特定秘密保護法案が可決されて思ったこと

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12月6日夜、特定秘密保護法案が参議院本会議で可決された。



拙速に採決を急ぎ、強行的な手法で法案を可決させた与党であるが、これだけ多くの著名人が反対を表明する法案が、かつてあったんだろうか。それこそ「有識者」の多くが反対している。

「特定秘密保護法案に反対する学者の会」は、わずか数日で3000名を超える学者の賛同を得た。3日に行われた記者会見では、様々な識者が同法案の問題点について語っている。内田樹さんのブログに全文書き起こしが掲載されているので一読されたい。

12月3日の「特定秘密保護法案に反対する学者の会」記者会見 - 内田樹の研究室
特定秘密保護法への学者の会からの抗議声明 - 内田樹の研究室

また、「特定秘密保護法案に反対する表現人の会」でも、数日で1万人を超える賛同者が集まった。ぼくもデザイナーとして賛同した。
高畑勲、山田洋次らの呼びかけで結成された「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」には、宮崎駿、是枝裕和、吉永小百合、大竹しのぶら日本を代表する映画人の賛同が集まった。

条文はこちらから読める(特定秘密の保護に関する法律)。が、こういう官僚文章にアレルギーのあるぼくには、何を言わんとしているのかほとんど理解できない(ほんとに、生理的にダメなのだ)。条文を読まずに批判するのはおかしいと言う人もいるかもしれないが、だいたいそう言う人も読んでいないだろう。法律の素人である市民ひとりひとりがすべて条文を読み込む必要があるとは、ぼくは思わない。そのために専門家がいるわけだから。(だから、どの専門家が自分の肌感覚に合っているのかを普段から意識して観察し、信頼できる専門家を自分なりに心得ておく必要がある。)

はっきり言って、問題がありすぎてどこから説明したらいいのか途方にくれてしまうのだ。ぼくは、この法案の問題点を、論理的に、端的に他人に説明できるだけの頭脳も労力も持ち合わせていないので、各自で調べてみることをおすすめする。ちょっとググればいくらでも出てくる。

特定秘密保護法の問題点について、政治学教員の岡田憲治さんはこうまとめている。(出典
・特定秘密の指定について恣意的な運用が可能であること
・行政府の権限を無限に拡大する恐れがあること
・情報開示の方法と原則について明確な規定を持っていないこと
・第三者のチェックが周到に排除されていること
・条文の中に共謀罪とほぼ同等の規定がこっそり書き込まれていること
・「適性検査」という信じがたい人権侵害規定が含まれていること
・想定されている同盟国(米国)に対して無力なこと
・罰則規定が重すぎること

法律であるのに、定義が曖昧である(そのくせに罰則は重い)というのが、キモである。平川克美さんのツイートを引用する。

この法案のキモは、誰も指摘していませんが、一望監視システムと同じところにあります。この法案の不備が指摘されていますが、不備であればあるほど効果があるのです。実際に法適用される必要もない。ただ、法案があればよい。それだけで、誰もが疑心暗鬼になる。
法律というものは、常にその侵犯の最低ライン(マージナルライン)を明示することで成立します。時速40km制限は、侵犯の最低速度はここですよと示している。基本的人権は人間的な生活の最低ラインを示している。しかし、特定秘密保護法にはその最低ラインがないのです。権力にとって、これほどコストがかからずに、効果が大きい法律はないのです。
この法律はあちらがわからはこちら側が丸見えだが、こちら側からは鏡のように自分しか見えない。この非対称性がこの法律のキモだということです。(以上引用

特定秘密保護法が恐ろしいのは、それが権力側に都合よく利用されるという理由ももちろんあるが、「出る杭を打つ」というカオナシのような国民性と符号するからだ。自分はこんなに我慢している。だから我慢してない奴が許せない。他人に我慢を強要し、声を上げるものを全力で引きずり下ろそうとする。
警察国家というものは、国家権力による横暴だけではおそらく成立しない。誰もが疑心暗鬼になり、隣人を監視する社会、相互不信といった心象が広がったときに、監視社会は成立し得る。日本には、村八分という伝統もある。集団(多数派)に個が埋没したときに、いかに恐ろしい同調圧力が生まれるかは多くの人が少なからず経験として知っているはずだ。

§



法案の中身だけではなく、その可決までのプロセスにもこの法案の恐ろしさが表出している。というか、与党がいかにしてこの法案を可決させたかというその行為そのものが、この法案がいかにして運用されるかを物語ってる。

11月26日、特定秘密保護法案が衆議院で強行採決されてから、わずか10日あまりで参議院で強行採決されるまで、国会がいかにして運営されたか、嫌というほどツイッターでまわってきた。恐ろしい、おぞましいその現実を、嫌というほど知らされた。
往年の自民党世代である野中広務氏は「戦争の足音が聞こえてくる」と、秘密保護法案を批判している。いまの自民党は、往時の自民党ではない。「自民党」という括りや、右翼や左翼といったカビの生えた価値軸でものごとを見ようとすると本質は見えてこない。

12月4日、国会は徹夜で行われ、深夜3時、何の落ち度もない民主党籍の委員長2名が「野党の委員長なんて必要ない」という理由で、与党の賛成多数により解任された(2013.12.04-2013.12.05 真夜中の国会 - Togetter)。きわめて野蛮な、数の暴力に他ならない。集団(多数派)に個が埋没したときの横暴なる人の姿だ。議会の存在を否定するような、こんな国会を世界が見たら誰が日本を民主主義国家だと思うだろうか。野蛮な法案を野蛮なやり方で押し通す野蛮な国だとしか思えないだろう。

わざわざこんな深夜に委員長を解任するという暴挙。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。

正直に言って、こんな歴史の目撃者になんかなりたくなかった。生来めんどくさいことは嫌いな性質だ。しかし、知ってしまったからには目を背けられない。こんな異常な国会運営を強行する人たちに政権を与えてしまったのも我々なのだから。シニカルに構えていえれば事が過ぎ去るという時代はもう終わったのだ。


§



「特定秘密保護法」を、戦前の「治安維持法」をなぞらえる向きもある。ぼくも直感的に同じ匂い、相似性を感じる。あるいはアメリカの「愛国者法」と比較してもいいかもしれない。

政治社会学者の栗原彬氏は「監視されるべきなのは、行政府であるのに、逆に、市民が、とりわけ、異議申し立てをする市民が、取り締まりの対象になっていく」「これは現代の治安維持法です。治安立法なんですよ。ナチの全権委任法に限りなく近いんです。行政府が、これは特定秘密に触れているというふうに判断すれば、何でも取り締まりができる」と述べている(出典)。

治安維持法 1925年制定。28年の改正で最高刑が死刑に。41年の改正により予防拘禁(犯罪の恐れのある者を、犯行が行われる前に拘束し犯罪を未然に防ぐ)制度が導入。権力に従わせる法律として暴威をふるう。拷問による虐殺・獄死194人、獄中での病死1503人、逮捕・投獄者は数十万人。

1945年、治安維持法はGHQの指令により廃止された。逆に考えると、GHQの介入が無ければ存続していたのかもしれない。日本人には、秘密保護法のようなモノを望んでしまう体質が無意識のうちに潜んでいるのだろうか?

であるならば、稀代の悪法と云われる治安維持法がいかなるプロセスで成立し、どのように運用され、改正され、社会にどのような影響を与えたのか、その歴史を知ることに大きな意味がある。1979年生まれの若き学者、中澤俊輔氏による『治安維持法 〜なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』は、まさに今読むべき本ではないかと思う。



同書のコピーより。「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した「稀代の悪法」。これが治安維持法のイメージである。しかし、その実態は十分理解されているだろうか。本書は政党の役割に注目し、立案から戦後への影響までを再検証する。1925年に治安維持法を成立させたのは、護憲三派の政党内閣だった。なぜ政党は自らを縛りかねない法律を生み、その後の拡大を許したのか。現代にも通じる、自由と民主主義をめぐる難問に向き合う。」

§



12月6日、参議院での採決についても記しておく。本会議に先立つ特別委員会での質疑を、ぼくはネット中継で見ていた。

共産党の議員や福島みずほさんはこういうとき本当に頼りになる。強度が違う。維新の議員はアリバイ作りのための質疑。議事録上では慎重意見ということになるだろうが、喋り方で分かる。(民主党・みんなの質疑は見れなかった)
その後、元自衛官の自民党議員による質疑。国民の不安、誤解やミスリードを払拭するために、説明していく必要があるんですよ、と森大臣に詰め寄る。森大臣は野党に対する答弁と違って、たいへん流暢に答える。これが絵に描いたような茶番でほんとうに気持ち悪かった。そうだそうだ、と拍手喝采するヒゲの隊長。
突如「石井浩郎くん」。立ち上がり、何の脈絡もなく委員長のもとに駆け寄る石井議員。複数の議員も詰めより場内は騒然。「ダメダメ」の声が響く。何が起こっているのか分からない。委員長の眼前で紙キレをピラピラさせる議員。なにこれ?と思う間もなく散会。ツイッターで知るまで、採決されたとは分からなかった。

後で動画をよく見たら、石井議員が委員長に駆け寄り場内騒然としている中で、ヒゲの隊長が自民党の議員に、立て立てとゼスチャーしていた。騒然として委員長の声も聞こえない中で、自民党の議員が立っていた。それに対する確認も何もなかったが、あれが「採決」ということなんだろう。驚いた。めちゃくちゃだ。「強行採決」というより「不意打ち」だ。学級会の多数決より酷い。


写真はthe guardianより



法案のマズさもさることながら、本当にやり方が汚い。圧倒的多数を誇るはずの与党が、こんな不意打ちみたいな汚いやり方をしないと通せない法案って何なんだろうか。こんなことして恥ずかしくないのだろうか。どこが「美しい国」なのか。立ち上がった自民党の議員は、これが「採決」ですと、胸を張って言えるのだろうか。

委員会議事録には、審議打ち切りの緊急動議も委員長による採決・可決の宣言もいっさい記録されていないそうだ(出典)。反対派・賛成派で受け取り方は異なれど、「強行採決」という言葉が独り歩きしている。しかしながら、「どうやって採決されたのか」「そもそも採決と言えるのか」が明らかになっていない現状ってすごくないか。国会がどのように運営されているのか、実はぼくはまるで知らないのだ。


同日夜、民主党は内閣不信任案、および森大臣に問責決議案を提出するが、他野党とのまとまりに欠けたこともあり時間稼ぎにもならなかった。こうして特定秘密保護法案は、参議院本会議でも強行採決され、可決された。

§



民主主義の発展や人権擁護に取り組む米財団「オープン・ソサエティー」は、特定秘密保護法が国家秘密の保護と開示に関する国際基準を「はるかに下回る」とし、「日本の一歩後退」を示すことになると懸念する声明を発表した。「21世紀に民主的な政府が検討した中で最悪の部類」とまで表現されている(出典)。

JNNの世論調査によれば、特定秘密保護法の国会審議について85%の人が十分ではなかったと考えている。同法の成立を「評価する」は28%、「評価しない」は57%。安倍内閣の支持率は54.6%だそうだ(出典)。

最低の法案が、最低のやり方で決められた。そう感じざるを得ない。

森雅子担当相は、「成立後は、あらゆる手段を使って必要性と懸念に対する説明を丁寧にしていきたい」と述べている。これから、多くの懸念はミスリードと認定され、報道は政府が示唆するような「正しい」伝え方をすることが求められるだろう。というか、採決前の質疑で元自衛官の自民党議員がそう言ってた。「報道機関にミスリードさせないようにする」。また同党の礒崎陽輔議員は、法案に反対するキャスターの意見を、中立義務違反であるとツイッターで述べている。反対デモはテロと本質的に変わらないと発言した石破幹事長も同じ体質である。

もう決まったんだから、いまさらイチャモンつけてんじゃねえよ。ネガティブなことばかり言いやがって。だったら対案を出せよ。そのように言いたくなる人も増えるだろう。それに対して萎縮する人も増えてくる。こんなこと言ったらミスリードになるんじゃないか、誠実な人であればあるほど発言を躊躇するようになる。そういった空気が醸成されることを、この法律は望んでいる。

これからは、抵抗することそれ自体が難しくなるということは覚悟しておかないといけないだろう。

§



後の自分のために、いま考えていることをもう少し噛み砕いて記録しておこう。

最近、自民党が強権的に事を推し進める際に自己正当化として用いるのが「サイレントマジョリティの信任を得た」という台詞だ。だけどこれは確かめようがない。なんせサイレントなんだから。あえて言うなら「高い支持率」がその根拠になる。しかしシングルイシューに的を絞れば、これは必ずしも当てはまらない。特定秘密法案に関しては、世論としても慎重論のほうが多かったはずだ。しかし与党は、「高い支持率」を、「サイレントマジョリティの信任を得た」と解釈して事を進める。

国会とはそういう理屈が通る場所であるということが今回痛烈に分かった。自民党の拙速で強引なやり方が発するメタ・メッセージは二つ。一つは、数に勝ればなんでもできるということ。もう一つは、反対意見はノイジーマイノリティとして片付けられるということ。

ところで、自民党の強権的なやり方の根拠となっている「高い支持率」であるが、前回の選挙で積極的に自民党に票を投じたのは約二割にすぎない。それで過半数を超える議席を得る圧勝となったのは、小選挙区制という選挙制度の問題である。これはよく理解しないといけない。なぜなら選挙制度を変え得るのも、選挙で選ばれた政治家であるからだ。たとえば、議員定数の削減という「身を切る」改革がどんな結果をもたらすか、言葉のイメージだけではなくきちんと想像しないといけない。比例区の定数を減らしたらますます少数意見は反映されにくくなる。「なんとなくよさそう」「やってくれそう」といったイメージだけで信任するのは無責任な大人だ。

ぼくがいちばん不可解なのは、二割の得票率でありながら、しかも個別の政策での支持は決して高くないのに、過半数を超えるという内閣支持率である。これはいったいどういうことなのか。
個別の政策についてはよく分からないけど、「なんとなくよさそう」「やってくれそう」だから支持されているという現象なのではないかと思う。とくに、選挙に行かなかった人たちが。二割の得票率で過半数の支持率とはそういうことだろう。

