤジどもが美辞麗句を重ねれば重ねるほど、若い人たちは嘘こけって思うだけですよ。

東電がいくら「できます」「がんばります」つったって、もう誰も信じないでしょ。クールジャパンつったって全然クールじゃないし、農業を守るつったって根拠が無い。言葉だけなんです。つるつるで空疎な言葉が政治とマスコミを支配している。そういうスローガンはもう要らないんです。

佐藤亜美/Ami Satohさんのツイートより
ブレませんとか、クリーンです!とかもうそういうのはなくていいんだよ、って私より上の人たちに言ってあげたい。私より下になればなるほど、そんな完璧なことは誰も期待してないし、完璧であることよりも自分の変化を素直に伝えることのほうが、若い世代にとっての誠実なんだよ。


ぼくもオヤジと言われるような年齢になってしまったので、気をつけて、出来る限り、いいかげんな大人でありたい。いいかげんな大人でいたほうが、実は子供たちにとっての財産になるのではないかと。あ、こんなんでいいんだと気が楽になるなら。

以下は、デンマーク在住の方のツイートです。

さわぐりさんのツイートより
今乗ってるバスの運転手が「あ、ルート間違えた!回り道して戻ります!」だって。ちなみに「申し訳ありません」とかは、ない。乗客も「え?!あっそ。」


このユルさ、いいですね。特に「え?!あっそ。」という描写にグッときます。

自分が思うほど、他人に完璧を求めてなんかいないし、自分も完璧を求められてなんかいないのです。日本社会がどんどん息苦しくなっているのは、自分で自分の首をしめている人が多すぎるからだと思う。

子供の育ちよりも大人の都合が優先されるのはなぜなのか。ビジネスのために子供を犠牲にしてやれという、性根の悪い奴らが政治を牛耳ってるんでしょうか。(そういう部分もなきにしもあらずかもしれないけど)そういうわけじゃないと思う。なぜ、美辞麗句でごまかすのか。ビジネスのための売り言葉でしょうか。(電通が発信元かもしれないけど)それだけじゃないと思う。

給食のことも、ワクチンのことも、積極的に知ろうとしない大人たち。知らないがゆえに想像力の欠如が生むレッテル貼りや差別。それが同調圧力となって、どうでもいいことばかり気にするようになって、結果として大人の都合がいいように利用されることになる。

積極的に知ろうとする、ということは、正しいことを知るということとは違います。正解のない問いに向き合うということです。目の前の子供を見つめて、自分のあたまで考えるということです。誰も正解なんか教えてくれません。自分が下した決断が正解かどうかだって、分からないのです。この気持ち悪さに耐えることが、大人だと思います。自分の立場や生活環境を顧みて、自分の価値軸で判断をすることができたならば(そこに至るまでの紆余曲折を経験したならば)、価値観の異なる他人の存在も認めることができる余裕が生まれます。

家入一真さんのツイートより
他人に嘘をつくことは自分自身を騙すことでもある。そんなの悲しい。嘘だらけの世の中で、せめて自分にだけは正直に。コンプレックスをさらけ出しちゃえば生きるの超楽になるよ。多少の失敗や遅刻も許してもらえるようになる。だってダメ人間だもん笑。その分他人の失敗も許してあげたらそれでいい。


ほんとはダメ人間なのに、みんなガンバッてるから、ガンバらないと怒られるからって無理してきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。できないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていく構図の象徴が原発なんだろなと。

今度はクールジャパンなんて言い出しましたけど、全然クールじゃないですよね。つるつるで空疎なスローガンは要らないです。家入さんのようにダメ人間を自称したり、ジョンレノンのようにI'm just a jealous guyと歌ったり。そういう自分のダメさ具合を認めて、受け入れたときに、初めてクールジャパンのスタートラインに立てると思うんです。


橋本久美さんのツイートより
学校給食の私の一連のツイートにたくさんの方々が反応してくれた。ところで植民地支配政策は「食文化」と「言語」の破壊から始めるといわれている。日本の公立学校もグローバル化の名の下でずっとターゲットになっていたのかもしれないと、TPP問題で気づく。


「みんながやってるから」「そうしないと白い目で見られるから」という理由で、なんとなく流されること。そうやって消費者を囲い込むことで成り立つビジネスがあるのでしょう(それをビジネスと呼んでいいのかは分かりませんが)。TPPをはじめ、政府は規制緩和に躍起になっていますけれども、ほんとうに規制緩和すべきは、そういったぼくら自身の思い込みや同調圧力マインドなのかもしれません。美辞麗句によってぼくらがごまかされているという側面と同時に、ぼくら自身が美辞麗句によって自分をごまかしていないかどうか、自分自身が同調圧力の一端を担っていないか、立ち返ることも必要だと思います。が、あんまり根を詰めるとマジメになりすぎるので、まあ、いい加減で。


ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン)

ごまかしの美辞麗句(給食・ワクチン) 2013.04.04 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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待機児童の問題について その2

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政治のニュースで政治家や有識者の言葉を聞いていると、きれいでご立派なフレーズだけが上滑りしていて、虚しくなります。「クールジャパン」だの「粋」だの「グローバルな人材」だの「強い国」だの、訳わかってない人が有り難がる言葉ばかりです。

昨日、待機児童問題について書きましたが、夜のニュースで下記のような内容を目にしました。これまたなんというか、びっくりしたというか、げんなりしたというか。


規制改革会議 待機児童ゼロへ基準緩和を - NHKニュース


同記事より
政府の規制改革会議は、全国に2万4000人余りいる、いわゆる待機児童について、保育所の設置基準を緩和するなどして、今後2年以内にゼロにすることを目指すべきだとする提言の素案をまとめました。


