木村カエラ『ROCK』

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たのしい!たのしい!たのしい!

音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれる。木村カエラのプライベートレーベル ELA 第一弾リリースとなる本作は、彼女自身が影響を受けたという60年代〜80年代の洋楽をカヴァーしたアルバム。


著者 : 木村カエラ
ビクターエンタテインメント
発売日 : 2013-10-29



a-haから始まり、シンディ・ローパー、クイーン、ベルベット・アンダーグラウンド、キンクス、ザ・フー、カーペンターズ、ビースティー・ボーイズなどなど、音楽好きなら誰もが知っているような、あるいはアーティスト名を知らなくてもどこかで聴いたことがあるようなヒット曲ばかり。1曲毎に様々なアーティストが客演しているコラボレーションアルバムでもある。

特設サイトにて、それぞれの楽曲およびコラボアーティストについての解説が詳しく載っている。レコーディング風景を収録した動画や試聴もあり、このサイト自体が楽しいので是非見てみて。
木村カエラ Collaboration Cover Album 『ROCK』 - ELA MUSIC

こちらはアルバムからの3曲をつないだPV。



ふつう、これだけヒット曲ばかりを集めると逆にもっさりしてつまらなくなってしまいがちだったりする。ましてや原曲のイメージを覆すようなとんがったアレンジは殆どなく、王道的なカヴァーが中心だ。しかし、ひとくせある様々なアーティストたちとコラボレーションすることで、バラエティに富み、エッジの利いた締まった感じになっている。とても気持ちいい。

なにより木村カエラの歌声がいい。とても気持ちいい。
ほんとうにこの曲が好きなんだろうなというのが伝わってくる。音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれるのだ。はじめてロックを聴いた時のどきどき。そこからロック史を遡っていわゆる名盤と云われる音源を自分なりに発掘していくたのしさ。音楽のつながりを知るよろこび。
彼女の天真爛漫な歌声を聴いていると、そんなふうに少年のような感覚で胸を躍らせながら音楽に接したくなるのだ。ここで客演しているアーティストたちもきっとそうだったのではないだろうか。だからこんなに「たのしい」アルバムになったのでは。木村カエラというアーティストの魅力って、おそらくそこにあるんじゃないかと(彼女の他のアルバムを聴いたことがないので早合点かもしれないけれども)思った。才能のあるところに人が集まるというか、人が集まりたくなる才能(こういう感じ?)。それって、打算よりも先にまず好きなことを好きにやってるからなんだと思う。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。

自宅のリビングのスピーカーから、シンディ・ローパーのカヴァー「Girls Just Want To Have Fun」が流れた瞬間、1歳半の娘が小さなおしりをぷりぷり揺らしながら体を動かし始めた。4歳の息子はおもちゃの太鼓を叩く。めちゃくちゃ愛らしくて目尻が下がる。音楽って、ほんと楽しい。生きてることすら楽しくなってくる。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。とてもシンプルな原体験だ。



『ROCK』に収録されている曲が気に入ったら、オリジナルも聴いてみよう。きっと音楽のたのしさがまた広がる。ぼくはこのアルバムでN'夙川BOYSやPredawn、CSSといったアーティストをはじめて知ったし、「You Really Got Me」のギターリフに痺れて民生のニューアルバムを試聴し感動した。音楽はつながる。下記にリンクを貼っておくので参考になれば。

木村カエラ『ROCK』収録曲
01. Take On Me / a-ha(木村カエラ xxx 岡村靖幸)
02. Girls Just Want To Have Fun / Cyndi Lauper(木村カエラ xxx N'夙川BOYS)
03. FUNKYTOWN / Lipps, Inc.(木村カエラ xxx 石野卓球)
04. Two Of Hearts / Stacey Q(木村カエラ xxx Chara)
05. Heart Of Glass / Blondie(木村カエラ xxx チャットモンチー)
06. Crazy Little Thing Called Love / Queen(木村カエラ xxx 斉藤和義)
07. SUNDAY MORNING / The Velvet Underground(木村カエラ xxx 細野晴臣)
08. You Really Got Me / The Kinks(木村カエラ xxx 奥田民生)
09. Fight For Your Right To Party / Beastie Boys(木村カエラ xxx CSS)
10. SWEET DREAMS (ARE MADE OF THIS) / Eurythmics(木村カエラ xxx POP ETC)
11. MY GENERATION / The Who(木村カエラ xxx 岸田繁 fromくるり)
12. RAINY DAYS AND MONDAYS / Carpenters(木村カエラ xxx Predawn)