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくる。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。

であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。
サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。自分の言葉で。

数年前までぼくも完全なるノンポリ、無関心層だったので、そう思う。反対デモを「テロのようなもの」「嵐」と切り捨てる態度って、実はぼくらノンポリが共産党の人たちに向けていた視線(或いは泡沫候補に対する蔑視)そのままだったのだ。このことはよく反芻しよう。

自民党が今回の国会で見せた醜悪な姿は、集団(多数派)に埋没した時の個の姿だ。誰でもそうなり得る。民主主義を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、ツイッターで定型的な言葉を拡散してもあまり意味がない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。だから今回起こったことと、それを通して自分が感じたことを、自分なりに覚えておくことはとても大事なのだ。

§



参議院での採決をめぐる攻防、反対デモの盛り上がりは、石破幹事長に「テロと本質的に変わらない」、安倍首相に「嵐」と言わしめるほどに大きなものであった。それはたしかに一時的な盛り上がりであったのかもしれない。けれども、こんな時に盛り上がらないでどうする。こんな時に平易を装うようなシニカルな態度にいったい何の意味があるのか。

特定秘密保護法(に限った話ではないが)に対する、いろいろな「人々の反応」を冷静に分析してみせるのは結構だが、いちばん大事なのは自分がどう感じるかだ。自分の問題なんだから。

特定秘密保護法に反対している人々は、反対「勢力」を拡大するために無関心層を懐柔して取り込もうとか、そういう「運動」としての反対活動には興味がないのではないかと思う。それよりも、ひとりひとりが自分の頭で、自分のこととしてこの法案のことを考える人が増えてほしかったのだ。意味も分からないまま「反対派」に多数を取り込むような行為は、たとえ短期的に効果のある行為であったとしても、長期的に考えると逆効果だ。自分の頭で考え、自分の身体で行動する日本人がひとりでも多く増えることこそが、民主主義の国をつくることにつながり、特定秘密保護法への「抵抗」になる。

今回デモに参加した人の多くは、「やむにやまれず」飛び出した人たちであると思う。デモに意味があるかないか、なんてしたり顔で見物することのほうが意味がない。國分功一郎氏によれば、「デモとは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。テーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないと主張する人はデモの本質を見誤っている。デモの本質は、その存在がメッセージになるという事実、メタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることが重要なのだ。」(出典


奈良美智さんは、絵を描くときに下書きをしないそうだ。
奈良美智さんのツイートより
自分は下書きとかしないので、いっつもぶっつけ本番で描いていく。
何を描くかもわからず、何かが見えるまで、ただただ手を動かしていく。
途中はこんな感じで、何も見えない・・・

で、いっつもひとり叫ぶ 「あしたはどっちだ!?」


下書きのない真っ白なキャンパスに、筆を下ろすのは勇気がいる。だいたいの場合、どうしてやろうかと雑念が入り一筆目を躊躇してしまうからだ。一筆目をどう入れようかという雑念は、他人からどう見られるかというプレッシャーと表裏一体だったりする。そうするとますます怖くなる。下書きしたくなる。

明日がどっちに転ぶか分かっていたほうが人は安心できる。安心したい。下書きしたい。奈良さんはなぜ下書きしないのか。なぜ「あしたはどっちだ」と身悶えしながら手を動かし続けるのか。
「何を描くかもわからず、何も見えないまま、ただただ手を動かしていく」ことではじめて「何かが見えてくる」からだと思う。そしてそれは、下書きからは決して見えてこない何かなのだ。自分が思い描く「下書き」なんて、ものすごく了見の狭い思い込みの世界にすぎない。奈良さんはそのことを知っているから下書きしないのだと思う。現実の世界は、明日がどっちに転ぶのか誰にも分からない。ただ手を動かすしかないのだ。

デモに行く人は、用意周到に下書きをしていってるわけではない。明日がどっちに転ぶのか分からないことを承知の上で、それでもやむにやまれず飛び出しただけだ。手を動かしただけだ。意味や結果ではなく、「群衆が街中に出現すること」それ自体がデモの本質なのだ。そうすることで初めて見えてくる世界というものがある。「行動」と「知」は地下水脈でつながっている。

アーティストがなぜ作品をつくるのかというと、「そうせずにはいられない」からだ。商業的価値軸では判断できないし、言葉で簡単に説明できるならそもそも作品なんかつくりはしない。「そうせずにはいられない」から街頭のデモに飛び出した人たちのことを、「何の意味もねーよw」などと嘲笑する行為は慎みたい。それは自分の尺度での「意味」でしかない。未だキャンパスに描かれていない「意味」もあるのだ。

子供の絵の何がいいかって、それはもちろん、下書きが無いから。下書きから自由だ、と言ったほうがいいかな。ぼくはそういう絵を見てるとわくわくする。


§



特定秘密保護法が可決された翌日、ぼくのツイッターのタイムラインは不思議なほど穏やかなトーンであった。もちろん与党の理不尽なやり方や、同法に対する懸念は相変わらずある。けれども、それらは怒りに任せてというよりもっと冷静なトーンであった。施行されるまでは1年あるし、反対世論はこれから高まるだろう。3年後には衆議院選挙もある。

悪夢のような「真夜中の国会」実況中継ツイートが流れる深夜のスマホの画面の中で、作家の佐々木中さんのツイートに胸が沁みたことを思い出す。

佐々木中さんのツイートより
みんな、おやすみ。明日は闘争だ。よく寝て、英気を養って、あいつらを叩き潰すんだ。あいつらをあの場所に居させたのは俺たちだ。なら潰すことだってできるはずだ。子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢を、今夜は見よう。われわれにも夢がある。


子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢ーーー。おなじ夢を見ている人がここにもいる。そう思うだけで少し救われた。デモに参加するのは、おなじ思いを抱く人たちがここにもいるということを確認するためでもあるだろう。

ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。それでも、ぼくたち大人は、来るべき子供たちに希望を紡がなければならない。どうしようもない時代だからこそ、意識的にそうしなければ、数の暴力であっというまに消されていく時代だ。この両手に、子供たちの小さなぬくもりを感じている、そのぬくもりを知ってる大人たちは、いま希望の灯を点けないといけない。それぞれの持ち場で、それぞれ自分の言葉で、希望の灯を紡いでいかないといけない。そう思った。

平田オリザ氏の言葉を借りれば、日本はレジスタンスの時代に入ったのだ(出典)。レジスタンスは常にアンダーグラウンドでしか有り得ない。だから、意識的に希望の火を紡がなければならない。アンダーグラウンドであることと、レジスタンスであること、そしてポジティブであることは矛盾しない。やれることをやればいい。疲れたら休めばいい。

和合亮一さんのツイートより
真の 政治の季節が 必ず到来する
それまで あきらめずに したたかに しなやかに


岡田憲治さんの記事も紹介しておく。とてもいい文章だと思う。

祭りの後にするべきことについて 〜大切なこと3つ〜

そう、しなやかに。鋼のように。

§



特定秘密保護法案が可決された翌日、ぼくは久しぶりに実家に足を運び、これからについて両親と話をした(実はこれがいちばん苦手なのである)。それから家に戻り、妻が作った美味しい料理を食べて、少しだけビールを飲んで、家族でくだらないテレビ(エンタの神様)を見て笑った。じわじわと幸せを感じた。

本を読み、音楽を聴き、映画を観る。ごはんを食べ、たまにビールを飲む。子供らと遊ぶ。家族と話をする。仕事は自分からやっていく。やるべきことをやる。そんな気分になった。遅ればせながら。

シニカルに構えていれば事が過ぎ去るという時代は終わった。明日をつくるのも自分でしかないのだ。今までよりもずっと楽しんでやるという覚悟(やけくそじゃないよ)が必要だ。レジスタンスはポジティブなほうがいい。


岡田憲治さんの言うように、「SNSは、日々の記録をデータベース化させるのに絶好のメディアであり、記憶装置である」。この記事は、ここ数日の自分のツイートをまとめたものだ。もうすでに忘れていたようなこともある。だからこうして、ここに記しておく。
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特定秘密保護法案が可決されて思ったこと

特定秘密保護法案が可決されて思ったこと 2013.12.09 Monday [政治・メディア] comments(1)
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あ、そういう意味? 麻生さんの発言より

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話題となっている麻生副総理の「ナチス発言」ですが、ご本人が発言を撤回されました。東京新聞の記事によれば、

「私のナチス政権に関する発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾である。」
「私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。」

と仰っています。

先の選挙で大勝して、思わず本音がこぼれたんじゃないかとか、民主主義を否定しないと言いながら、静かにこっそり変えてしまえだなんて恐ろしいとか、いろいろと悪い妄想が膨らんでしまっていたのですが、誤解だったんですね。いやあ誤解でよかった。

勝手に誤解したぼくらの方が悪いのに…今は申し訳ない気持ちで胸がイッパイです。撤回までして下さるなんて感動しました。さすが副総理、一時は総理まで務めただけあって器が違いますね。

ローコンテクストな言葉()で明瞭に語ることもできたはずなのに、「ナチス」という危険なワードを選びながら、敢えて抽象的で意味不明な言い方をした発言主の真意を汲み取るべきでした。まだまだぼくらにはリテラシーが足りないようです。

だからぼくらみたいなもんは、これから「静かに議論」されるであろう(まさかされないわけはないですよね?)自民党の改憲草案の条文も、誤解しないように、真意を汲み取りながら寄り添って読み解かないといけないですね。まさか草案まで撤回して頂くわけにはいきませんし。


小田嶋隆さんが、一連の騒動について書いておられます。
麻生さんの「真意」のゆくえ - 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」

さすがですね。「ナチス」という単語と、現在の自民党の性癖を結びつけて、やっぱりお前ら普段からソウイウコト考えて(企てて)いるんだろと邪推しまくっていた単細胞なぼくと違って、たいへん冷静に判断を保留されています。

たしかに、麻生さんに対してもともと良くない印象を抱いていれば、悪意に解釈してしまうし、もともと良い印象を抱いていれば、善意に解釈してしまう。そういうクセが誰にでもあります。

同記事より
どうしてこんなにかけ離れた読み方になるのかというと、どちらの読み方も、麻生さんの心中を忖度し、彼が言葉足らずで言っていなかった部分を補った上で解釈したものだからだ。
つまり、普通に読んだら意味がわからないので、読み手の側が、解釈を発明しているわけなのだ。

では、本当の「真意」は、どこに宿っているのであろうか。

わからない。
というよりも、普通の読解力を持った普通の日本人が素直に耳を傾けて自然に「真意」が伝わってくるのが本来あるべき演説の姿なのであって、聴き手の側が一生懸命になって解釈しないとその「真意」が読み解けないような演説には、そもそも価値が無いと考えるべきなのだ。とすれば、わからない演説については、わからないままで放置するのが正しい態度なのである。


波紋を呼んだ第一報から2日ほど遅れて発表された、発言の全文とされる朝日新聞の記事を読んでみると、なるほど意味不明です。ほんとうに、これが政治家の発言かと思うくらい、理路整然としておらず、脈絡の無い言葉の羅列。これでは「読み手の側が、解釈を発明」せざるを得ないのも無理はありません。

全文を読んでも解釈ができないなんて、あんたリテラシーが欠如してるんだよ。
というお叱りの声も聞こえてきそうです。ですが、今回の麻生さんの件が提示している「リテラシー」とは、「断片だけの報道に惑わされずに、落ち着いて発言の全体(前後の文脈)を読んで、その意味を解釈する」という意味ではなく、「どうがんばっても解釈できない場合もある」という選択肢も「リテラシー」の中に可能性として入れておいてくれ、という意味での「リテラシー」ではないか、という小田嶋さんの見解に同意します。

ひょっとしたら麻生さんの発言は、講演というよりも、ポエムなのかもしれません。

作品から「意味性」を意図的に排除するという手法は芸術の分野などでよく見られます。アンディ・ウォーホルは「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と述べています。芸術家としての内面を排そうとしたのが彼の作品ですが、そういった彼の態度それ自体が芸術としての意味を付与されて解釈されているのは皮肉なことです。

人はそこに「意味」を求める。

だからおもしろいんですけどね。解釈がひとつしか無くて、作家の意図通りに読まれなければならない作品なんて、おもしろくない。これはどういう意味なのでしょうか、とポエムの言葉一言一句についての真意を作者に尋ねてしまうような「解説」があるとしたら、それは野暮です。そんなことはふつうしない。解釈を読者に委ねるからこそ、作品はゆるやかに大きくなっていくからです。解釈は受け手の数だけ存在する。アウトプットされた時点で、作品は作者の手を離れるものだとすら、ぼくは思っています。


もともと「意味性」を排したポエムなのですから、本人にその真意を問いただすのは野暮です。ましてや、麻生さんは作品を回収したのですから。あれは世に出せない程度のシロモノだったと気づいた(周りからそう言われた)のでしょう。

しかし、そうなると、発言を撤回した際の発言と矛盾してきます。
「私の真意と異なり誤解を招いた」という発言からは、私の真意(作家の意図)が存在しており、その通りに解釈されなかったのは遺憾である、という態度が読み取れます。さらに「私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである」として、ぼくのように無教養な人物のために、作品の読み方についてまで指南されています。

ということは、麻生さんは誤読されたくは無かったということでしょうか。作品は作家の意図通りに読まれなければならないという考えなのでしょうか。
だとすると、あれは「意味性」を排したポエムでは無かったと。まさか、政治的な発言だったりするんでしょうか。もしこれが「政治的」な発言だったとするのならば、様相が変わってきます。対外的な意味合いも出てくる。

読み手の想像力にまかせるというのは、文学とか芸術の領域です。政治家が政治的な発言をするならば、ローコンテクストな言葉で語ったほうが、真意は伝わりやすい。情緒やノリでなんとかなるのは国内が相手の場合だけです。国際社会ではそうはいかない。「真意」はどこにあるのかなどという禅問答よりも、他国からどう見られるか、どう受け取られるかという「評判」のほうが外交では重いわけです。たとえそれが「意味性」を排したポエムであったとしても、政治的な立場からなされた発言は、「相手に解釈されたもの」が、相手にとっての真実になってしまう。いかようにでも解釈できるような、抽象的で曖昧な言葉を多用するのは、もともと伝えたくないのか、あるいは能無しかのどちらかでしょう。