え? 2年で解消できるの? ほんとにそう考えているとしたら驚きです。
無理に決まってるし、無理を通そうとするならどこかで無理をしなければならず、歪みが生じる。その歪みのしわ寄せは現場の子供たちにふりかかってきます。

無理を通そうとするから、こんな発想しか出て来ない。

同記事より
待機児童が特に多い都市部では、緊急措置として、保育所の設置基準を特例的に緩和することや、株式会社やNPO法人の認可保育所への参入を積極的に促すことなどを挙げています。


こういうビジネス的な発想しか出て来ないということ自体が、もう国として貧弱だと思います。それより保育士の待遇を改善するほうが先でしょうに。それこそ人材育成だろうに。
そんな有長なことをしていたら、待った無しの待機児童問題を2年で解消できないだろうが。という声の方が、この会議の中では強いのでしょう。待機児童を無くすためなら、保育所の設置基準を緩和することもやむを得ないと。

これじゃ本末転倒です。

前の記事に書きましたが、認可保育園の基準というのは、子供たちの健やかな成長のために国が設けた最低限の基準です。安易に引き下げていいものではない。大げさな話じゃなく、これは子供の命に関わる数字です。

待機児童の問題は、効率化とか民営化という手段が確立すれば魔法のように解決できる問題のわけがないです。お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるはずない。時間もかかります。いままで放ったらかしておいて、2年で出来るわけがないんです。

ざるみたいに基準を緩和して数合わせした保育園に、自分の子供を預けたいと思う親がいるでしょうか。

ちゃさんのツイートより
だから〜、保育園つくってほしいけど、これ以上基準緩和されては困るのです。なんですぐ、緩和しようとするんだろ。こんな政策いらないです。「待機児童、規制改革会議「2年間でゼロに」」


少しでも安心して子供を預けたい。
それだけの話です。なんで分からないんだろう。

仮に待機児童がたった2年で解消できるんだとしたら、なんでいままで放っておいたんだよという話で。女性が止むに止まれず声を上げ出したら、さも簡単そうに出来ますよ、なんつって。じゃあ最初からやれよと。どんだけ女性にばかり負担かけるんだよと。マザコンかよと。

子供の送り迎えもしたことがないような、オムツも替えたことがないような、子供と社会の間で引き裂かれて自己煩悶したことがないようなオヤジどもにツルピカで立派な保育所なんか作って欲しくないです。


日本をよくしたい!世のために活動する!という気合いとか覚悟は分かったから、その前に先ず人の話を聞けよ。自分が聞きたい話だけを聞くんじゃなくて、先ずは人の話を聞けよ。と世の先生方に言いたい。…いや、違うな。世の先生方に言うならば、自分自身にも言わねばなりますまい。

とくに男性はその傾向が強いかと思うのですが、自分が見たいものだけを見て、自分が聞きたい話だけを聞く。信じたいものだけを信じて、信じたくないものは信じない。そのために理屈を付ける。分からないんじゃなくて、分かりたくないんです。そういう生き物なのです。自分はそういう生き物であるという自覚を持つことから、ようやく対話が始まるのではないかと。ぼく自身もそういうの苦手なんで、そう思います。


待機児童の問題について その2

待機児童の問題について その2 2013.03.22 Friday [子育て・教育] comments(0)
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待機児童の問題について

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根本的なところで勘違いをしているのではないかと。

首都圏各地で、待機児童問題の解決を求めて親たちが声を上げています。ニュースでも度々取りあげられ、待機児童問題がいよいよ大きく顕在化してきました。保育園、家庭、行政、それぞれの現場に携わっている方々の受けとめ方もさまざまだと思います。ぼくは、あくまでも子供を預ける側の父親の立場でしかないのですけれども、この問題ってどうもボタンの掛け違いというか、ニュースで識者のやり取りなんかを見ても、ちぐはぐ感が否めない気がするのです。

この方が記事で仰っていること、大事なことだと思います。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたい

同記事より
認可保育園の基準というのは、 「あしき規制」といったたぐいのものではなく、こどもたちの健やかな成長のために国がもうけた最低限の基準です。都市の地価が高いことを理由に切り下げていいものでは決してありません。


ものすごく基本のところです。子供何人あたりに保育士が1人付くのか、子供一人当たりの面積はどれくらいか、という基準。大げさな話じゃなく、これは子供の命に関わる数字であるということは、一日独りで子供をみたことがある親御さんなら分かるかと思います。1人で1人をみるのですらこんなに大変なのに。

ちなみに0歳児は概ね3人に保育士1人、1〜2歳児は概ね6人に保育士1人、3歳児は概ね20人に保育士1人、4〜5歳時は概ね30人に保育士1人といいうのが、国が定めた保育士の配置基準です。ただし、この配置基準では十分な保育ができないのも現実で、多くの保育所ではこの配置基準の1.5〜2倍の保育士を配置していることも珍しくないそうです(参考)。「この配置基準では十分な保育ができないのも現実」って、それ基準になってるのかっていう話ですが。