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木村カエラ『ROCK』

木村カエラ『ROCK』 2014.01.14 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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マイケル・ムーア『キャピタリズム』

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なんか既視感があるなあと思ったら、前にもいちど借りていた。そのことを忘れて自然に手が伸びたのは、時代の要請かもしれない。アメリカに遅れること数年、ここ日本でも現在、いわゆる「リベラル派」のトレンドは、資本主義への懐疑的視点にある。地球上の資源には限りがあり、少子高齢化が進み労働人口が減りゆく中で、先進国が永遠に経済成長し続けることは可能なのか?社会保障は持続可能なのか?自由競争原理によって市場が淘汰されることで安価で良質なサービスが提供されていく一方で、安価で良質なサービスを提供するために搾取され犠牲になっている人たちがいるのではないか?グローバル企業の台頭で、私たちの生活はほんとうに豊かになるのか?私たちの消費行動ひとつひとつが、資本主義の暴走に加担しているのではないか?

いま日本でも、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。かつて、若者がチャラチャラするのは、特定のイデオロギーに取り込まれないための身体的知恵であったように。

マイケル・ムーア『キャピタリズム』が公開されたのは2009年。主にそこから数年前のアメリカのすがたが描かれている。「資本主義こそが、これまでアメリカを豊かにしてきた、そしてこれからも豊かにする最善の道である」と、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュが語るシーン。彼の言葉が思い描くような、ウォール街の大胆な「規制緩和」が、どのような結果をもたらしたかはすでに歴史が示している。サブプライムローンに端を発する世界金融危機が起こったのが2007〜08年。低所得者層が夢見たマイホームは、国民の税金によって救済された銀行により、あっという間に差し押さえられた。


著者 : マイケル・ムーア
ジェネオン・ユニバーサル
発売日 : 2010-05-26



1%の富裕層が、95%の層全ての所得を足したよりも多くの富を所有しているという指摘は、いまではよく耳にする。Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)運動とは、まさしく文字通りウォール街(1%)に対する市民(99%)の声であった。民主主義を押しつぶそうとする資本主義の暴走に対する、民主主義を守ろうとする、実践しようとするレジスタンスであった(参考)。

アメリカの圧倒的な格差社会は、ジャーナリストの堤未果氏によるベストセラー『貧困大陸』シリーズでも克明に描かれている。日本とアメリカの関係を語る上で、このシリーズは必ず読んでおかなければならない一冊だと思う。


著者 : 堤未果
岩波書店
2008-01-22
著者 : 堤未果
岩波書店
2010-01-21
著者 : 堤未果
岩波書店
2013-06-28


彼女が同書でレポートした「庶民にとってのアメリカ」が、『キャピタリズム』では現実の映像として写される。

銀行により家財を差し押さえられる現場。実際に差し押さえの現場で作業を行うのもまた労働者であり、なんて酷いことをするのという声に対し、彼らは彼らにも自分の生活があるのだと言う。ムーアの父親がかつて勤めていたというデトロイトGMの工場跡地は、「豊かなアメリカ」の現在の姿を象徴しているかのように寂寥とした風景に変わっている。花形職業というイメージのある飛行機のパイロットの現実は、バイトや小遣い稼ぎをしなければ生活ができない程の待遇であるという。彼らは空を飛ぶのが好きだから続けてはいるが、いまのままでは安全性が確保されるはずもないと嘆く。もちろんこれも自由市場が招いた価格競争の行く末。民営化の波は刑務所にも及ぶ。外観の見た目がいかにもクリーンで子供に優しそうな民間の少年院「PAチャイルドケア」では、「教師に暴言を吐いた」「家庭内で皿を投げた」等という理由で連れてこられた少年たちに対して判事はあらかじめ有罪が決められているかのように説教する。受刑者が多いほど儲かる仕組みになっているため、房を空けないように刑期が延長されることもあるという。それも法的手続なしで。大手企業では末端の従業員にまで生命保険をかけている。保険金の受取人は企業側だ。長年ウォルマートに勤務していた男性は、同じく同社でパートをしていた妻を若くして亡くしてしまう。会社が守ってくれると信じていた男性に残されたのは、10万ドルの医療費とふたりの子供だけだった。ウォルマートは彼の妻の死によって8万ドルの保険金を手にしている。社員が死亡すると儲かる。企業にとっては、下りる保険金の額が高くなる“若い女性”ほど、儲かるという理屈になる。