しかし、これは不思議なことなのですが、政治家とりわけ与党議員の国会答弁などを見ていると、抽象的で曖昧な言葉が、まるでファミレスのマニュアルみたいにくり返される場面が多いことに気づきます。解釈の余地を残して、その場を濁しておけば、後から官僚の意図通りにコトを遂行できるからですね。官僚主導とはそのようにして行われるものであり、だから長らく官僚の作文を読んできた自民党の先生方はポエム(作文マニュアル)をお持ちなのです。

「官僚主導」から「政治主導」という改革を訴え、政権交代を成し遂げた政党がかつてありました。彼らは「情報公開」を党是とし、ローコンテクストな言葉で政策を人々に伝えることによって「政治主導」を体現するはずでした(少なくとも彼ら自身はそう言っていたように記憶します)。しかし彼らは政権につくことで失速しました。鳩山さんは、ローコンテクストな言葉と作文マニュアルの間で揺れ続けました。ブレまくりだとの批判を受けて、その後に続く執行部が選んだのは、なんと作文マニュアルでした。かくして彼らが発する言葉は自民党と変わらなくなりました。

日本語とは、そもそも「「聞き手」の想像力を頼りに会話をする。相手任せの言語である。」と池谷裕二さんは指摘しています(カタカナ英語でいいんじゃない?)。移ろい行く季節や、細やかな感情の機微など、行間の意味さえも聞き手の感性に依存するのが、日本語を育んできた日本の風土であるとしたら、論理的な議論の場において誤読されることが少ないクリアカットでローコンテクストな言葉は、日本にはそぐわないのかもしれません。敢えて争点をぼかし、けっきょく何を言ってるんだか分からなかった自民党が、情緒やノリだけで大勝するのですから。

こまごまとしたことはどうでもいいから、なんとなくやってくれそうな人が、やってくれそうなことを言っていればいいのです。それを読んだ人々がそれぞれ勝手に忖度して、解釈を発明するのです。それをいちいちポエムの発言主に言葉の意味を問いただすような真似は野暮だと見なされるのです、たとえば共産党みたいに。それが日本の「政治」なのです。

・・・いままではね。

もし、政治のことを、テレビや新聞の中の出来事から、自分の暮らしや身体、いのちの側に引き寄せようと思うならば、政治の言葉を自分の手元に引き寄せなければなりません。自分の生活や、家族や、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、それを言語化して社会との関わりを説明しないといけない。それは、自分を主語としてローコンテクストな言葉でなされるべきです。有権者ひとりひとりが、そういった「自分の言葉」を持つようになったときに、はじめて「政治的議論」がスタートするでしょう。夢みたいな話です。


あ、そういう意味? 麻生さんの発言より

あ、そういう意味? 麻生さんの発言より 2013.08.02 Friday [政治・メディア] comments(0)
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原発と劣化ウラン弾

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2010年に発行された本であり、ぼくも発売当初に購入していながら、ずっと積ん読状態だった堤未果著『もうひとつの核なき世界』。2011年3月の東日本大震災と、それに伴い発生した原発事故および放射能汚染の問題は、解決の糸口も見えない状態で現在も継続中ですが、事故から2年半が経って、ようやく本書が提示する「核なき世界」という問題と向き合ってみようという気になったので読み始めています(まだ読み終えていないので、書評はまた後にします)。



2009年4月、オバマ大統領がプラハで行った「核なき世界」演説。この演説は高く評価され、オバマはノーベル平和賞を受賞。しかし、堤さんは、オバマのこの演説は欺瞞なのではないか、と疑問を呈します。「核なき世界」宣言後も、アメリカは軍事目的に莫大な費用を計上し続けているからです。そして、アメリカは、「他国が核を捨てない限り、米国は核を捨てない」とも言っています(参考)。個人的に、オバマは信用できる人物だと思いたいのですが、さて。

本書は、湾岸戦争やイラク戦争において劣化ウラン弾によって被曝したとされる米兵への取材から始まります。劣化ウラン弾とは、放射性廃棄物から作られる「安い、堅い、便利」な兵器。なにせ材料は捨てるほどあるわけです、原発を所有する国には。劣化ウランから成るこの弾は、分厚い戦車の鋼鈑を貫通し、破片も出さずにガス化、そのときの高熱で戦車内の兵士を即死させ、さらに放射性ガスも出るという小型破壊兵器。さらに土や水、食べ物も汚染されるとも言われています。実践に使用されたこの劣化ウラン弾によって、イラク国民はもとより、前線に赴いた米軍の帰還兵の多くも後遺症に苦しんでいるそうです。

そういえば以前、劣化ウラン弾についての本を読んだことを思い出しました。



本書で取りあげられている帰還兵ジェラルド・マシュー氏は、先述の堤さんの本でも登場します。ジェラルド・マシューさんは、戦地から帰還後、夜眠れないなど精神的に不安定になり、また体調の異変に気づいたそうです。そこで診断を受けるも、戦地に赴いたことによるPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されます。しかし、同様の症状を訴える帰還兵が多数いることを知り、劣化ウラン弾の影響ではないかと疑い始めます。

この本を読んだ当時の感想文をブログに載せていたので再掲します。

ヒバクシャになったイラク帰還兵 劣化ウラン弾の被害を告発する / 佐藤真紀

イラク帰還兵であるジェラルド・マシューは針で刺すような偏頭痛をはじめとした体の不調を来す。また帰還後に産まれた娘は右手の指が無いという先天的な障害を持っていた。ジェラルドはこれらが戦地に於ける劣化ウランの影響だとの疑いを持ち、軍に検査の要請をするが「あなたの娘の障害は劣化ウランとは関係がない」という判で押したような返答が帰ってくるだけだった。軍は劣化ウランの危険性さえも認めようとはしない。2005年9月、8名のイラク帰還兵とその家族がアメリカ合衆国陸軍省を相手に裁判を起こす。劣化ウラン兵器のイラク戦争での使用、劣化ウラン兵器の人体に対する危険性を知りながら、イラクに従軍した兵士に対して何ら警告を与えず、防御の為の措置を講ずることもなく汚染にさらし、帰還後も正確な診断をすることなく適切な治療をおこたったことに基づき、損害賠償を求めた。

僕は本書ではじめて「劣化ウラン」の存在を知ったのだが、湾岸戦争やイラク戦争で「劣化ウラン弾」という兵器が使用されたという事実を知っている人はどれだけいるのだろうか。その兵器が使用後も放射性を持ったまま放置され、ジェラルドのように前線ではなく武器の回収作業によってさえも被爆する危険性があるということを。そもそもが現地へ派遣される兵士でさえも「劣化ウラン」という言葉を知らない人が殆どだというのだ。いつだって被害を被るのは指揮を執る人間ではなく現場の人間だ。それだけに現場を知る人たちの声こそが、政府やペンタゴンの発表よりも生々しく真実を語っているように思う。政府に反する声を挙げることは多大な困難を伴う。ジェラルドは劣化ウランの訴訟を起こしてから、それまでの友人たちが全く連絡をくれなくなったそうだ。イラクでは湾岸戦争後、先天性障害を持つ子供が急増しているそうだ。戦争の現場を知る人たちは必ず戦争の恐ろしさを語る。戦争の現場を知らない人ほど勇ましい。

ヨーロッパでは同様の帰還兵や家族に対する補償が認められた例が幾つもあり、ベルギーでは今年(編注:2009年)6月に、劣化ウラン弾禁止法が施行された。日本は相変わらず様子見、というかアメリカ追従の姿勢を崩さない。日米関係がある以上率先して禁止の旗は振れない、というわけだ。そこまでして保とうとする日米関係って何なんだろう。

(再掲ここまで)


米軍の帰還兵たちの体調異変と、劣化ウランとの因果関係は示されていません。一説では、放射能による影響よりも、ウランの重金属としての毒性のほうが危険であるとも言われています。直感的にはこれで因果関係ないと考えるほうが不自然だろうと思いますし、けれども米軍が認めるわけがないということは分かります。もしかしたら、ほんとうに分からないのかもしれない。しかし、いずれにしてもそれについての情報が積極的に開示されないという点において、人々が不信を抱くのは当然であるとも言えます。

米軍が劣化ウラン弾を使用し続ける理由 - WIRED.jpより
イラク等実戦で劣化ウラン弾を使用した地域での白血病の罹患率や奇形児出生の増加、あるいは米軍帰還兵の湾岸戦争症候群などの健康被害が報告されているが、米政府は証拠不十分との立場を取っている。米国の復員軍人省は2007年、兵士たちのガン情報を非公開にすると決定した


そりゃ「何かあるぞ」と思うのがふつうでしょう。
日本での放射能をめぐる状況と酷似していますね。

放射能も、劣化ウラン弾も、健康被害への影響については諸説あるようですし、素人のぼくにはまったく判断がつきません。ただ、その周辺に漂う「うさん臭い」雰囲気、同じニオイがするように感じてしまうぼくは陰謀論者になるのかしら。「政府は事実を隠蔽している、国民を見殺しにする気だ」なのか、「知らせてもどうにもならない(賠償もできない)から言うだけ野暮」なのか、それとも「まだ予断は許さないけれども、ただちに影響は無い」なのか、「この程度なら大丈夫でしょう」なのか、あるいは「分からない」なのか、ほんとうに分からないのです。


劣化ウラン弾は核兵器とは呼ばれませんが、核のエネルギー源であるウラン、原子力発電の副産物である核廃棄物と密接に関わっています。イラク戦争の大義名分であった大量破壊兵器はけっきょく見つかりませんでしたが、アメリカ軍は劣化ウラン弾という小型破壊兵器を大量にバラまきました。

小沢健二は、「原発問題とはエネルギー問題ではなく、軍事問題だ」と言っています。

季刊誌『子どもと昔話』にて連載されている小沢健二の寓話『うさぎ!』。2011年7月に発表された第24話は、原発について書かれた作品であり、2012年の7月にネット公開されて話題を呼びました。原子力発電という存在が、どのようにしてスタートして現在に至るのかについて、各種文献にあたって解説してあります。ぜひ多くの人に読んでもらいたい内容です。

1940年代や50年代には、採算が合わないために実現可能ではないとされていた原子力発電。)榲のコストが高すぎるし、他の燃料であと15世紀は発電できるし、事故が起こったら「想像するだけでも身の毛のよだつことになる」という意見は、ビジネス界も科学界も一致していたそうです。アイゼンハワー大統領が「原子力の平和利用」を訴えても変わらなかった彼らの態度を変化させ、強固に閉ざされていた原発産業への扉を開く鍵となったい箸浪燭。

小沢健二 うさぎ!第24話(2011年7月)より
1957年、プライス=アンダーソン法(PA法、原発事故賠償法)ができる。原発事故の際の賠償の上限を5億6000万ドルに設定して、うち5億ドルは国家が払い、電力会社は6000万ドルまでしか払わなくていい、という法律。
要は、賠償金を怖れて原発に参加することを渋るエネルギー企業たちを、「事故があっても賠償金は少額しか払わなくて良いですよ」と、安心させるための法律だ。
PA法は、再承認がくり返されて、現在もある。
そして2001年には、エネルギーに詳しいチェイニー副大統領が言っている。PA法がなくなったら「原子力発電所には、誰も投資しなくなる」と。
そうか。有用な技術には投資が集まる、と言うけれど、原発技術の場合は、少なくとも基地帝国の場合、たった一つの法律、PA法がなくなるだけで、まったく投資が集まらなくなるわけだ。
そういう技術なわけだ。


なるほど、そういう技術なわけです。日本でもあの事故以前まで、原発はクリーンで低コストだとされてきた、いわゆる安全神話が、実は、事故が起きた場合のことや、核廃棄物の処理についてまったく考慮されてない上でのことだということが分かりました。

しかしなぜ、アイゼンハワー大統領は「原子力の平和利用」を訴え、多額の費用をかけてまで原発を推進しようとしたのでしょうか。まだ「原子力ムラ」が形成される前の話ですから。

同記事より
原発の歴史の中で、「二重目的炉」という言葉が聞こえる。「二重目的炉であれば、原発の採算は合う」と。
二重の目的のうち、一つは電力を売る商売。でも、それはビジネス界の長い抵抗や、保険業界の査定やPA法からも分かるように、市場経済の中でまともに成り立つ商売ではない。
もう一つの目的は、軍事目的。核兵器の材料になるプルトニウムを国家に調達すること。その軍事的なプラスを含めれば、原発を持つ理由はある。「二重目的炉であれば、原発の採算は合う」は、そういう意味だ。
理由がある、エネルギー。核兵器の製造と保持、という理由が。
謎が解ける気がしないだろうか?