1年ほど前に、大阪市が保育所面積基準を0〜5歳一律で緩和するというニュースがありました(過去記事)。ぼくはこのニュースを知った時に、「橋下市長が子育てしていないことがよくわかる」と真っ先に思いました。待機児童問題を解消するために、子供をもっと詰め込む。橋下市長が考えそうな「効率的」な理論です。机の上ではじき出された数字なら正解かもしれない。けれども、現場では大人には予測不能な動きをする子供たちがいます。あいつら大人しく大人の思惑通りになんかしているわけがないです。単なる数字ですが、子供の命に関わる数字でもあります。

駒崎弘樹さんは記事を「現場からは以上です。」と締めています。彼の言う「現場」が、保育の現場であることは間違いないでしょう。だけど、どちらかというと「保育経営」の視点に寄った意見だなあという感想を持ちました。もちろん経営者の側からの意見も必要です。だけど、それは子供を預ける親の立場からすればあまり関係ない。ぼくは駒崎さんの記事にはあまり共感できなかった(というか難しくてよく分からなかった)。認可保育所を、社会主義や「配給」となぞらえるあたりには大きな違和感が残ります。


待機児童の問題は、効率化とか民営化という手段が確立すれば魔法のように解決できる問題のわけがないです。お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるはずない。

待機児童の理由は何か 駒崎弘樹さんに伝えたいこと - 宮本徹 いま言いたいより
待機児童問題の一番の大本にあるのは、税金の使い方の優先順位を自治体や国が何におくのかという点です。認可保育園をつくる財源がないという自治体は、税金の優先順位を洗いなおしてほしいと思います。


待機児童問題に関しての、根本的な疑問があります。

お金が無い、保育士がいない、…なぜ子育てに対するリソースが「無い」ことを前提としたところから始まるのか。
宮本さんも記事中で指摘しているように、アベノミクスの名で採算のとれない高速道路建設等、不要不急の大型開発に莫大な税金が投入されようとしています。時間のある人は、実際にどのような事業にどれくらい予算が付いているか、日本の予算配分を比べてみて下さい。子供や教育への配分が驚くほど少ないことが分かります。諸外国と比較すると、子育て軽視のスタンスが数字として浮き彫りになっています。

「無い」わけじゃない。「出すつもりが無い」のです。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。行政が保育になるべくタッチしないようにするということは、国は子育てにリソースを投じないよって意味でもあります。びっくりするけど、ほんとそう。そちらで勝手にやってくれと。3歳までは家庭で育てろというのが自民党の党是ですし、現状でも保育士の低待遇を見れば明らか。そもそも子育てに対するリソースの配分が低すぎるのです。

端的に言えば「子供にお金をかけたくない」というのが社会の要請であり、それは親の要請なのかもしれません。アンチエイジングに勤しむ大人たちは、自分探しや自分磨きに忙しく、またそれが魅力的な大人だとされています。それを全否定はしないけれども。

子ども子育て新システムがそうだったように、国は待機児童の問題を資本主義の理論で解決しようとしています。規制を緩和して民間企業を入れれば、競争原理によって保育市場はよくなると。これは資本主義の理論です。ビジネスの現場では有効な理論かもしれません。だけども、保育の現場は市場じゃないし。

規制を緩和して民間参入が進めば進むほど、現場にしわ寄せがくるに決まってます。保育企業(?)のブラック化。もちろん全ての民間企業がそうだというわけではありません。子供のことを第一に考えて努力する経営者もたくさんいることと思います。ビジネスだからダメと言うわけじゃない。けれども、そういった志を持った経営者は厳しい経営を迫られるでしょう。資本主義とは本質的に効率を優先するものです。経営のしわ寄せは必然的に現場に集まります。

ぼくは地方在住の一市民にすぎませんが、それでも生活実感として、市場が淘汰するということの帰結をいろいろと見てきました。大資本によってローカルな個人経営店が駆逐されていくという場面を多々目にするわけです。
どこに住んでいても全国同じようなものが同じような価格で買えるようになりました。バイパスを走るとどこに行っても同じような、なんとかモールとかタウンが立ち並んでいます。そのほとんどは、消費者がより安い価格を求め、企業側がそれに応えていった帰結です。大量生産のできる大資本企業に地元の商店街が価格で太刀打ちできるはずがありません。これは結果として囲い込みになっています。一円でも安いものを求めていく消費者。企業としては人件費を抑えるために労働環境は劣悪になっていきます。金が回らない経済の循環は、巡り巡って自分の首を締めることになっています。多様なサービスを選べるはずが、実際には安いものしか買えない。多様なサービスを選べるはずが、実質的には選択肢がなくなっていく。そういうことが身の回りにたくさんあります。

「供給量を増やせば、質の悪い保育園は選ばれなくなる」というのは、一般論で言えば、なるほどもっともです。それが市場原理なのだから。だけども、市場原理の導入と浸透によって現実がどうなっているかを目の当たりにしてきた現在、保育の場合だけは民間参入によって多様なサービスが保たれ、さらに保育の質が向上するというイメージを抱くことができません。それちょっとお花畑的な幻想じゃないかと思っちゃいます。

民間企業が「悪」だなんて思っていません。かといって、ボランティアでやるわけでもありません。社会貢献という名目があったにせよ、企業の本質は利益を出すことであるし、それが悪いだなんてぜんぜん思わない。ただ、やるべき場所と、そうでない場所があるんじゃないかと。子どもの命を預かる場であり、また子どもの教育の場でもある「保育」の現場には、そぐわないのではないかと思っているのです。