アメリカの、行き過ぎた資本主義が招く強欲、冷酷、非人間的な「現実」は、ここでは書ききれないほどだ。『キャピタリズム』や『貧困大陸』ではその一端を垣間みることができる。胸くそが悪くなるような「現実」ばかりで、そのむかし日本人が憧れた「自由と平等の国アメリカ」は、もうそこには無い。できれば直視したくないと思ってしまうだろう。

『キャピタリズム』も『貧困大陸』も、遠いアメリカの出来事を描いた作品ではない。これらの作品が描く「庶民にとってのアメリカ」の現在のすがたを知って、「アメリカって怖いな〜」で終わってしまったらちょっと残念だ。日米安保もTPPもぼくたちの生活とすべてつながっている話であるからだ。日本でも格安の航空券が手に入るようになった。長距離バスの事故により運転手の過酷な労働環境が明らかになったこともあった。刑務所を民営化するという話が出たこともあった。TPPでアメリカが欲しいのは自由な競争なんかじゃない。自国の99%を食いつぶしてしまったグローバル企業が新たな市場を必要としているということだ。

「資本主義こそが最善である」と規制緩和を推し進めたジョージ・W・ブッシュが、いかにも大根役者のように原稿を読むのが丸分かりであった白々しい「演説」を見て、うわあ、これ安倍首相そのものじゃんと思ってしまった。世界金融危機から5年、日本はアメリカの後追いをしている。ウォール街にて首相がドヤ顔で演説したアベノミクス。しかし「大胆な規制緩和」で喜ぶのは、金融市場だけである。「財政出動」で潤うのは大手ゼネコンだけである。いくら傀儡にすぎないとはいえ、ブッシュも安倍晋三も「1%」のための政治をしているのは明らかである。ぼくたち庶民は、いつか自分も「1%」に入れるかもしれない、努力すれば必ず報われる、夢はきっとかなう、と言い聞かされて育った。いまもどこかでそう思っているし、それが間違いだとは思わない。けれども「1%」側には、そんなつもりは毛頭ないのだ。そのことはきちんと認識しておく必要がある。

§



いままでの、資本主義 VS 社会主義という構図だけではものごとを説明しきれなくなっている。劇中に登場するキリスト教の司祭は、資本主義は民主主義に反すると語る。いまや、これは敬虔な宗教者だけの見解ではない。フランスの文化人類学者エマニュエル・トッドも同様の指摘をしているし、内田樹氏や平川克美氏など日本の有識者が世界のグローバル化についての考察を語るようになり、また彼らの著作が売れ始めたのはここ数年のことだ。同じことを感じている人が、同時多発的に増えているのだと思う。

はじめの話に戻るが、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。行き過ぎた資本主義に対するアンチテーゼであり、自らの身体活動を通した自らの手の届く範囲でのレジスタンスだ。

§



ここに書いたような話は、世界的な潮流であり、数多くの識者が語っているし、多くの人が肌感覚として感じていることではないかと思う。ちょっとググれば、もっと詳しく書いてある記事はたくさん出てくる。それを超えるような見聞を持っているわけではないので、単なる印象論として、誰も指摘しないようなことも書いておく。

前回観た時は気にもとめなかったのだけれども、今回『キャピタリズム』を観て個人的に引っかかったのは、カーター元大統領の演説シーン。ほんの少し挿入されただけで、演説そのものが心に響いたというわけではないのだが、その後の大統領選でレーガンが圧勝、俳優出身のレーガンはテレビ映えのする「明るく強いアメリカ」を打ち出し、資本主義を推し進めたという経緯を知り、それまで名前しか知らなかったカーターのことが気になった。レーガンが圧勝し「明るく強いアメリカ」を打ち出したのは、カーター政権への反動ではないかと感じたからだ。

簡単にググったところによれば、人権を尊重し軍事費を削減したカーターの外交は弱腰外交と揶揄された。内政の失敗もあり、レーガンに大差で敗れ1期で失脚。「人権外交」を掲げたカーターは大統領としては実績を残せなかったが、退任後に積極的に平和的な外交活動にコミットし続け、ノーベル平和賞を受賞。「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれた。