(中略)

周りの国が次々と核武装する世で、核武装した国と関わらずに、核兵器を持たない覚悟ができるだろうか? 核軍事衛星が噂される時代に、核兵器を持たず、それでも独立した、自立した国として生きていく見通しが、決意が持てるだろうか? 核武装した大国の属国として、表向きだけ「反核」を唱えるのは楽だ。裏では大国の田舎町に保管された核兵器(事故が起こるのは必ず田舎町だ)と、密接な関係を持てるのだから。でも、そういう形ではなく生きていくとしたら?
それは、全身全霊をかけて答える問いになる。

「違うよ、原発問題はエネルギー問題で、うちの国はエネルギー問題に取り組んでいるんだよ」と言う無邪気な人は、同じ主張をしている、他の国を見ればいい。
イランや北朝鮮やベネズエラが「エネルギー問題に取り組むために原発を建てている」と言ったら、国際世論は、何と言って批難するだろう?
必ず「あれは軍事目的だ!核兵器が目的だ!」と批難する。
彼らがそう言うのは、自分の国の原子炉が「二重目的炉」だからではないだろうか? エネルギーだけを目的とした原子炉なんて、本当は採算が合わず、有り得ないことを、よーく知っているからなのではないだろうか?
正統な歴史を注意深く見ると、「原発問題」ってのがあるとしたら、それは軍事問題のように思える。
たぶん、そうだ。


原子力発電の、そもそもの出発点が軍事問題なのだとしたら、いくらエネルギー問題について論を重ねても、原発問題は解決しないでしょう。軍事問題そのものが無くならないかぎりは、放射性廃棄物から劣化ウラン弾は作られ続けるでしょう。先述の記事中にもありましたが、オバマ大統領は、理想主義的である一方で、極めて現実主義的でもあるのです。その点は忘れてはならないでしょう。

「他国が核を捨てない限り、米国は核を捨てない」という思想と論理は、アメリカだけでなく世界のスタンダードなのです。
森達也さんのコラムより。

(あすを探る 社会)9条の国、誇り高き痩せ我慢 森達也 - 朝日新聞より
アメリカの銃社会をテーマとしたドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアは、黒人や先住民族を加虐してきた建国の歴史があるからこそ、アメリカ市民は銃を手放せないのだと主張した。報復が怖いからだ。つまり銃を手もとに置く人は勇敢なのではない。臆病なのだ。
 こうしてアメリカの正義が発動し、正当防衛の概念が拡大する。丸腰の高校生を射殺した自警団男性の正当防衛が認められて、無罪評決になったことは記憶に新しい。
NRA(全米ライフル協会)の主張に同意する日本人は少ないだろう。頭の回路がどうかしていると思う人もいるはずだ。でも実のところこの思想と論理は、世界のスタンダードでもある。
核兵器や軍隊の存在理由だ。
我が国の軍隊は、他国に侵略する意図などない。でも悪い国が軍隊を持っている。だから攻められたときのために、国家は軍隊を常備しなくてはならない。つまり抑止力。理屈はNRAとまったく変わらない。
こうして誤射や過剰防衛が起き、それをきっかけに戦争が始まる。人類はそんな歴史を繰り返している。


いま、9条を改正しようという自民党が圧倒的与党となり、参院選での大勝を受けた翌日には、安倍首相が「武器輸出三原則の抜本的な見直しの議論を始める」と発表。さらには武器輸出三原則自体の撤廃まで目論んでいるとまで云われています(参考)。安倍政権がこのように舵を執る根拠に日米同盟があることは明らかで、名実ともに安倍首相は、鳩山氏によって日本が失いかけた、アメリカ追従の姿勢を取り戻しました。
さらに60余年間にわたってやせ我慢して守り抜いてきた9条を捨て、「世界のスタンダード」たる強い日本を取り戻そうとしています。もしかしたら、安倍首相は現実主義的なのかもしれません。
その一方で、安倍首相が思い描く理想というものが、ぼくには少しも伝わってきません。
「憲法改正」して、「国防軍」を創設して、どういう国を作りたいのか。単純に戦前回帰だとは思いません。ただ、現実主義的に原発を再稼働し、現実主義的に憲法改正し、現実主義的に世界のスタンダードたる国防軍を創設したときに、現実主義的に核廃棄物から劣化ウラン弾を作る、なんてことにならないことを願います。


原発と劣化ウラン弾

原発と劣化ウラン弾 2013.07.25 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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つまりは知名度なんだけど、じゃあ知名度って何なのさっていう(参院選2013:比例区「候補者名」での得票数から)

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10人中10人がこう言うと思いますが、参院選は予想されていた通りの結果になりました。自民党の圧勝も、民主党の惨敗も、絵に描いたよう。共産党の躍進や山本太郎の当選がややサプライズとはいえ、前哨戦であった都議選の結果からある程度予想されていたことです。とはいえ、共産党以外の野党が、ここまで見事に泡沫政党と化していくのを見るのはなかなか忍びない気持ちです。3年後までに建て直せるんでしょうか。

これからしばらくは「対立」の時代になるんでしょうね。圧倒的数の強さを誇る与党と、それにすり寄る勢力。そして、それに噛み付く抵抗勢力。なにせ首相自身が、自説に反対する人々に対して狭量な態度を見せていますので、「対立」構図はそう簡単には埋まらないでしょう。むしろ硬直化していく。与党が強権的であればあるほど、レジスタンスの気運は必ず出てくる。自民党への積極的支持層がそれほど多いとは思いません。共産党の躍進や山本太郎の当選は、日本全体を覆う「対立」構図が硬直化してきたことの現れであるように思います。だから「調整型」の議員は当選できない。今後しばらくは「たしかな野党」共産党に、権力の暴走を阻止してもらうことを期待するしかないでしょう。

いろいろと思う点はありますが、選挙の総括はすでに多くの人がされていますし、これからも分析がされるべきことですので、あまり話題にならなそうなところをつついてみます。ちょっとおもしろいなと思うことがあったので。


昨年末の衆院選では、小選挙区制という仕組みへの批判が割と多く見られました。ぼくも、これじゃ選びようがないじゃないかとだいぶ悩んだし、死票が多く出る小選挙区制への疑問も抱きました。どうせ決まっているから、と投票率の低下にもつながる。

参院選は、小選挙区と中選挙区が混在したような制度になっています。定数が複数人である都市部は候補者も多く中選挙区のような扱い。1人区が多い地方在住者にとっては今回も小選挙区のジレンマを感じることになったと思います。幸運にも、ぼくの選挙区は応援したい候補が当落線上に位置する激戦区でしたので、選挙区での迷いはありませんでした。結果は残念でしたが、投票行為自体には納得しています。

ややこしいのが比例区。衆院選とは異なり、「党名」でも「候補者名」でも記入できます。だいたいそれを知らずに投票所に行ってから掲示されている紙を見て選ぶという人が意外に多いのでは。参院選の比例区「非拘束名簿式」のしくみについては下記の説明をご覧下さい。
21日に投開票、投票の仕組みは? - 産経新聞

で、今回の結果を見てみると、

≪選挙情報≫ NHK 2013 参院選(参議院議員選挙 開票結果) - NHK

なるほど、党毎に100万票で1議席なんですね。生活の党は議席獲得まであと一歩。惜しかった。
で、さっきのNHKのページで各党派をクリックすると、「候補者名」での得票数が見れます。これがおもしろい。17万票を獲得した三宅洋平氏が落選で、10万票の渡邉美樹氏が当選という、比例区マジック。なるほど、いくら「候補者名」で投票できるといっても、比例区っていうのはあくまでも「党」なんですね。党の知名度によって決まる。

で、よく見てみたら「候補者名」での得票数は、なんと上位6名までが公明党の議員なんですね。自民党1位で42万票なのに公明党1位は99万票。自民党の上位議員もおそらく利害の絡む組織的得票の方々なのでしょう(よく知らんが)が、それをはるかに上回る。この数字を知ったらおもしろくなってきたので、NHKのページをもとに集計してみました。検算してないので間違ってたらごめんなさい。

党派
得票数
議席
「候補者名」での得票数
得票数における
「候補者名」の割合
候補者数
自民党
18,460,404
18
4,380,274
24%
29名
公明党
7,568,080
7
4,234,935
56%
17名
民主党
7,134,215
7
2,035,499
29%
20名
日本維新の会
6,355,299
6
1,163,733
18%
30名
共産党
5,154,055
5
506,286
9.8%
17名
みんなの党
4,755,160
4
533,735
11%
15名
社民党
1,255,235
1
317,008
25%
4名
生活の党
943,836
0
219,847
23%
6名
新党大地
523,146
0
124,297
24%
9名
緑の党
457,862
0
215,400
47%
9名
みどりの風
430,673
0
111,042
26%
3名
幸福実現党
191,643
0
38,347
20%
3名


総得票数における、「候補者名」での得票数が占める割合(以下「割合」)を見てみると、だいたいが20%前後で推移していますが、公明党がダントツの56%。組織的に動員されて、きちんと統率されていることが分かります。この組織力はすごいわ。幸福実現党と比べても、質・量ともに組織的強さにおいて圧倒的。

同じく組織的動員のイメージがある共産党の割合は、もっとも低い9.8%。これは、ふだん支持政党の無い無党派層が共産党に流れたという解釈でいいのかな。所属議員の顔は知らないけど、自民党へのアンチテーゼとして共産党に入れるという。これも一種の「風」かと。例えば維新の会のアントニオ猪木のように有名人候補がいないというせいもあるかと思います。

維新の会やみんなの党の割合が低めなのも、無党派層の期待が表れたものでしょう。議員のことはよく知らないけど「なにかやってくれそう」というイメージ。「風」ですね。なにしろ、猪木氏は「政策について、維新の会と打ち合わせをしたことがない。選挙に風を吹かせてくれといわれて・・・。元気を入れる役回り」と自分で言っているぐらいですから(参考参考)。

そして公明党と並んで割合が突出しているのが、緑の党。「候補者名」での得票数のうち、8割以上が三宅洋平さんに対する票です。17万票って多いのか少ないのかよく分からないなあと思っていましたが、こうやって見るとすごいですね。党の知名度も、組織力も無い中でこの得票はすごい。
これはもしもシリーズの思考実験ですが、三宅洋平さんは、たとえば生活の党から出ていれば議席を獲得できたかもしれません。あるいは社民党から上の、今回議席を得た政党のいずれかに所属していれば当選でした。

ぼくもそうなんですが、三宅洋平さんに投票した人は、おそらく「緑の党」に入れたというよりも「三宅さん個人」に投票したという感覚のほうが強かったのではないでしょうか。もし大選挙区制なら彼は当選していたかもしれない。だから、ワタミより多いのに〜と思ってしまう。だけど、それはルールだからしょうがない。

比例区はあくまでも「党」の争いなんですね。「候補者名」を記入することで、その感覚を忘れてしまう。総得票数に対する「候補者名」での得票数の少なさをみても(三宅雪子さんで3万票台ってちょっと驚きでした)、鍵を握るのはあくまでも党としての知名度。生活の党や緑の党はその存在すら知らない人もけっこういるのでは。
三宅洋平さんは、「全候補中26番目の得票で一人の政治的立場としての存在感は生む事ができた」としつつも、「ルールはルール。それを理解して臨んだので言い訳にするつもりはない。比例で勝つには、強い党を作らなければならない」と言っています。

やっぱり、比例区でわざわざ「候補者名」を書くのは、その候補を応援したいという場合か、あるいは自分が所属している組織の利害に関わる場合か、いずれにしても政治に対してある程度コミットしようとしている人に限られます。投票所に来るまで比例の投票方式も知らなかったような人は、議員名まで書きはしないでしょう(以前のぼくはそうでした)。なんとなくのイメージやそのときの「風」で政党名を選ぶわけです。けっきょくは「候補者名」がどうのこうのというような細々としたことよりも、自民党なら誰でもいいという意味での得票が1,400万票あることが圧倒的なわけで。

少数政党が議席を獲得するには、少数政党同士でまとまって選挙協力するか、選挙制度を変えるか、あるいは議員定数を増やすか、しかない。昨今のトレンドでもある「議員定数の削減」が、ほんとうに政治家自身の「身を切る」ものなのか、よく考えた方がいいと思います。ぼくは、増やしたほうが民意を反映できると思う。

と、まあいろいろと妄想を膨らませながらNHKのページを眺めていたのですが、実は個人的にいちばん衝撃だったのは意外なところにありました。


新党大地の鈴木宗男氏。



写真を見てもらうと分かりますが、ムネオハウスで有名な、あの鈴木宗男代表ではありません。今回の参院選に出馬したのは、鈴木宗男代表と同姓同名の鈴木宗男氏です。
新党大地「鈴木宗男」氏を擁立 出馬できない代表と同姓同名 - 産経新聞

「知名度を生かした支持票を集める狙い」として出馬した、この鈴木宗男氏がなんと党内トップの6万票。これって、三宅洋平(17万)は別格として、三宅雪子(3万票)、谷岡郁子(5万票)、山田正彦(4万票)、東祥三(3万票)など、実績もあり、個人的には応援したいと思っていた議員の得票数よりも多い。

失礼ながら、鈴木宗男氏に期待して票を入れた人はそんないないでしょう。投票所に掲載されている比例区名簿を見て、あら鈴木宗男だわ、なんつってカキコしたぐらいのもんじゃないでしょうか。それが「知名度を生かした支持票」の正体なのでは。鈴木宗男代表の知名度ではあるけれども、投票された鈴木宗男氏は鈴木宗男代表ではない。いわば、非実在知名度。それが、これだけ得票しちゃう。

これって、「知名度」っていったい何だよという、新党大地からの痛烈な皮肉なのか。選挙を使った壮大な風刺なのか。


三宅洋平さんが17万票を得たのは、三宅さんの「知名度」です。だけど比例区で勝つには、党としての「知名度」が必要でした。だから議員としては、大きな政党に所属したほうが有利だし、逆に政党としては、「知名度」のあるタレント候補を擁立しようとする。その結果、党の力で当選した議員は党議拘束に縛られることになるし、有名人候補は単なる客寄せパンダになる。

選挙戦の戦略って、つまりは「知名度」ってことに集約されるんだろうけど、じゃあ「知名度」っていったい何なのさっていう。それ、「政治」に関係あるのかな。っていうか実在してるのかな。


つまりは知名度なんだけど、じゃあ知名度って何なのさっていう(参院選2013:比例区「候補者名」での得票数から)

つまりは知名度なんだけど、じゃあ知名度って何なのさっていう(参院選2013:比例区「候補者名」での得票数から) 2013.07.23 Tuesday [政治・メディア] comments(2)
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なにを基準に投票するのか問題

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参院選まであと3日。
ネット選挙解禁によって投票率が上がるとは思いませんが、公示後もこうやって気にせず選挙のことを書けるという点において、ネット選挙解禁はよかったなあと思います。

と同時に、懸念していたように、意見の相違による対立構造の可視化、反目し合う勢力への非難の応酬も多く見られます。まあ、その手のいざこざはネット解禁以前からありましたし、民主党が政権交代する直前の自民党による怪しげなネガキャンがかえって反発を招いたことも思い出されます。選挙でのネガキャンといえば、アメリカなんかではもっと露骨らしいですけど。

対立構図の激化によって、知りたいことがかき消えてしまうのは残念だなあと思います。どっちが正しいとかどっちがデマだとか、そういうことよりも、単純にあなたの考えが聞きたいと思う。