その辺りの話は、子ども子育て新システムをめぐる考察の中で書きましたのでご参照下さい(長いです)。
(過去記事)子ども子育て新システムから感じること

いちばん問題なのは、保育現場へのしわ寄せは子供へのしわ寄せであるということです。資本主義自体が悪いわけじゃなくて、資本主義とはそういうものであり、子育てとビジネスは本来的にそぐわないという話です。くり返しますが、お金や人手など、国がそれだけのリソースを投じない限りは保育なんてできるわけがない。保育という行為は「儲ける」ビジネスではないからです。


安心して子供を預けたい。

ただそれだけのことです。既得権ではありません。


待機児童の問題について

待機児童の問題について 2013.03.21 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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子どもが真ん中にある街

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半年ほど前に、立川市の「ふじようちえん」についての記事を書きました。
(過去記事)ふじようちえんと宮崎駿
その中で、「宮崎駿さんが考える街づくり」について同氏の言葉を紹介しました。

「まず、町のいちばんいい所に子供達のための保育園を!(幼稚園もかねる)」
「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!」
「あぶなくしないと子供は育たない」

宮崎アニメが愛され続けるのは、主役はあくまでも子どもであるという宮崎さんの哲学がどの作品にも息づいているからなのだろうと思います。それと同時に、宮崎アニメを観た時にある種のノスタルジーを感じるのは、現代では“それ”がぼくたちの身の回りに存在しない空想の世界になってしまったということを意味しているのかもしれません。“それ”とは何なのかについては後述します。


先日、デンマークで計画されているという驚愕の街づくりについての記事を目にしました。読む度に羨望のため息が出ちゃいます。

街が、子どもを育てる。デンマークの首都につくられる子どものためのミニシティ - greenz.jp


(画像は同記事より)

「たくさんの子どもたちが、のびのびと育つ場所ってどんなところだろう?」そんなことを考えたデンマークは今、「子どものためのミニシティ」を首都コペンハーゲンの中心部につくろうとしています!


すごいですね。首都の中心部に子どものためのミニシティをつくる。
これは宮崎駿さんが言っていた「まず、町のいちばんいい所に子供達のための場所をつくる」という出発点そのまんまじゃないですか。宮崎爺ちゃんの妄想を行政レベルで具現化しようとする国が実際にあるなんて。

同記事より
子ども用のデイケアセンターの役割機能を「街」としてつくろうという案。大きなビルをどんと用意するのではなく、背の低い建物を街になじませるよう点々と建てるというプランは、今ある緑豊かな景観をそのまま生かす形になっています。

完成予定は2014年で、この三角形の土地のなかに0〜18歳の子ども約600人を受け容れることができます。生い茂る木々の合間を子どもたちが走ったり笑い声をあげたりしている様子は、きっとなんとも温かな光景でしょうね。


イメージ画像を見る限りではかなり近代的な建築ですが、そこに広がるであろう景色は、宮崎アニメが描くノスタルジーと相通じる世界があるように思います。完成後の風景を勝手に思い描くだけでわくわくしちゃいますね。ぜんぜん関係ない遠く離れた国に住んでいるぼくでさえも。


デンマークのこの計画は、「子ども」に対して「大人」がどう向き合うのか、という子どもへの態度が具現化したものだなあと心から感心します。これは人口の増加が社会的な課題となっているコペンハーゲンだからできることであって、少子高齢化が進む日本でそんなことができるわけがないという見方もできます。その通りです。そして、そう考えるからこそ日本は少子化が止まらないのだと思います。

子育ても自己実現もジェンダーの問題も少子化問題も教育もぜんぶ糸でつながっています。子どもへの態度ということは、つまるところ自分への態度ということです。子どもがまんなかにある街とはつまり自分がまんなかにある街なのです。…ということを言っても、たぶん日本ではほとんど通じない。何言ってるんだコイツはと思われるか、違った意図で解釈されるかだと思います。そもそも「教育」という言葉に込めるニュアンスがまるで違うのだから。

同記事より
子どもたちはレストランのキッチンでサンドイッチをつくったり、町役場でミュージカルを上映したりと、自分たちでいろんなことができるようになっています。

「ただのデイケアセンターではなく、子どもにいろんなことを”提案”する街にしたい。」そんな想いでつくられる建物たちは、子どもが自分の手や頭を使うことを促し、発想力やDIY精神を刺激する設計になっているのです。


デンマークをはじめとする北欧諸国では、子どもの自主性を重んじることが教育の根幹にあります。国際学力テストの読解力分野で世界一の成績を収め、世界中から注目されているフィンランドの教育。学費はもちろん、教科書や文房具、給食も無料であるなど、公のサポートが充実していることも特筆したいですが、すごいと思うのは「落ちこぼれを作らない」ことを重視する「平等な教育」。留年することは恥ずかしいことではなく、「ちゃんとわかるまで勉強して偉いね」とほめられるとか。授業日数は日本よりも短く、クラスは少人数で、「自分で考える力」を育むことを大事にしているそうです。

子どもの自主性を大事にする(主役はあくまでも子どもである)という共通認識が大人たちの間で共有されているならば、必然的に、子どもが真ん中にある社会が作られていくはずです。そしてそれは、国としての懐を深くしていく。

モンテッソーリやシュタイナー教育、イエナプランなど多様なオルタナティブ教育が公教育として並列に共存するオランダは、かつて「オランダ病」と揶揄されるほどの財政赤字の時期を経て、ワークライフバランスを見直し、子どもたちの「育ち」を大切にした結果、「オランダの奇跡」と呼ばれるほど豊かな国になったと言われています。
(過去記事)オルタナティブ教育