似てないだろうか?鳩山政権と。カーターの理想主義っぽいところやバッシングのされ方なんかが鳩山さんと似てるんじゃないかとすごく思った。政界引退後も平和活動にコミットしようとしている点も。それから、鳩山政権(民主党)への反動で、安倍政権(自民党)がネオリベ的な政策を推し進めている点も。日本はアメリカの後追いをしている。アメリカを知ることは、日本を知ることでもある。ジミー・カーターのことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、アメリカ人は何を期待し、何に失望したのか。鳩山由起夫のことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、日本人は何を期待し、何に失望したのか。

日本人は民主党に何を期待し、何に失望したのか。当の民主党自身がそれを総括できていない以上、4年前に票を投じた有権者自身がそれを顧みないといけない。ぼくは北欧の社会に憧れを抱いているが、日本ではそれは実現しないだろうと諦観もしている。じゃあ近づくことはできるだろうか。だとしたら、何をどう変えていけばいいのだろうか。そこを明確にできなければ、次世代にバトンを渡すことができない。

ムーアはこうも言っている。「1%にも99%にも等しく同じ一票の選挙権が与えられている。彼ら(1%)はそれを怖れている。」だからもっと成長できる(経済成長と人間的成長を敢えてダブらせたりして)と夢を見させるわけだ。しかし資源には限りがある。少子高齢化も解決していない。これから先進国が目指すべきは、成長戦略ではなく成熟戦略であると、ぼくも思う。行き過ぎた資本主義に疑問を抱くことは、資本主義を全面否定することではない。要はバランスの問題だ。かつてアメリカで反戦を訴えたヒッピーたち、ウォール街のOccupy Wall Streetに集まった人たち、そして里山に向かう若者たち。彼らが見ているものと、そう遠くない気がする。
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マイケル・ムーア『キャピタリズム』

マイケル・ムーア『キャピタリズム』 2013.12.26 Thursday [音楽・映像] comments(4)
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デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色

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2013年7月、デトロイト市が財政破綻した。



§



ミシガン州を本拠地とするフォード、GM(ゼネラルモーターズ)、クライスラーという自動車産業を代表する企業(いわゆるビッグ3)の隆盛と共に、かつては工業都市として全米第4の都市と言われたデトロイト。全盛期には人口180万を超え、その半数が自動車産業に関わっていたという。1950年代には、まさにアメリカンドリームを象徴する都市だった。

しかし、1967年に多数の死傷者を出したデトロイト暴動により白人の郊外への脱出が増加。また70年代頃から日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業は社員を大量解雇、下請などの関連企業は倒産が相次ぎ、市街地の人口流出が深刻となった。同時に、ダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進んだ。
以来、デトロイト市内では人口の8割を黒人が占める。自動車産業関連の職を求めて南部から移住した人々である。一方、白人の多くは郊外に住んでおり、郊外の衛星都市では人口の9割以上を白人が占めている。郊外と市内の生活圏は分断されており、ダウンタウン周辺の空洞化は続いている。(以上、Wikipedia参考)


2009年、同市に本社を置くGMが経営破綻。同年クライスラーも破綻した。自動車産業の空洞化により、デトロイトの都市基盤はいよいよ崩壊していく。180万あった人口は現在68万人にまで減少。人口の減少により、この10年間だけでも市の所得税からの収入は3分の1に。収入の約40%は退職給付の支払いと債務の返済に、過去10年に発行した債務のほとんどは年金拠出金に充てられた(このレガシーコスト問題については後述する)。不動産価格は暴落し、見捨てられた家は市に没収されたまま朽ちていくばかり。廃家屋は7万8000軒にも上り、固定資産税からの歳入を大幅に減らすと共に治安はますます悪化。管理の行き届かない公園は70%近くが閉鎖され、雑草が空き地を覆い荒れ放題になっている。街灯は10本に4本の割合でしか機能しない。稼働している救急車は3分の1。警官の人数も10年で40%削減され、警察に通報しても警官が現場にやってくるのに平均58分(全米平均の5倍)もかかるという。(以上、Democracy Now!及びWSJ.com参考)