内田樹さんのツイートより
参院選選挙戦後半になって、だんだんネガティブキャンペーンが苛烈になってきました。「・・・を落せ」というタイプの政治的発言を見る機会がここに来て増えてきましたけれど、僕はこういう文型で政治を語るのは「なんか肌に合わない」です。個人的趣味なので、一般化する気はないですけど。

発言が過激になるのは、基本的には有権者の判断力を信じていないからです。だから、驚かそうと思って、大きい声でずばずば断言する。どうして静かな声で情理を尽くして説くということができないんでしょう。そんな選挙ができている国は世界のどこにもないのかも知れないけれど、それでも。


個人的な趣味としてたいへん共感します。たしかに選挙は「戦い」であり「おまつり」であるのかもしれませんが、どうもあの「レース感覚」は好きになれない。個人的にめっちゃ支持したい候補者がいたとして、街頭でその人や選挙カーに会ったとしても、手をふったりはしないと思います。

じゃあお前は徹底的に各候補の政策を吟味して、比較検討した上で、クールに選んでいるのかと問われればそうでもない。「政策」で選ぶのか、「人」で選ぶのか、という命題に対してぼくは答えを出すことができていません。


上記の内田さんのツイートをきっかけに、とあるツイ友さんからメンションをいただきました。そこから展開していった会話がおもしろかったのでまとめてみます。村上さんとぼくとは支持政党が違います。だけど政治の話題についてはフランクにメンションし合える間柄でもあります。そういう距離感って貴重だなと思いつつ。


村上:
近い問題意識を持っている人の間で、いくつかの解決策となる候補がある場合が一番集約が難しい状況になるなぁと思います。問題について考えれば考えるほどそうなる、というのは本当に難しいです。
あまり考えてない人とか、逆の考えの人っていうのは説得の仕様もあるんですが、例えば保育園を増やしたいね、というふうな近い問題を抱えている人同士の場合「保育園を増やします」といってくれる候補者が複数いると投票先が分かれてしまうという。
そこで苛烈な言葉が出てくる状況になってくるとつらいなと…。どうでもよさそうなマジョリティは安穏と当選していき、何とかしたい人同士はともすれば反目したうえに共倒れ、みたいな。でも、選挙は通過点、という気持ちを忘れないでいきたいなぁというところです。

山澤:
ふむ、そうなると野党は結集せよという話になっちゃうんですかね。ぼくの場合は「苛烈な言葉」が生理的にダメなんです、選挙に限らず。たぶんそういうこと。
昨日、政策マッチングの「えらぼーと」なんてものをやってみたんですが、あんま参考にならないなと。いや、ほぼ合ってるんだけど、なんか足りないというか、こんなんで決めれないぜと。
「政策の言葉」だけでは投票原理にならないんじゃないかと。例えばマック赤坂は今回マトモなこと言ってます(えらぼーとならたぶんマッチングするはず)が、(自分が都民だとしても)投票しようとは思わない。じゃあいったい何なのか。

村上:
人それぞれ、なにかが響くんでしょうね。それが分かれ道とすると、あまりにも人の根本部分でのジャッジすぎてなおのこと一致させるのは難しいってことになっちゃいますね…。まあ、それで健全な状態とは思います。

山澤:
いや、そういうことだと思いますよ。「感覚」なんじゃないかなーと。感覚っつっても、直感だけじゃなくて、ロジックも含めた上での、肌感覚。
ロジック「だけ」では他人を説得できないのも、そういうことだと思うんです。やっぱり体験とか体感がないと理解できないし。「論破」で人は変わらない。

村上:
そういう意味ではどぶ板ってやつは意味があるんですよねぇ。程度が問題なのと、それ「だけ」じゃダメだろと思いますが。
「政治的な意見をかわすこと」がタブー視されてきているのはやはり同調圧力っていうか村社会というか、内田さんの本にも同趣旨の内容があった気がしますが、かなり打破が難しいのだろうなー。あと自分自身が否定されるかのように感じちゃう、のはなぜですかね?

山澤:
「政治」と「自分」が切り離されているからじゃないですかね。やっぱり昔は政治は「利権」で動いていたから、政治の話=利権の話だった。自分は「利権」には与してないということを殊更にアピールしようとする心理が「無党派層」という括りなのかと。

村上:
なるほど。それは面白い!そういうことかも。
なるほどなるほど。今でも、ちょっとした要求として「保育園を」とか言ってもかつての利権イメージがついてきちゃう、ということもありそうですね。「権利ばっかり主張して」にもつながりそうな。
まあ政治の方向性も音楽の趣味と同レベルでいいんじゃないかというあたりをスタートラインにできるとすごく気が楽になります。

山澤:
あ、それすごく分かります。個人の政治的見解の違いなんて、昼めしマクドナルドにする?モスバーガーにする?それとも思い切って寿司?くらいの選択の違いでしかないです。スタバ行く?デモ行く?くらいの感じになるといいなあ。(現在の自民党にはそこまで寛容に思えるほど心が広くないですが…)

村上:
それについて(編注:自民党)は、たとえて言うと「パンクかヘビメタかpopか」ではなくて「音楽が好きかどうでもいいか」という分かれ道部分に該当するかなと。好きか嫌いかだと大枠で簡単に分けられますけど、どうしてもジャーマンメタルは許せないとか、そういう。あ、ジャーマンメタルは一時大好きでした。

山澤:
ぷぷっ。そうですね。音楽について語ることじゃなくて、JASRACについて語ることになっちゃいますね。


ぼくは今回、比例区での投票先を決めかねていたのですが、先日Youtubeで三宅洋平さんの唄う選挙演説を見て、この人に決めました。それまでべつに注目していたわけでもないのに、自分でも驚くほど、すっとそう決めた。彼が主張する政策についての細かな点については吟味していないし、主要な政党に属さずにたった一人で国会に乗り込んで政治家としてどこまでやれるのかは分かりません。彼の主張をもっと吟味しなくていいのかという気もするし、たぶん調べていったらまた迷うことになると思います。荒削りだし。

それでも、ぼくは自分の感性が感じたヴァイヴを信じることにしました。「政治のことば」が変わっていくことに期待して、一票を投じるつもりです。そういう投票の仕方もアリってこと、じゃないかと。


SOH BUNZOHさんのツイートより
よく選挙で「入れたい人がいない」「誰に入れたらいいかわからない」という意見を耳にするじゃん。どうしても分からない人は、極端な話顔で選んじゃってもいいと思うんだ。ポスターとか、街頭演説とか、政見放送とかで顔ぐらい見るでしょ。その印象を信じて一票、はアリだと思う

そりゃ政治は言葉よ。ロジック大事よ。政策大事よ。でもな、いきなり勉強して政策の是非検討しろっつったって分かんない奴はいっぱいいるだろう。そういう人らに「君たちは勉強が足りない、民主主義社会の成熟した市民たるために云々」つったってんますます投票したくなくなるに決まってんじゃねえか。

見た目で選ぶ、なんて言ったらいかにも安易な選択に見えるだろう。でも「こいつは自分にとってよさげな事をしてくれそうか、安心して政治をやってもらえそうか」を顔とか印象だけで本気で選んだら結構大変だよ。頭使うというより、五感使うよちゃんとやったら。

そして、そういう選び方をした候補者と、それこそロジックを詰めて、政策におかしなところがないか、ごまかしがないか、できもしなさそうな事言ってないかを検討した末に選んだ候補者とに大きな違いがあるとは、俺は思えないんだ。意外と似た感じに落ち着くんじゃないかな。

繰り返すけど、この方法が一番いいとはもちろん言わないし、やっぱり色んなことは知っておいた方がいい。でもね、「知らないから」「分かんないから」「関係ないから」で選挙行かないよりは、「あ、この人良さげ☆」で一票入れた方が絶対いいです。


顔とか印象だけで本気で選んだら五感を使う、とか、五感で選んだ候補とロジックで選んだ候補に大きな違いはない、という指摘に同感です。ぼくはものごとを考える基本として、感覚を優先させる人間です。文章を書くにも、ああこの感覚を表現するには…と逡巡しながら言葉に落とし込んでいく感じ。言葉がぽんぽん出るタイプではありません。だから、五感とロジックを近似値に持っていきたがるのもぼくの個人的趣味で、一般化はできないかもしれませんが。

選び方は人それぞれでいいと思うんです。ロジックでも五感でも、選び方は何でもいいから「自分で選んだ」という経緯があれば、その候補者が当選しようが落選しようが、その後どうしていくかを見ていく気になります。あるいは当選した対立候補の言動をチェックしていく気になる。投票という行為からはじまるわけです。


「政治」と「自分」は切り離されたものではありません。つながっているものです。自分は「利権」には与してない「無党派層」であることを殊更にアピールする必要もない。だってそれふつうのことなんだから。「べつに○○を支持するわけじゃないが」という枕詞をいちいち付けるのもめんどくさい。そのときどき毎に支持する政党が変わるなんて、べつにふつうのことじゃないですか。それを「無党派層」と呼ぶんですかね。じゃあ逆に「支持」って何なんだろう。

「おらが村に」利権という便宜を図ることで、投票を呼びかけるような時代はもう過ぎ去ったんです。若い世代にまで利権を分配できるだけの財力がもうこの国には無いんだから。だから選挙の主流は「風」になりました。
既得権側からしてみれば、利権でコントロールできない若い人たちには「無党派層」であることを自覚してもらって、政治に幻滅して無関心でいてもらうか、あるいはテレビが演出する「風」に乗ってもらうか。できれば、自分の頭で考えてほしくはないんですよ、「有権者の判断力を信じていない」わけだし。

顔でも選べないというなら、「風」に乗ったっていいから、いちど投票してみるといい。
で、だいたい失敗するわけです。そこで、じゃあ自分のロジックや五感のどこがダメだったかを検証して補正していけばいいだけの話です。というか、それこそが大事。投票はスタート地点でもあります。投票してみてはじめて分かることもある。

「若者の投票率が〜」と言うけど、若者の多くが賢い選択をするわけじゃありません。いくら「選挙に行こう!」と訴えても、どうせ投票に行く人は行くし、行かない人は行かない。「棄権はオール・イエス」というのも事実。若者の投票率が低いほうが都合がいいのも事実。だけど、若者が投票に行けば未来は変わる!とか過剰な期待を押し付けるのは儚い幻想だと思います。そこに自分の勝手な期待を込めているんならやめたほうがいい。まずは投票に行ってもらって、そこからやっとはじまるというぐらいの段なのです。だから誰がどこに投票しようが恨みっこなしです。

個人の政治的見解の違いなんて、昼めしマクドナルドにする?モスバーガーにする?それとも思い切って寿司?くらいの選択の違いでしかないんだから。そのときの気分や、フトコロ具合や、メンバー(家族構成)によって変わることだってあるわけだから。誰にとっても旨くてコスパも最高なメシなんて存在しない。立場や環境が変われば、見え方が変わってくるのは当たり前です。自分がジャーマンメタルは嫌いでも、ジャーマンメタルが好きな人もいるということは理解したい。だって音楽好きであることに変わりはないじゃないですか。自分の趣味と違うからといって見下したり、ましてや改心させようとか懲らしめようというのは筋違いですよね。



ということを踏まえた上で、現在の自民党は「政策の違い」で括れる範囲を逸脱しています。だいたいにおいて、首相自らが、自説に反対する人々を「左翼の皆さん」とか「恥ずかしい大人の代表」と侮蔑の言葉で見下してしまうのは、政権与党の態度としてまずいでしょう。ジャーマンメタル好きを否定しているわけで、それって音楽好きの態度でしょうか。「ねじれ解消」しないと政治が前に進まないと言うのも、反対意見と対峙するだけの甲斐性が無いと言っているようなものです。対立構図が強調されることで、情理を尽くした小さな声はかき消えてしまう。

安倍政権の高支持率の理由は経済政策だと言われます。だけどぼくの周囲に景気が上がる気配なんてぜんぜん無い。何をもって、もう少し辛抱すればアベノミクスの恩恵にあずかれると信奉できるのかがぼくには理解できません。改憲についてはもっと深刻です。石破幹事長は、国防軍の中に軍法会議の設置を盛り込むことについても言及しています。自民党改憲草案でググってみれば、現在の自民党が憲法のイロハをも理解していないことが分かります。現在の自民党は、かつて国民政党として君臨した自民党と同じではないです。保守政党でもない。

想田和弘さんのツイートより
自民よりマシな政党がないから自民に入れるって言う人は、自民の政策を知らないのだろうか。例えば憲法を改悪して、国民の人権を奪おうと本気で考えている政党以上に酷い政党があるとでもいうのだろうか。


一般論として、憲法を改正する必要があるというのは「感覚」です。自民党の憲法改正草案を知ることは「ロジック」です。「感覚」と「ロジック」の両方が必要です。一般論と個別事項をごっちゃにしてはだめです。改憲草案を一読もせずに、一般論として改憲に賛成だと言っただけの声だとしても、世論調査では「改憲に賛成」にカウントされます。それは自民党の改憲草案に賛成だというふうに受け取られます。音楽について語っているのか、JASRACについて語っているのか、きちんと確認したほうがいいです。

自民党や維新の会がやろうとしているのは、民主主義の無効化です。ぼくは政策的にみんなの党には賛同しないけど少なくとも話は通じそうな気はする。そこが決定的に違う。みんなの党と生活の党あたりで左右軸を展開して二大政党制やるんなら話分かりますけど、自民党と民主党を左右軸で語る意味ないです。政策の違い云々以前の軸自体がズレてんだから。だから、たとえば「原発を止めたければ自民・公明・維新・民主・みんな以外の党に入れろ」というのは間違ってはいないけれども、彼らを一緒くたにして敵視してしまうのはまた別問題だとも思うのです。

そこの軸がズレてさえいなければ、多少意見の違いがあっても「政治的な意見をかわすこと」はできるはずです。できるだろうか。できるといいなあ。少なくとも、ぼくは十何年か後になって、自分がこの人に投票したということとその理由を自分の子供たちにちゃんと説明できる人に投票したいと思います。