「子どもを育てることの最終的な受益者は共同体そのものである」と内田樹さんは常々申されています。子育てをしているようで、育てられているのは自分です。まっさらで好奇心旺盛で天真爛漫で大人の思い通りにいかなくて煩くて煩わしい子どもに接することで、今まで自分でも知らなかった自分が前景化してきます。子どもと向き合うことで、自分自身の課題とも向き合わざるを得ない。実体験からぼくはそのように感じています。だから、子どもが真ん中にある街とは、つまり自分が真ん中にある街なのです。


日本で語られる「教育」とは、これとほとんど正反対です。
体罰の問題がにわかに顕在化していますけれども、体罰を肯定する人たちの多くは「教育」と「指導(しつけ)」を混同している。体で覚えさせるとか規律を身につけさせるしつけとか子どものためなどと言って体罰を正当化するのは詭弁だと思います。体罰の正当化とは、すなわち自己正当化です。体罰によるしつけは、自分にとって都合のいい規律を覚えろという意味でしかなく、相手のためでなく自分のためです。自らの意思で体を動かして反復して覚えることと、他人からの暴力に恐怖する反射で覚えるのとでは、体で覚えるの意味が違います。

スウェーデンでは、1979年世界に先駆けて体罰禁止の法律が生まれました。「叩かなければならない場合がある」という現実と、「叩いてはならない」という理念。おそらく、小さい子供と向き合っているスウェーデンの大人たちは、相剋するこれらの感情を同時に引き受け、同時に生きているのではないかと思います。くり返しますが、子どもと向き合うことは、自分と向き合うことです。

「教育」とは、大人の価値観を子どもに押し付けることではありません。「教育ができるのは、学びの面白さを伝えるところまで」と平川克美さんが仰っていましたが、その通りだと思います。大人が作り上げた自分たちの社会の中でだけ通用するルールを刷り込むことは、教育とは呼ばない。それならば教育と洗脳のどこが違うのか分からなくなります。自分たちでルールを作るのが「学び」なのだけれども、現在日本で語られる「学力」とは、大人が作ったルールを覚えることを意味します。

大人が作ったルールの中だけに子どもを置こうとするのは、大人が真ん中にある街です。大人が真ん中にある街とは、自分が真ん中にいるようで、実は、もっと大きな目に見えない禁則で自分自身を縛っている街です。大人の事情、検閲、罰則、ご意見伺い、同調圧力、自己責任…そういう街は息苦しいです。現にいまそうなっている。大人たち自身が、社会の中をうまく生き延びるため既存のルールを覚えるのに必死で、新しいルールを作るために「自分で考える」力を失ってしまっている。


宮崎アニメが持つノスタルジー。現代では身の回りに存在しない空想の世界になってしまった“それ”とは何か。

子どもが本来もっている力を信じること。

子育ても自己実現もジェンダーの問題も少子化問題も教育もぜんぶそういうことじゃないかと思います。子どもが本来もっている力を信じることとは、つまり自分が本来もっている力を信じるということです。


子どもが真ん中にある街

子どもが真ん中にある街 2013.02.15 Friday [子育て・教育] comments(0)
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柔道家 山口香さんのことば

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全日本女子柔道の園田前監督による暴力行為があったと、15人の選手がJOC(日本オリンピック委員会)に告発した事件。体罰の問題が話題となる中、このハラスメント問題も大きな話題になっています。当然ながら、TLでもマスコミでも、全柔連に対する批判的な意見がほとんどです。

2月6日、JOC理事でもある柔道家 山口香さんは、選手15人の告発をサポートしていたという事実を明かしました。
山口香氏「告発サポートした」 - 日刊スポーツ

山口香さんは、日本女子柔道の創生期に、全日本選手権10連覇、世界選手権金メダル、ソウル五輪銅メダルを達成し「女三四郎」と呼ばれた伝説の女子柔道家。人気マンガ『YAWARA!』のモデルにもなったとも云われています。また柔道界で初めて女子柔道を近代的かつ体系的に解説した『女子柔道の歴史と課題』を執筆し、柔道が直面している問題を考えるブログも話題を呼ぶなど、非常に聡明な方のようです。

朝日新聞に、今回の告発の背景や、柔道界が抱える課題を山口さんが詳しく語っているインタビュー記事が掲載されています。
15人の告発 筑波大大学院准教授、元世界王者・山口香さん - 朝日新聞

すばらしいインタビューなのですが、ログインしないと読めないのはめんどくさもったいないので勝手に転載します(怒られたら消します)。柔道界だけの問題ではなく、教育やジェンダー・差別、民主主義などいろいろなことにつながる話だと思います。

同記事より抜粋(太字は筆者)
「昨年9月、園田隆二前監督が暴力行為をしていたと、私自身、耳にしました。個人的に何人かの選手に話を聞いて事実を確認し、全日本柔道連盟の幹部に伝えました。まずはきちんと調べて、広く選手に聞き取りをして下さいとお願いした。ちょうどロンドン五輪の検証をする時期でもあり、この際だから調査した上で次の体制を決めるべきでしょう。ところが全柔連は園田前監督にだけ話を聞き、厳重注意の処分にした。こういう問題は、片方だけを調べて終わるものではないはずです」

「ところが、その後も園田前監督が被害者に心ない態度をとった。彼女が頑張った試合の後、『おれが厳しく指導してきたことが今回につながったんだ』というようなことを言ったというんです」