なにを基準に投票するのか問題

なにを基準に投票するのか問題 2013.07.18 Thursday [政治・メディア] comments(2)
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三宅洋平(比例区)緑の党 唄う選挙演説

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「政治のことば」を変えようとしているーーー

三宅洋平さんの「唄う選挙演説」を見て、ぼくが感じたのはそういうヴァイヴでした。こういう選挙演説もアリってこと、それ自体がおもしろい。



「いつものスタンスでマツリゴトを…スーツも着てみたけど、俺にはどうしたって窮屈で。日本の社会もスーツも。」
この迎合しないスタンスをぜひ貫いて欲しいです。映画「立候補」を観た後なので、なおさらそう思います。

連日35度を超える気温で、日本はもう温暖湿潤気候じゃなくて亜熱帯地方に突入したわけじゃないですか。タイとかフィリピンの仲間でしょう。いつまでもバブルな経済成長が続くわけないし、いつまでもスーツの時代に縛られてるときじゃないのですね。

埼玉大会で熱中症相次ぐ 熊谷38・3度
現実を無視した、こういう監督の時代錯誤な精神論や、杓子定規な日程組みによって熱中症が拡大します。気温の変化にも、時代の変化にも適応していくことが、それこそ「グローバル人材」育成なのでは。
気温が変わったのに、伝統という名を借りた自分の思い込みを変えることができない。日本の行政組織が硬直化しているのは、スーツに縛られているからです。スーツという「政治のことば」に縛られている。




三宅洋平さんの「唄う選挙演説」は、軽やかでした。

「政治のことば」を変えるって、べつに「チャラい言葉」を使うってことじゃないです。ぼくみたいなもんには、三宅さんの演説は熱すぎて眩しいし、いきなりタメ口っていうのもどちらかというと苦手です。だけど、そういうことじゃない。「政治のことば」を変えるって、そういう表層的な意味じゃない。「政治をマツリゴトに」という主張は、スーツを脱いで、新しい「政治のことば」を紡いでいこうぜ、ということだと思います。

三宅さんが変えようとしているのは、「公」という言葉の概念です。「公」を自分たちのマツリゴトとして引き寄せようとしている。前回の記事で書いたことのくり返しになりますが、大事なのでもういちど書きます。

日本では、公務員は既得権益とされてバッシングの対象になります。公務員や議員を減らせという声が世論としての主流です。まるで公務員が多いことが問題であるかのように扱われていますが、日本は公務員の少ない国であり、すべての欧米先進国より少ないというデータがあります(参考)。
「滅私奉公」なんていう言葉が美徳としてあることから考えても、日本における「公」という言葉の位置づけは推して知るべしです。

nakanemisaさんのツイートより
7〜8年前、diversity MLで「公」の概念がヨーロッパと日本ではまったく違うことを知った時は衝撃を受けた。「公」というのは「自分たち」のことなんだと。

公とは「お上」のことではなく、「自分たち」の総意。教育の捉え方は、この「公」の捉え方で大きく変わる。今ある社会に適応させること。ここ数十年の日本の教育の主な目的はそれだった。でも本当はもう一つの大切な側面がある。どんな社会をつくりたいのか、自分の志向や意志をもつ人を育てることだ。


「公」という言葉の使われ方と、「Public」という言葉の使われ方がまるで違うんですね。それらの言葉を聞いて想起するイメージもたぶん違うし、それらの言葉が使われるバックグラウンドもまったく異なっている。

2009年の政権交代で民主党が、松井孝治参院議員が中心となって打ち出した「新しい公共」とは、つまりこの「公」という言葉を再定義しようという意味でした。いままでの「お上にお任せ」型の政治から、有権者が「自分たちで引き受ける」政治へ。鳩山由紀夫氏が言っていた「裸踊り」もそういう文脈であったわけです。これは日本の政治史において、相当にドラスティックな変化になるはずでした。当時のぼくは、その期待も込めてこんな記事を書いています→「公」と「私」

だけど、そういうことはあまりアナウンスされなかったし、そういう認識は人々の間にほとんど浸透しなかった。民主党の迷走とともに、「新しい公共」はいつのまにか立ち消えて、そして忘れ去られていきました。

人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ません。民主党がダメだったからやっぱり自民党、だなんて短絡的すぎる。知的な逡巡がなにも無い。だけどしょうがない。長いこと「お上にお任せ」でやってきた日本市民のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけないんです。何十年もかけて、言葉とともに成熟させていかないといけない。

だからこそ、教育が重要です。

nakanemisaさんのツイートより
この世界のルールを知って従うことも必要。でも同時に、あなたは自由な意志をもって生き、この世界とルールをつくっていく一人でもあるということ。

意志をもつように育てるための何か特別な方法があるわけではないだろう。ただ言えるのは…子どもと、親や先生(学校)との間に、双方向のやりとりがあり、そのせめぎ合いで状況を変えていける体験することではないだろうか。一方的に押し付けるだけでは、考えない受け身な生き方を身につけさせてしまう。


「教育改革」が必要だと、誰もが言います。
だけど、どういうふうに変えていけば良いのか、その中身はそれぞれの考え方によります。自民党と民主党の教育観はぜんぜん違いました。「教育」という言葉で一緒くたにできない多様性をもっているのが、教育だと思います。言葉の字面通りの定義ではなく、話し手と言葉が含むニュアンスを見ないといけない。

「教育」という言葉を聞いた時に、ぼくたち大人は、自分が理解できる範囲で勝手に自分なりに解釈してしまいがちです。子供は、大人がもつ偏狭な理解や解釈を超えていく可能性をもっています。双方向のせめぎ合いを通して、言葉がもつ意味を再定義していくのも子供たちです。

「滅私奉公」から「活私開公」へ、「公」という言葉の概念が変わるとしたら、きっとそれまで無関心だった人たちの政治に対するスタンスも変わります。だいたいにおいて、「政治」という言葉を聞いたときにまずはじめに受けるネガティブなイメージをなんとかしたいですよね。政治家って、本当はクリエイティブな仕事であるべきだと思います。

フルタルフ文化堂 より
コトバが変わると人々の気持ちが変わる。政治が変わる。社会も変わる。人々のコミュニケーションのスタイルも変わる。だからリーダーこそが、しなやかなコトバ、自分のコトバで語りかけることは、本当に大切だ



演説の中(17:00〜)で、三宅さんがカバーしているトレイシー・チャップマンの「Talkin' Bout A Revolution」という曲。ぼくも大好きな曲です(ライブ映像)。
88年にリリースされた彼女のデビューアルバムに収録されています。


著者 : Tracy Chapman
Elektra / Wea
発売日 : 1994-07-08



いままでずっと歌詞の意味も知らずに聴いていたのですが(歌詞が分からなくてもヴァイヴを感じることができるのが音楽なんですよ、と言い訳)、この度きちんと歌詞カードを読んでみたらちょっとズシリときました。

Tracy Chapman 「Talkin' Bout A Revolution」歌詞対訳
ねぇ 判る?
世の中が言っているのは 革命のこと
ささやきのように・・・

幸福の 囲いの中にいても
救世軍には 涙を見せる
仕事もなく 無為に時を過ごし
けれど 何かを期待している

貧しい人々が今 立ち上がろうとしている
自分のものを 勝ち取るために

ねぇ 判る?
生きることは 走り続けること

そう、私たちが話しているのは 革命のこと


なにも政府転覆だけが革命ではありません。コトバの意味が変わること、それは大きな革命だと思います。

ぼくは先述の「唄う選挙演説」を見て、比例区は三宅洋平氏に投票することにしました。(参院選の比例区は、衆院選と違って「政党名でも候補者名でも記入できる」(候補者名だと個人と政党の双方にカウントされる)ということを事前に知れてよかった。いつも投票所に行ってからそのしくみを知って、膨大な候補者名簿を前にあわわとなるので。まずはこういうルールがもっとアナウンスされて然るべきと思います。)

自分でも驚くほど(もっと吟味しなくていいのかと)、すっとそう決めた。彼が主張する政策についての細かな点については吟味していないし、主要な政党に属さずにたった一人で国会に乗り込んで政治家としてどこまでやれるのかは分かりません。何も出来ないという結果になるかもしれない。

それでも、ぼくは自分の感性が感じたこのヴァイヴを信じることにします。「政治のことば」が変わっていくことに期待して、一票を投じるつもりです。そういう投票の仕方もアリってこと、じゃないかな。

何十年か後になって、自分がこの人に投票したということとその理由を自分の子供たちにちゃんと説明できる人に投票したい。そうすることで、子供たちにも自分で「考えて」ほしい。「俺も分かんねえことだらけだからさ、一緒に勉強していこうよ」と三宅さんは言います。自分の周辺から少しずつ、小さなRevolutionをしていくこと。そのことについて話し合うこと。「公」の概念を理解している(成熟した)大人が2割いれば、その社会は機能していく、という内田樹さんの言葉がぼくはずっと頭に残っているんです。

三宅洋平(比例区)緑の党 唄う選挙演説

三宅洋平(比例区)緑の党 唄う選挙演説 2013.07.16 Tuesday [政治・メディア] comments(0)
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それって誰のもの

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漫画家のとり・みきさんが、自身の作品がテレビ化された時のエピソードをこちらのコラムで綴っています。もう20年以上も前の出来事だそうですが、ここで書かれている「創作物をめぐるあれこれ」は、現在もあまり変わっていない状況であると思います。

青春の怒りとカネ とり・みきの「トリイカ!」 - 日経ビジネス・オンライン

同記事より
いまさら出来に文句をつける気持ちはない。
ショックだったのは、ドラマ化が決まっていく過程でのさまざまな出来事だった。

編集側はあきらかに舞い上がっていた。
基本的に「ドラマ化おめでとう。これで単行本も売れるね。ついに君もメジャーだね」という空気が、編集側からも局側からも同調圧力としてビンビン伝わってくる。ドラマ化に反対するような要素はすべて悪と見なされるような、そんな雰囲気だ。

色んな交渉ごとでも、編集側が作家よりもまず局側に気を遣っているのがわかる。こちらは「えっこの人たちはこっちの味方なんじゃなかったの」という不信感が増していく。

交渉が進むにつれて、局側の言葉の端々から、このドラマ化のプロジェクトが、まず主演の女性歌手を売り出すための企画であり、適当な原作はないか、とリサーチした結果、このマンガが浮上した、というような経緯が伝わってくる。そういうことを当の作者にいうのに、あまりてらいもない感じだ。


テレビがいかにメディアの王様であるかを物語っています。
それと同時に、「作品」とは誰のものか、という問いをも突きつけています。

同記事より
まず大きくは「作品は誰のものか」という古くからの命題がある。
話を拡げれば、出版社や映画会社(実質テレビ局ですが)という矮小な単位でなく「描かれた作品は作者のものか読者のものか」といういつものテーマが姿を現す。


音楽の分野でも、デジタルデバイスの普及にともなって、著作権保護がうるさく言われるようになりました。誰が主体的にうるさく言ってるのかというと、だいたいミュージシャンではないんですよね。作者ではなく、作者をとりまく周囲の人間が著作権を言い立てて大きな顔をし始める。いったい誰のための著作権保護なのか、実はよく分からないということが多いように思います。CCCDという愚行を犯した音楽業界は自分の首を絞め、結局そんなものはあっという間になくなりました。

著作権をめぐる問題について以前ぼくも書きました。
クリエイティブ・コモンズ(著作権による囲い込みから、おたがいさまの共有へ)

最終的には、作者への敬意があるかないか。それだけだと思います。

とり・みきさんは、「作品は誰のものか」という著作権の問題については、作者それぞれの考え方があり、それぞれのスタンスがあって然るべきだし、それでいいと言っています。自身の作品のドラマ化に関しても、自分の作風を一徹して守りたいというわけではないそうです。「原作とテイストが全然違っても作家性の強い監督が作る作品なら、私はそっちのほうを見てみたい」と。

だけど現実はそうじゃなく、作家よりもまず局側の意向が先に立っていた。たぶんドラマ化の現場では、作品に対するリスペクトはあまり無かったのではないでしょうか。とり・みきさんは「原作者だけ蚊帳の外」的な疎外感と不信感が膨らんでいった結果、こうなったそうです。

同記事より
なによりも、この不幸せな気持ちが、身近で一緒に作品を作ってきたはずの編集部に理解されていないのがいちばん悔しく情けなかった。やがて私はモチベーションが完全に折れ、連載の終了を申し出た。「テレビ化が決まってこれから本が売れるというのに、いきなりこやつは何をいいだすのだ。信じられん」といわんばかりに、当時の編集長はあきれた顔をした。

説得はされたが、けっきょくその、けっこう人気のあった週刊連載は、それから単行本1巻分も描かずに終わった。

(中略)

冒頭に述べた青二才ゆえの過ちだが、それくらい、当時の私は気持ち的に追い込まれていて、その場所からショートカットで脱出して違うところで自分の描きたいマンガを描きたい、と切望していた。当時の副編集長がやってきて「二度とこの世界で仕事はできないぞ」とすごまれたのを憶えている。


作者への敬意があるならば、こういう対応にはならないはずです。自分らのメシのタネぐらいにしか思っていないんじゃないでしょうか。自らの立場を利用して脅しをかけるなど論外だと思うのですが、こういうことは常套的に存在しているんでしょうね。選挙を前にして「いま自民党を敵にして農業が大丈夫だと思っているのか」というあからさまな恫喝もつい先日ありました(参考)。


作品は作者のものか読者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。どちらが正しいなんてことはありません。


先ほど唐突に選挙の話をもってきたので、むりやり政治の話にむすびつけます。
政治は政治家のものか有権者のものか。どちらの意向を汲むべきか。忖度するべきか。


森達也さんが、民主党への提言として寄稿した文章から転載します。

民主党 参院選スペシャルサイト声!より
多数決を原理とする民主主義は、メカニズムとしては市場原理だ。メディアが市場に迎合するように、政治も国民の多数派に迎合する傾向が強くなる。ポピュリズムが加速する。こうして国は判断を間違う。そんな事例は歴史にいくらでもある。前回はあれほど大勝し、そして今回はこれほど大敗した。圧倒的な世相の変化については、議員一人ひとりが実感しているはず。ならば開き直ることはできないか。多数派への迎合をやめる。選挙という市場原理に規定される政治家に対して、この要求がとても難しいことは承知している。でも試みてほしい。模索してほしい。

ドイツは改憲において国民投票を必要としていない。なぜならばかつて世界で最も民主的と謳われたワイマール憲法を掲げながら、結局は正当な民主的手続きでナチスドイツを誕生せしめたという記憶があるからだ。このリアリズムに僕は感動する。


市場原理にしたがって、最大公約数の意向を汲もうとすることで作品の質が落ちていくということは残念ながらたくさんあります。「その作品にとって、もっとも幸福な終わりのタイミングで終われない悲劇」もそうだし、手塚治虫の自身による過去作の度重なる改変が批判されたり「ディレクターズ・カットに名作なし」と云われたりする(前述のとり・みきさんの記事より)わけです。

どうしても選挙に勝たなければならない政治家は、最大公約数の意向を汲もうとします。少なくとも選挙中は、最大公約数の意向を汲むというフリをします。世論に迎合して、忖度する。

だけど、その世論って、実態のよく分からない、あるんだか無いんだか分からない代物だったりしませんか。少なくとも、テレビが喧騒する「世論」には、ぼくの声は入ってないなあと思うことが多い。あるんだか無いんだかよく分からない、幻想に向かって忖度しているような、そんなふわふわした空気を、森さんの指摘する「集団化」に感じます。

そんな中で一徹して自分の作品を作り続ける日本共産党はある意味、職人なのかもしれません。だから、自分の作品を守ろうとする向きがあって、それが自党のためなのか有権者のためなのか分からないなどとよく言われる。ぼくもよく分からないときがあります。

0か1かの問題ではないでしょう。どちらの要素もあるし、互いに影響を与え合っている。バランスだと思います。民主党が今後そのバランスを模索できるかどうか、あまり期待はしていませんけれども、民主党に限らず、ポピュリズムに陥らない飄々とした政治家、政党が出てきてほしいと思います。

それって誰のもの

それって誰のもの 2013.07.11 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

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めずらしく、新聞を読みました。妻の実家に泊まらせていただいたので、息子が寝た後にその隣で紙の新聞を広げてみたんです。元サブカル系男子としては、ピーター・バラカンという文字が目に留まらざるを得ないわけで、読んでみたらおもしろかった。投票、民主主義についてのオピニオン記事。WEB版から転載します。

(2013参院選)半分で決める民主主義 ピーター・バラカンさんほか - 朝日新聞
より以下引用

ピーター・バラカン氏
憲法は政治家のためではなくて国民を守るためにあるのに、今の政権は自分たちが人々を管理しやすくするために憲法を改正しようとしている印象がある。それは、大変な間違い。ぼくは外国籍だし、参政権もないけれど、日本の皆さんがそのことに気づいていないんじゃないかという危機感があるんです。


外国籍だし、参政権もないのに、ピーター・バラカン氏はそう考えています。だけども、バラカン氏が指摘するように、日本国籍を持ち、参政権を持つ日本人の多くは「そのことに気づいていない」でしょう。政治への無関心、忌避感はたぶん先進国の中でも突出していると思う。マスメディアは多くを伝えないし、多くの日本人はそのマスメディアに過多に依存している。バラカン氏はラジオDJであり音楽愛好家ですが、それと政治の話だって、ほんとうは地続きでつながっている。それを分断して別ものにしてしまうことで、政治の話がタブー視されていく。なぜそうなるかというと、日本での政治談義の多くが単なるレッテル貼りの域を出ていないからでしょう。日常生活の中で政治の話がタブー視されるのは本当はおかしなことです。

ピーター・バラカン氏
96条を改正して国会議員の憲法改正発議の要件が3分の2から2分の1に引き下げられ、9条が改正されて普通の軍隊ができたら、ゆくゆくは自分の子供が徴兵され、戦場から帰ってこないかもしれない。それでいいの? 先のことまで想像してみてほしい。一人ひとりがどういう国であってほしいかを考えてみる価値はあると思います。


自民党が何をしようとしているのか。あれほど96条改正に意欲を見せていた安倍首相ですが、参院選を前にして改憲に関する話題はトーンダウンしています。たぶん実際に投票日になる頃には、改憲のことなんて頭から消え去っている人のほうが多くなるでしょう。だけども、自民党は96条改正や9条改正を目指しているし、「公共の福祉」という文面を「公益及び公の秩序」と書き替え、国民の人権を軽く扱おうとしている。そういう政党であるということは、もうすでに示されているわけです。それは事実であるし、その方向性は撤回もされていない。ただ選挙の争点としてはトーンダウンしているだけです。

だいたいが「選挙の争点」っていうのもおかしな話で、争点はメディアの報道が決めるものではなく、また与党側が決めるものでもない。有権者であるぼくたちひとりひとりが、自らのプライオリティに基づいて、自分で決めることです。自分の原体験、つまり自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、何が大事なのか、どういう国であってほしいかを考えてみるのが選挙です。候補者にとってもそうだし、有権者にとってもそうです。争点はひとつではない。勝手に簡単に決められてたまるかって。

自分の原体験を放り投げて、それよりもこっちが刺激的だろと、テレビの画面は誘導します。これについて君はマルがバツか、どう思うんだいと。当事者でもないのに答えを迫られる。選挙の争点はこっちだぜ、と誘導される。そうやって、政治がぼくらの生活から切り離されていくのです。政治のことを、自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのではないでしょうか。

今度の参院選で、自民党が96条改正に必要な3分の2の議席を狙っていることは明らかです。そのために、他党の取り込みを含めた謀略も出てくるでしょう。これが終われば、向こう3年間は国政選挙がありません。「自分の子供が徴兵される」改憲へと結びつく選挙になるはずです。だけど、それは争点になりません。争点になれば自民党が不利になるからです。アベノミクスへの信任選挙みたいな雰囲気になっている。なんですかそれ。アベノミクス(これもインチキな代物だと思いますが)で票を取った後は、自民党は必ず改憲へと舵を取る。そういうものです。選挙とはそういうものです。

同じく朝日新聞の記事より、千葉市長・熊谷俊人氏。

熊谷俊人氏
参院選は投票率が落ちるでしょう。18年ぶりに50%を切るかもしれません。でも棄権はノーにはならない。オール・イエスですよ。選挙結果を追認するだけだし、後で文句も言えない。政治不信だから投票しないというのもおかしい。私に言わせれば、それは政治過信ですよ。


棄権(投票しない)はオール・イエス。
これはほんと、みなが有権者として肝に命じてほしいです。昨年の衆院選の結果がそれを物語っていますよね。得票率の低さから、国民は積極的に自民党を選んだわけではない、というのは正論です。ですが、現実には得票率に比例しない高い比率の議席を自民党が占め、実権を握っている。投票しない、あるいは白票という行為は、「ノー」を意味しません。本人がいくらそういう意味を込めたとしても、仕組み上、そうは受け取ってもらえない。ただの自己満足にすぎないのです。

選挙に行かない人に対して、行けと訴えるほどの気概はぼくにはありませんけれども、少なくとも選挙に行かない=全権委任であるということは分かった上で、行かないという選択をしてほしいです。次の参院選でも投票しないという人は、「原発再稼働」と「改憲」の自民党に「全権委任」するということに等しい。後でこんなはずじゃなかったと言っても、なんにもならない。入れたい人がいないだなんて甘い言い訳です。

ぼくは昨年の衆院選で、自らの意思で「死票」を投じることによって、ずいぶんものの見方が変わりました(詳しくはこちらに書いてあります)。選挙とは、勝ち馬を占うレースに便乗するイベントではありません。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、「死票」だの何だのは関係ないだろうと。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

選挙はとても重要です。だけども、選挙じゃ何も変わらない。それも現実。マイノリティにとっては常にそれが現実なのです。その現実に冷めた視線を送りつつ、それを踏まえた上で、それでもやっぱり選挙は大事なんです。

熊谷俊人氏
選挙することの大切な意義として、有権者と政治家が関係を持つことがあります。投票すれば、任期中もその政治家の行動に責任を持ち、次の選挙では自分の投票は正しかったか顧みて、一票を投じられる。その繰り返しで有権者は学び、政治家は鍛えられる。投票しなければ、有権者は無責任のままで、政治家も鍛えられません。


ぼくは自分が「死票」を投じてみて、はじめて気づくことがありました。原体験は何よりも大きな「学び」になります。政権交代とは、失敗をくり返すことで有権者と政治家が学び、民主主義の精度が少しずつ上がっていくものであるはずです。

当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。死票にはそういう意味もあるはずです。

ピーター・バラカン氏
2分の1だけで決める政治は乱暴ですよ。ある勢力が55%で勝っても、45%は納得していない。過半数がとれないからといって全部泣き寝入りしなきゃいけないのか。そんなはずはない。


自分の支持者だけでなく、負けた政党に投票した有権者のこともぜんぶ抱え込んで考慮するのが与党の仕事です。泡沫候補を支持するような有権者は切り捨てる、自分に反対する立場の人はおかしいとレッテルを貼る、それは与党の党首がやることではありません。

だからこそ、選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明することが大事です。無関心でいることは、サイレント・マジョリティであることを意味します。それは現状追認と等しい。

そして選挙の後は与党の言動をしっかりと注視することも必要です。違うと思ったらぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。自民党が政権をとったからといって、その後の運営を全権委任したわけではない。ここでも、サイレント・マジョリティであることは現状追認と等しくなる。意見しないことも、またオール・イエスなのです。

政治家だって超能力者じゃないんだから、声を挙げなければ届きません。

熊谷俊人氏
5月に市長に再選されましたが、投票率が31%。率直に言って、もう少し投票に行ってほしかった。
(中略)
私は市民と一緒に仕事をするスタイルで、市民の方々に関心を持ってもらわないと実現できない政策がたくさんあります。4年に一度の選挙にさえ行かない人に、一緒に汗を流しましょうなんて言えないでしょ。だからこそ、選挙に参加してほしかったんです。


市民と一緒に仕事をするってどういうことか。意見の相違だけではなく、声を挙げる方法だっていろんなやり方があっていいと思います。スピーチやプレゼンが得意な人もいれば、じっくり考えるのが得意な人もいる。選挙事務所に電話をしたり、メールしたり、ツイッターでつぶやいたり。デモに参加してみたり、横目で眺めてみたり。そういうのが「特別なこと」じゃなくて、ふつうになればいいと思う。それぞれの人に合った、それぞれのやり方で。

そのほうが、サイレント・マジョリティであることが「ふつうなこと」である現在の世相よりも、よほど風通しが良いと思います。ぼくもまた参政権を得てから長い間、棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティの一員であったので、反省を込めてそう思います。

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ

棄権(意見しない)=全権委任(お上におまかせ)というサイレント・マジョリティ 2013.06.20 Thursday [政治・メディア] comments(0)
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橋下徹氏が政治家になった理由

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もうこの人は終わりなんだなと思うと、哀れになるだけで、不思議と腹が立たなくなってきました。

アメリカにも激怒された、橋下徹大阪市長による慰安婦発言に端を発する数々の詭弁。同氏は発言を取り消そうとせず、「誤報された」とか「日本人は読解力不足」などと言って自己正当化を図っていますが、その詭弁術は目に見えて劣化しており、論旨がおかしいのは明らかです。彼のそういうレトリックを小馬鹿にしたり軽蔑したりするのは簡単ですが。いまもって「マスコミの伝え方が悪い」とかいう擁護の意見を少なからず目にすると、ああなるほど日本人は読解力が不足してるという点だけは当たってるなと。

橋下徹氏は69年生まれのテレビ世代。政治家に転身する前からテレビに出ている姿を見ていると、テレビの世界が好きなんだろうなという印象はあります。もちろんぼくなんかもテレビ世代なわけで、彼を選んでしまう日本人も含めて、ある意味、時代の申し子なのではと。橋下現象とは、橋下氏個人の問題だけではないはずです。

いまはまだテレビ世代が大手を振る時代。橋下徹氏はその最後の砦なのかもしれません。欺瞞がボロを出して崩壊している。なぜこうも恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言ってしまうのか。そして、日本人はなぜそういう人たちを選んでしまうのか。橋下現象とは、橋下氏の欺瞞であると同時に、ぼくら日本人自身が作ってきた社会というものが抱える欺瞞を見せつけられているような気もするのです。


で、ぼくがどうしても分からないことがあるんです。橋下さんって、どうして政治家になろうと思ったんだろう。だって、あれだけの詭弁術があれば、金儲けなんていまよりぜんぜん出来てただろうに。地位、名誉?政治家ってそんなに地位や名誉のあるお仕事なんでしょうか。っていうか地位や名誉ってそもそも何なんだろうと考えると訳が分からなくなったり。テレビでちやほれされたい? それだけ?