「私は女子柔道家として、日本代表でナショナルフラッグを背負う選手に、そういう態度をとることは絶対に許せません。まして言動を注意された後にみんなの前で暴力を肯定するようなことを言うなんて言語道断。日本の女子柔道が長い時間をかけて強くなってきたのは、選手一人ひとりが力を合わせて切り開いてきたからです。決して暴力的な指導をしたからではない」

「園田前監督は情熱があり、指導力もあるかもしれません。だけど国を代表する選手に対するリスペクトがなかった。続投は昨年11月に発表されたんですが、もっと後でよかった。選手の話に真摯(しんし)に耳を傾け、手順を踏んで、選手が納得してから発表するべきでした」

「私もいろいろ考えました。相談してくれた選手には『こういう結果になって申し訳ない。私の力がなかった』と謝りました。そして『申し訳ないが、ここから先は私ができることじゃない』と話しました。私が何を言っても、私の意見としか受け止められない。私と全柔連という対決の構図になり、問題の本質がずれてしまう。山口に対する対処をされてしまうと思いました」

「私は選手に言いました。『ここからはあなたたち自身でやりなさい』と。さらに『あなたたちは何のために柔道をやってきたの。私は強い者に立ち向かう気持ちを持てるように、自立した女性になるために柔道をやってきた』という話もしました」

「悪い言い方をすれば、選手たちはここまで我慢してしまった。声をあげられなかった。『こんなひどいことが行われてきたのに、誰にも相談せず、コーチにも言えず、がっかりしている』とも話しました」

「私はもう助けられない。だから自分たちで考えて、と。そこからは私は直接的には関与していません」

「彼女たちの行動には賛否両論あると思いますが、彼女たち自身が起こしたものであるとはっきり言いたい。声明文にもあるように、彼女たちは気づいたんです。何のために柔道をやり、何のために五輪を目指すのか。『気づき』です。監督に言われ、やらされて、ということでいいのか。それは違うと

「私は今回のことで一番重要だったのは、ここだと思います。体罰にも関わりますが、体罰を受けている選手はその中に入ってしまうと、まひしてしまう。自分のプラスになっているんじゃないか、先生は自分のことを思ってやってくれている。そんな考えに陥りがちなんです」

「15人が名前を公表していないので、負け惜しみと受けとる人もいるでしょう。名前を明かすことはできませんが、五輪に出た選手もいます。代表を勝ち取った、つまり勝者なんです。みんなで切磋琢磨(せっさたくま)し、励まし合って4年間を乗り切ったんです。選手たちは言っています。『だから勝ちたかった』『メダルを取りたかった』と。全員で好成績をあげて、声をあげたかったと。私たちが抱えてきたものを次の世代に残さないためにメダルが欲しかったと」

「ここからが私たちの仕事だと思っています。時間がたつにつれ、彼女たちのことを『何様なんだ』と言う人たちが必ず出てきます。今度は私たちが矢面に立って守ってあげなきゃいけない。柔道界をあげてサポートするという姿勢が大切です。訴えたことが悪いんじゃない。問題をすりかえてはいけません

「私は選手が自発的に起こした行動を見守り、自立するのを待っててあげたいという気持ちです。選手の自立を助ける。それがスポーツでしょう。選手は臆せず意見をはっきり言える人間に成長しているんです」


「柔道はもともと相手を倒す戦闘目的のものでした。いわゆる柔術ですね。ところが柔道の創始者、嘉納治五郎師範はそこに疑問を持ち、指導方法を体系化して安全に学べるものにしました。強くなるには『術』が大事だが、それが目的ではない。その術を覚える過程で、自分という人間を磨く大切さを説いた。だから『道』になったんです。園田前監督らは金メダルを取らせないといけないという重圧から、戦闘目的の『術』に戻ってしまった。人間教育がどこかにいってしまったんです」

「嘉納師範亡き後、指導者たちはその理念を勝手に解釈するようになったのでしょう。柔道が国際化し、JUDOになって大事なものが失われたと語る日本の柔道家は多い。違うと思う。嘉納師範は柔道の修行として『形』『乱取り』『講義』『問答』の四つをあげています。後ろの二つを一部の日本人が省略し、柔道の姿を変えてしまったんです」

「まず全柔連の理事に女性がいないと指摘されていますよね。ダイバーシティーという言葉がありますが、いまは多様化の時代です。いろんな視点が必要で女性もその一つ。外部から女性理事に入ってもらってもいい。柔道界の中で顔を浮かべるから、この人じゃダメだとなる。元バレー選手、元サッカー選手でもいい。コーチに外国人を採用してもいいでしょう」

「柔道界は強い者が絶対という思想があります。柔道家同士だと『お前弱かったのに』というような部分がどうしてもある。先輩後輩という関係もつきまとう。でも、本当に柔道を愛しているのは、強くなくてもずっと続けた人だと思うんです。そういう人を尊敬し、適材適所で力を発揮してもらう。キーワードは『リスペクト』と『オープンマインド』。強い弱いを越えて相手を尊敬し、広く開かれた組織になって多種多様な意見を取り入れる。そこから始めることが大切です」


自立性、主体性を大事にすること。多様性を尊重すること。
これって、教育の問題そのものです。

野口晴哉氏はこう言っています。
野口晴哉botより
教え育てるということは先人の知を与え、当人の智を伸ばすことに止まらず、そのもてる能力を発揮して自分自身の足にて立たしむることだ。自分から産み出すを教え、自分の考えを実行し、失敗したら更に力を出すことを体得させることが大切だ。