もちろん本人に訊かなければ分かりませんし、訊くつもりもありませんが、橋下現象って、なぜその現象が起きているのかという出発源を考えると、不思議だよなと。

ツイッターでリプライいただいたご意見を幾つか紹介します。

ひっさんより
僕ら大阪人も橋下さんが選挙に勝ったことより、彼が政治家を選んだことのほうがある意味解りません。収入は以前のほうがはるかに多いはず。一つ考えられるのは市管理の賭博と風俗の利権を狙ってるのか


府知事を辞めて市長になったわけですよね。なぜか。大阪都構想を実現するため、二重行政を解消するためというのが一般的な認識とされています(参考)。もちろんこれは橋下氏の言い分です。読解力があれば俺の正しさが分かるはずだという主張をそのまま読解する人は読解力がないということを、彼は身を以て教えてくれたので、こういうのはまず疑うクセがついてしまいました。

ぼくは大阪府や大阪市の実態を知らないし、生活実感も無いので、大阪都構想というものがどれだけの妥当性と実現性を持つ改革案なのか、よく分かりません。平松邦夫前大阪市長は、大阪府・市の水道統合頓挫について「二重行政の問題ではない」と言っています(参考)。この辺りは、他所から論理戦を傍観していてもどちらに理があるのかはたぶん分からないと思うので、あまり追求しません。賭博と風俗の利権がちらついているのかどうかも知らない。

ただ、「収入は以前のほうがはるかに多いはず」というのは、そうだと思うんです。政治家なんかにならなければ、彼の「心理戦で絶対負けない交渉術」はボロを出さずに、もっと大きな利権にあずかれるだけの才能があったと思うんですよね。だから、彼が欲しかったものは「利権」ではないように思えます。じゃあいったい何なのか、というのが、ぼくの疑問の出発点です。

知事と市長のどっちが偉いなんてことはないでしょうが、市長への転向は「改革のために敢えて降格した」という印象を与える結果にはなっているような気もします。「利権」ではないとしたら、やはり「政策実現のため」だろう、と思うのは推論として的外れではありません。けれども、これまでの橋下さんの発言を振り返っていくと、自分が置かれた論戦状況によって、その場だけ正しいことを言い続けてきたということが見えてきます。結果として、言ってることがコロコロ変わり、発言が簡単に撤回されることもしばしば。実現したい政策が先ずありきであるとはとても思えません。


村上研治さんより
著書によると権力欲がすごいみたいです。
橋下氏曰く「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。
自分の権力欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければいけないわけよ。
ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!嘘つきは政治家と弁護士の始まりなの。」


橋下さんのこの言葉はこの著書からの引用みたいですが、すごいですね。これが彼の「本音」なのだとすると、慰安婦発言にも通じるように「本音を言って何が悪い」的なメンタリティなんでしょうか。こういうことを本に書いておいて、それで実際に政治家になっちゃうって、たいぶ錯乱しているように思えますが、大丈夫なんでしょうか。

彼の言う権力欲、名誉欲っていうのは何なんでしょう。政治家ってそんなに権力あるのかなあ。そんなに名誉なお仕事かなあ。いまどき政治家が「イケテル」なんて思ってる若い人はいないでしょうし、権力や名誉のために政治家になろうと思うなんて、相当に古い感覚じゃないかと思うのですが、橋下さんってそんなに古臭いメンタリティをお持ちなのでしょうか。まあたしかに、発言の端々から男尊女卑的な感覚が垣間見えますし、石原慎太郎さんと同調したりしているので、そっち寄りの価値観をお持ちなんでしょうが、それにしても。「茶髪の風雲児」などともてはやされた時期もありましたが、それって単なるヤンキーって意味でしかなかったのかなあ。“日本社会にヤンキー文化が拡大している”という斎藤環氏の記事は興味深かったですが、その中で斎藤さんは「維新の会はヤンキー色が濃すぎる」と述べています。これは同感で、その辺りを合わせて考えると、実際に権力や名誉が欲しいというよりも、「権力や名誉が欲しいとぶっちゃけて言う俺ってかっこいい」っていう精神構造だったりするのかな、とも。


ɐʞoɐƃɐu ɐʎuıɥsさんより
「変えたい(既成のものを壊す)」と思ったんじゃないですかね。それはとても「快感」です。←批判一辺倒で言ってるわけではありません。


なるほど、「快感」。個人的にはこれがいちばん納得のいく理由ですね。

橋下さんがこれまで展開してきた「論戦」は、ぜんぶ自己正当化のためのレトリックです。自分以外はみんな既得権になっちゃうし、誤報したり読解力の無い相手が悪いことになる。どっちが正しい、どっちが悪い、そういう話ばっかり。彼の言葉から、大阪市民の顔はぜんぜん見えてこない。ほんとは政策なんてどうでもいいんです。そこに暮らす人の息づかいなんてどうでもいい。
「論戦に勝つこと」それ自体が目的化してしまっているのではないか。怒涛のツイッターはそれを象徴しているように思えます。

なぜ「論戦に勝つこと」それ自体が目的化するのか。それが「快感」だからです。
なぜ「改革」は支持されやすいのか。それが「快感」だからです。

どっちみち橋下徹氏が政治家になった本当の理由なんてたぶん理解はできません。ここに書いてあることは、ぼく個人のお気楽で勝手な妄想です。だけど、ああいう人物が出てきて、そしてそれなりの支持を得てきたっていうのは、橋下氏がとくに金や権力の権化だったとか、理解し難い変人だったというだけではなく、時代感覚的な要因もあると思うんです。橋下現象とは、テレビ世代の隆盛と終焉とでもいうか。

テレビ番組がつまらなくなったとよく言われます。ぼくもそう思います。説明過多で、とにかくやかましくなったと感じます。台詞にはテロップを流して、効果音を付けて、ワイプを付けて、もうゴテゴテにてんこ盛り状態。1秒たりとも静寂が訪れないようにしている。静寂が無いということは、視聴者が「考える時間」が無いということ。「どういうふうに考えたらいいのか」、さらには「どういうふうに感じたらいいのか」までもテロップや効果音で説明してくれるんだから。静寂があって、地味で、考えさせられるような番組、受け手である視聴者の感性に委ねるような番組は好まれない。刺激的でパッと目や耳を引きつけるもてはやされる。それが「快感」だからです。

「快感」が要請する衝動に沿って番組作りを続けてきたのがテレビの世界であり、その延長線上に橋下現象があるのではないかと指摘しつつ、誰か戦後のテレビ史と政治史を絡めた考察をしてくれないかなと他人任せにして終わります。





追記(5/23)

橋下さんの「日本人は読解力が無い」から文脈を読めなくて誤報をするのだ、という主張は、猪瀬直樹東京都知事の「真意が伝わっていない」とまったく同じ心理から出てくる言葉ですよね。「俺が本当に言いたいことはそういうことじゃ無かったんだ」と「事後的に」釈明する。「真意はそこじゃない」と事後的に釈明することで前言をうやむやにできるならば、何でもかんでも無茶苦茶なことが言えます。「そんなこと思っていなかった」という言い訳を大のおとなが繰り返している光景は見苦しいです。

この、「真意はそこじゃない」と事後的に釈明する心理って、「いまの自分はほんとうの自分じゃない」と自分に言い訳をする心理と似ているように思います。「いまの自分はほんとうの自分じゃない」から、自分探しに出る。ほんとうの自分はもっと出来る。明日になったら本気出す。いまここにある自分から目を逸らして夢見るような心のクセって、ぼくにもあるよなと思うんです。

いまここにある現実は「ほんとうの姿」ではない。
最終処理が決まっていない原発は「ほんとうの姿」ではない。いつか本気出して最終処理を決める。だからとりあえずこのままで。
沖縄ばかりに負担を押し付ける米軍基地は「ほんとうの姿」ではない。いつか本気出して解決する。だからとりあえずこのままで。

戦争に敗れ占領下にあったという事実から目を逸らし、その後も対米従属が今日まで続いているという事実から目を逸らし。いまここにある現実から目を逸らそうとする心のクセ。見たくないものに蓋をして、その現実が無かったことにすらしようとする心理っていうものが、戦後日本人の特徴なのかもしれないなと。都合の悪いことをフレームアウトさせるテレビ番組の作り方もまったく同じ傾向にあります。

戦後のテレビ史と政治史を絡めた考察を誰かしていただける際にはそんなことも踏まえていただけるとありがたいです。


橋下徹氏が政治家になった理由

橋下徹氏が政治家になった理由 2013.05.22 Wednesday [政治・メディア] comments(2)
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河野談話

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前の記事で「村山談話」について書きました。初めて読んでみたあの談話は、いたってまともな文章だったし、目くじらを立てる程の自虐史観が織り込まれているとは思わなかった。正直言って、「あの程度」の談話すら無かったことにしようとする方々の見識はちょっと異様であると思います。ところで、そういった保守派というか“日本大好き”な方々が「村山談話」よりも忌み嫌う「河野談話」について。こちらも読んだことが無かったので全文を掲載します。村山談話の2年前、平成5年8月に宮沢改造内閣の河野洋平内閣官房長官が発表した談話です。

「村山談話」が、首相としてのメッセージ性を前面に出しているのと比べると、こちらの「河野談話」は当時の内閣官房長官による談話であり、割と事務的なトーンです。内容としては、従軍慰安婦問題についてかなり踏み込んだものとなっています。平成7年に出された「村山談話」は、この「河野談話」での報告を事実として踏まえた内容であることが分かります。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 - 外務省より転載
 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

平成5年8月4日



“日本大好き”な方々にしていれば、耳を塞ぎたくなるようなことが「調査の結果」として報告されたのですね。結果的にこの談話をもって、日本政府が従軍慰安婦の存在を公式に認め、また政府の関与する強制性についても認めたとされているようです。

「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと」「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」

下村博文文部科学大臣や稲田朋美内閣府特命担当大臣、そして安倍晋三首相など、「河野談話」を無かったことにしたいという意図が見受けられる人々は、何をもって、これらの調査結果を「嘘」「デマ」だと言うのでしょうか。

311があぶり出した、およそ民主的とは言えない日本の基本的構造があります。お上にお任せで政治に無頓着だった庶民と、米国と財界が主導しながら三権分立ならぬ三権両立ともいうべき利権システムを守り続ける官僚。地域差別を前提として進められた沖縄基地や原発の問題は、政治に無頓着な庶民と利権を守り続ける官僚という双方の日本人が作り上げたものです。今まで(自民党という強固な長期政権による「上手な」政権運営によって)隠されてきた、日本という国のオヤジ的な体質の軽薄さが、民主党の「下手な」政権運営と稀に見る大震災とによって、隠しきれずにぼろぼろと本性を現してきている。いま社会問題として噴出している殆どの問題がそうだとぼくは思います。

「女性手帳」なんて、出産や子育てという重荷をぜんぶ女性の側に押し付けようとする女性依存的発想の表れです。仕事だけに邁進して子育てにタッチしてこなかったようなオヤジが考えそうなことですよ。「父親は仕事、母親は家事育児」なんていう戦後日本のロールモデルはもう成立しないっていうのに、未だに「家事育児」は母親のもの、そのくせ「女性の社会進出」で母親は仕事までしないといけない。ってどんだけ日本の女性の我慢強さに依存してるんだよっていう話です。骨太の少子化対策とやらが「女性手帳」だの「育休三年」だの、ズレすぎてて話にならないですよ。社会構造が戦後とはまるきり変わってしまったという事実に目を向けずに、利権構造や三丁目の夕日的美意識を大事にしたかのような論点ばかりが出てくるのは、現実逃避しすぎでしょう。現実を直視せず、負の部分を女性に押し付けるという点で少子化対策と慰安婦問題は地続きです。見たくないものは見えにくくなるという人間の性質は分かりますが、慰安婦の存在を「デマ」だといって否定することで保たれる「尊厳」とか「美意識」なんてクソの役にも立ちませんよ。そんなもんで子育てできるかって。放射能を恐れる母親たちの声を「デマ」だといって退けてから成り立つような「絆」なんてぼくは信じません。

体罰の問題がクローズアップされていますが(参考)、体罰文化とでもいうべき土壌が日本にはあるのだと感じます。よく家父長制度なんて言いますけれども、家父長が強権的にふるまうことが善しとされる「男らしさ」への憧れがあるんじゃないでしょうか。もしかしたらそれは、敗戦後の日本を経済復興へと導いてくれたマッカーサーへの憧憬と重なるのかもしれません。だから男は「強く」ふるまおうとする。強くふるまおうとするのは結構ですが、その裏の見えないところで妻や母親など主に女性による苦労と犠牲があることに耳を傾けようとせずに、○○だったら○○して当たり前だなんて偉ぶるのは「男らしく」ないです。亭主関白なんていうのはマザコンの裏返しだと思います。

話がだいぶ逸れましたが、そういう家父長への憧憬という土壌があり、その土壌に依って作られた日本の基本的構造がある。だって日本の基本的構造って、ほとんど男性社会ですから。体罰の問題はそれらが顕在化しているという現象だと思う。であるならば、「河野談話」が示すような事実は存在したと考えるほうが自然であるように感じます。これを否定するならば、美談や精神論でない具体的な根拠を示さないといけないわけですが、慰安婦の存在(あるいはこれが強制であったという事実)が「デマ」であると主張する人たちが共有するような事実ってあるんでしょうか。そこまで調べる気にならない(面倒だし)のでご存知の方がいたら教えて下さい。

“日本大好き”な方々が、いちばん癇に障るのはこの一節でしょうね。

「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。」

もちろんこれも「デマ」なのです。彼ら(朝鮮人)は本人たちの意思でそうした。だから謝る必要などないし、このような「デマ」を垂れ流しているから奴らはつけあがるのだ。格下国に対しては毅然とした態度を貫かねばならない(韓国・中国に息巻く人たちは沖縄問題や日米地位協定についてはスルーしがちです)。
在日コリアンは、本人たちの意思で日本に潜り込み、在日特権にあずかって日本の財産を食いつぶそうとしている。奴らは嘘つきなのだ。マスコミは奴らの巣窟だ。報道を信じるな。真実はネットにある。

デモという名目で、「ゴキブリ」「日本から出て行け」「殺せ」等という暴言が市井の在日コリアンに対して浴びせられているという事実もネットには記録されています。そんなことをして守りたい「尊厳」って何でしょう。そんな“日本”好きじゃねーし。

「河野談話」が示すような事実は、「あってはならないこと」です。歴史認識においてズレがある人たちの間でも、この「感覚」は共有しているはずです(橋下徹大阪市長のようにウルトラC級の放言を公的な場で放ってその前提を覆そうとする人もいますが…)。「あってはならないこと」をしてしまったことを反省するのか。「あってはならないこと」は絶対に「あってはならないこと」であるという尊厳や美意識を大事にするのか。「あってはならないこと」だから、そんなことは「無かった」はずだという結論がまずありきで、そのための論理を探し出すということはないか。経済活動がまずありきで、そのための「基準値」が拵えられるのと同じように。

ぼくなんかは家父長にはなれない優柔不断なタイプの人間ですが、自らを守ろうとするあまり「あってはならない」けれども「してしまったこと」を「無かったこと」にしようとする心のクセってあるよなと、自分を顧みて思います。


河野談話

河野談話 2013.05.20 Monday [政治・メディア] comments(0)
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