日本の教育がおかしくなってしまったのは、これに逆行してしまったからだと思います。子供はもとより大人までも、自分で考えるちからがどんどん失われてしまった。安倍首相や橋下市長の掲げる教育改革とは、まさに自立とは逆の方向を指向する、強者の理論です。上から下に教え込む。刷り込む。従わせる。体罰の問題なんかはまさしくその象徴であるように思えます。

そして、山口さんが懸念する通り、さっそく「問題のすりかえ」が始まっています。自民党の橋本聖子議員(女子スピードスケート銅メダリスト/JOC理事)が「告発した選手15人の名前は公表されるべき」との認識を示したというニュースが流れました。
柔道女子、告発選手名の公表を 自民・橋本聖子氏 - 47NEWS

これに対する批判が多かったのかどうか、橋本議員は発言を否定しています。
橋本聖子議員、柔道女子の「氏名公表」発言を否定 - デイリースポーツ

発言自体は否定しながらも、「氏名を公表しないことについて厳しい意見もある」としており、結局は言ってることは同じであるように受け取れます。

フジヤマガイチさんのツイートより
橋本聖子の発言からは、実名公表しても何があっても選手を守ってあげますと言う意思は全く感じられず、今後こういう告発したらどうなるか、よく見ておけよ!と言うメッセージはよく伝わってくる。



自民党はいまや、強者のための政党になってしまいました。貴族院と言ってもいい。貴族による貴族のための政治というふうに考えると、自民党のやっていることがよく分かる。貴族にとって、民衆が自立し、主体的に行動することははた迷惑です。だから多様性に対して不寛容な態度になりがちであるし、相手を「教育」して自分のコントロール下に置こうとする。今回の柔道問題は、現在の日本における貴族対民衆という対立構図の現れであるように思えます。って、いま何時代だよ。

民主主義の成熟を阻むのは、差別の構図です。選民意識を持った人々が、下々の者を統治(指導・教育)するという差別意識は、なかなか無くなりません。監督→選手、教師→生徒、先輩→後輩、上司→部下、親→子、男→女、元請け→下請け→孫請け、電力会社→生活者、マスメディア→視聴者、識者→シロート、現場を知る者→現場を知らない者、お上→庶民…。至るところに選民意識(差別)は偏在しています。生まれながらの家系によって差別されるというあからさまな身分制度は近代化とともに無くなったかもしれませんが、競技や試験そして経済活動という「競争に勝った者」こそが偉い、という選民意識がまた違うかたちでの差別を生んでいるのかもしれないなと思うのでした。

柔道家 山口香さんのことば

柔道家 山口香さんのことば 2013.02.07 Thursday [子育て・教育] comments(0)
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ふじようちえんと宮崎駿

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一昨日たまたま目にしたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』がとてもよかった。建築家の手塚貴晴・手塚由比夫妻の回。建築についてはど素人なのでこの方たちのこともはじめて知りましたが、建築家ってすごいなと、プロだなと感心。

いわゆる売らんかなのマーケティングからは離れた分野での設計が多いようですが、建築とは何か、設計とは何かということを常に考え、そしてそれをカタチにするための、クライアントとの対峙の仕方が素晴らしいなあと。「料理をしない人はキッチンの設計はできない」とか至言ですね。構造設計による制約の中で、その空間で暮らす人にとって何がいちばん大切なのかをぎりぎりまで探る。なんかですね、手塚さんがわくわくした表情でいることで施主さんも表情がわくわくしてくるんですね。

ぼくは番組の中でも特に、代表作のひとつとして取りあげられていた幼稚園に目が釘付けになりました。
円形の園舎の屋根がそのままぐるりと遊び場になっています。この自由度、開放感。園児たちは毎日何周もここを走り回るそうです。すぐ側に大きな木があったり、木の質感を感じるデザインもいいですね。すごくいい。もし近隣にこんな施設があったら、間違いなく見学に行きますね。こういう幼稚園とか保育園が、街の中心にあったら楽しいだろうな。


(画像はきままにまさんより)

後で調べてみたら、東京都立川市の「ふじようちえん」という幼稚園でした。

ふじようちえん

ウェブサイトを見てみると、なるほどモンテッソーリ教育を取り入れた幼稚園のようです。なんか納得。でもここが園児500人を超す全国でも有数のマンモス園であるというのだから驚き。

実際に現場を訪れた方のレポートがこちらにありましたので紹介。
ふじようちえん - 米松の大径木
ふじようちえん - 中二階から
ふじようちえんは、こどもリンゴット、あるいはプレイドーナッツ - ココカラハジマル
ふじようちえん訪問記2 - ウエジョビの日常。

どうやら、佐藤可士和さんからの経由で手塚貴晴・手塚由比夫妻につながったみたいです。佐藤可士和さんはクリエイティブデレクターを務め、幼稚園のロゴやTシャツなどを作成したとのこと。上記レポートの記事を読んでみると、ほんとうに細かいところまで手の行き届いたプロデュースっぷり、それも押し付けがましくないという絶妙のバランスが心地良さそうだなと感じます。主役はあくまで園児っていう。

これだけの施設とトータルデザインを完成させるのにどれだけの費用がかかって、その予算はどこから捻出されたのか、ぜんぜん見当もつきませんけれども、こういう園が実際に存在している。それも園児500人を超すモンテッソーリの園として。ということがぼくは驚きでした。え?日本でもこんなんできるんじゃん。

これたとえば、前回の記事に書いた、子ども子育て新システムの論点になっている保育市場への民間参入についての話とつながるのかどうか。規制緩和によって、こういう施設が増えるというのならば、それはやっぱり歓迎なわけで。でも補助金を減らす方向に持っていくための規制緩和であるならば、こんな施設を建てられる事業主が果たしているのかと疑問にも思うし。そういう意味でも、ふじようちえんの建て替えが、どのようなお金の流れで行われたのかも知りたいですね。


町のいちばんいい所に子どものための場所を

番組の中で紹介されたふじようちえんの映像を見たときに、ぼくは前にもいちど似たような気持ちになったことがあるなあと思ったんです。子どものすごす場所としての、保育園・幼稚園の理想郷っていうか。

養老孟司さんと宮崎駿さんによる対談本『虫眼とアニ眼』には、子どもの教育についての話がたくさん出てきます。教育といってもいわゆる処世術としての教育論ではなくて、この二人ならではの、脳みそが解きほぐされるような本質的なお話。自然がまだ身の回りに豊富に存在していた世代から見た、現代に生きる人たちが失ってしまった「眼」とは何なのか。対談形式なので堅苦しくなく、すらすら読めますが、多くの示唆に富んだ良書だと思います。



で、この本の冒頭に「養老さんと話してぼくが思ったこと」と題して、宮崎さんのカラーイラスト(マンガ)が20ページ近くにわたって掲載されているのですが、これが素晴らしいんです。こんな保育園があったらいいなあと素直に思う。

「まず、町のいちばんいい所に子供達のための保育園を!(幼稚園もかねる)」
「大人が手と口を出さなければ子供達はすぐ元気になる!」
「あぶなくしないと子供は育たない」

といった具合に、宮崎おじいちゃんの考える理想郷がイラストで描かれています。町のいちばんいい所に保育園をつくり、地続きでホスピスがあるという構図。子どもと老人が触れ合う場所という設定は『崖の上のポニョ』でも出てきましたね。
もちろん保育園とホスピスだけでは完結しません。それらを取り囲むように平屋の集合住宅が並びます。荒川修作さんも加わって提案されるのは、いかにも宮崎アニメに出てきそうな、みどりがたくさん生い茂る有機的な、あるいはガウディの建築のようにでこぼこした町並み。

「もう大きな家や財産はいらないから、のびやかにくらしたい人のための町」だそうです。なんかね、共感できる人たちが集まってこういうコミュニティを形成できたらすごくおもしろいと思うんだけど、できないですかね。






で、話戻りますが、ふじようちえんの映像を見たときにぼくはこの宮崎さんの描く理想郷を思い出したんです。もしかしてこの理想郷の一端がここに実現されてはいないだろうかと。もちろんぼくは実際にこの幼稚園に行ったわけでもないので妄想にすぎないのですが、ここからコミュニティが広がって行く可能性があるのではないかと勝手に想像して喜んでいます。

少なくとも、ぼくはあの園舎を見たときに、主役はあくまで園児っていう設計思想を感じました。「まず、町のいちばんいい所に子供達のための場所をつくる」という出発点としての建築のすがたを見たわけです。

こちらに手塚貴晴さんの講演記事が掲載されています。ふじようちえんの設計におけるポイントがかなり詳しく語られており興味深いです。これを読むと、ほんとうに細かいところまで子どもの目線に立って工夫されていることが分かります。

屋根に暮らす ふじようちえん [1] - 東西アスファルト事業協同組合

同記事より
ここでは、遊具をつくるのをやめようと考えました。遊具というのは子供に「こういう風に遊びなさい」って与える道具です。すると子供はそれ以上のことを考えなくなる。子供は本来遊びを見つけるところに成長の根本があると思います。みなさんご存知の「となりのトトロ」に出てくる「サツキとメイの家」にも遊具はひとつも出てこないですね。宮崎駿さんの映画には遊具なんて出てきません。「サツキとメイの家」で、何であんなに子供が遊べるかというと、大人のためにつくった当たり前の隠し階段とか暗い部屋とか、そういうところに子供たちの新しい発見があるんですね。

われわれはこの建物をつくる時に「カサ・ミラ」を見直しにいきました。ガウディの「カサ・ミラ」の屋根の上はでこぼこしていますが、いつも人でいっぱいで、子供も大人もぎゃあぎゃあいいながら走り回っているんです。だけどそこにも遊具なんでありません。すべり台なんてなくても関係ない。なるほど、こういうことかな。大人も子供も同じ目線で遊べる。遊具を使うと子供が遊んでいる間、親は見ているしかないんですよ。逆に親の遊びにしちゃうと子供はどうやって参加してよいかわからない。子供も大人も同じ目線で遊ばせる、そういう力がある建築をつくりたかったんです。


宮崎アニメやガウディの名前が出てきたのも偶然ではありますまい。
手塚さんは「仲間はずれが生まれない」建築を目指しているそうです。建築というものは、設計思想とは、深いところでぼくたちの生活とつながっているものなんですね。つくづくすごい仕事だと思います。

保育園とは子どもを預けるための単なるハコではありません。「まず、町のいちばんいい所に子供達のための場所をつくる」。これはできそうでなかなかできない。

子どもが本来もっている力を信じること。

だからそのための環境を整備してあげること。
手を加えすぎず、かといって無視するでもなくのさじ加減。
大人にできるのは(そしてなかなかできないのは)そういうことかもしれません。


追記:
続編的な記事→子どもが真ん中にある街

ふじようちえんと宮崎駿

ふじようちえんと宮崎駿 2012.06.06 Wednesday [子育て・教育] comments(6)
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