そして2013年7月18日、デトロイト市は連邦破産法9条を申請。負債総額は推定180億ドル(約1兆8千億円)。自治体の財政破綻としては米国史上最大だそうだ。

§



遠いアメリカの出来事である。だいたいが、デトロイトが合衆国の何処らへんに位置しているのかもよく知らなかった。その割には、日本でもデトロイトの破綻は話題になった。中でも印象的だったのは、廃墟と化した街の景観を写した写真の数々だ。財政破綻のニュースは、経済学に興味のある人ぐらいしか深く読み込まないであろうし、ぼくも理解できていない。議論などできるレベルにはないことは重々承知している。しかし、朽ち果てた建物が並ぶ写真を見るにつけ、「財政破綻」がもたらす現実にショックを受ける。やはりビジュアルが訴える力は強い。(「廃墟好き」にはたまらない、と別の意味でも話題にもなっているようだが…)



いちおう補足しておくが、「財政破綻」がもたらす現実、というと語弊があるかもしれない。デトロイト市が財政破綻に至るまでには、主力産業の衰退、それに伴う人口減少、ダウンタウンの空洞化があった。実際には、市が財政破綻する前から、街の廃墟化は進んでいたわけである。すなわちデトロイトという街は、都市機能としてはすでに破綻していた。ビジュアルが訴える廃墟の写真は、「都市機能の破綻」がもたらす現実、と言ったほうがいいかもしれない。

行政機能は崩壊し、企業の倒産、失業問題、犯罪増加、医療危機、格差拡大など、デトロイトの問題は、現在アメリカが抱える問題を凝縮しているように思える。アメリカ政府はそれらの問題を先延ばしにすることでなんとか生き延びているが、格差はますます拡大している。いつ第二のデトロイトが生まれてもおかしくない状況であると思う。オキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、それに対するカウンターカルチャーであったはずだ。


デトロイト市の財政破綻や、ビッグ3を経営破綻に追い込んだのは「レガシーコスト」だと言われる。レガシーコストとは、退職した市の職員の医療や年金に充てる費用のこと。景気の良かった時代を基準に設計された年金制度が、人口が半減した場合に立ち行かなくなるのは当然だ。財政問題を解決するには破綻申請しかなかったとのことだが、今後もレガシーコストをどう扱うかが焦点になる。

現在、180億ドルの負債処理を任されているのは、デトロイト市長ではなく、ミシガン州知事リック・スナイダー氏が任命した緊急財政管理官ケビン・オア氏。オア氏は連邦破産法の適用を認めるかを判断する審理で、負債のうち90億ドルについて、市職員1万人と退職者2万人の年金と退職者向け医療保険が占めているとの推計を提示した。これに対して労働組合や年金管理機関は、公的年金はミシガン州の憲法に守られているとして年金受給額の大幅カットを認めないよう訴えた。もし仮に破産裁判所がデトロイト市の年金支払額の削減を認めた場合、多くの年金生活者たちは貧困に陥ることになる。(出典


ひるがえって、これは対岸の火事ではない。少子高齢化が指摘されながら有効な手だてが講じられていない日本の年金制度だって近い将来、破綻することは目に見えている。ましてやアメリカのやること、言うことに右ならえの日本政府である。日本が「デトロイト化」「廃墟化」する可能性が無いとは言えない。


§



話変わって。
ぼくが、所在地もよく知らずにいたデトロイトのニュースに興味を持つのには理由がある。デトロイトと聞いてぼくがまっ先に連想するのは「デトロイト・テクノ」だ。いまや世界中のクラブでプレイされているテクノ・ミュージックが生まれた街。子供が生まれてからは音楽の趣味も変わり、いまはもう聴いていないけれども、お小遣いの殆どをCD購入に充てていた音楽バカであった頃は、いろんなジャンルの音楽を漁るようにして聴いていた。クラブ系テクノを経由して知ったデトロイト・テクノ周辺の音楽にも一時期かなりハマった。その深淵なる世界のとりこになった。(記事下の関連リンクに一例を紹介してあるので興味を持たれた方はぜひどうぞ)

先日、無料化を機に数年ぶりにヤフオク出品を再開した。押入れに放り込んであったCDの山を漁っている最中に、ロス・ヘルマノス(Los Hermanos)の1stアルバム『On Another Level』が目に入った。デトロイトのアンダーグラウンド・シーンにおける伝説的な集団、アンダーグラウンド・レジスタンス(Underground Resistance)のメンバーでもあるジェラルド・ミッチェル(Gerald Mitchell)やDJロランド(DJ Roland)を中心としてリリースされた本作、日本盤帯のコピーには「デトロイト・テクノの金字塔、ここに現る。」と書いてある。


著者 : Los Hermanos
Submerge
発売日 : 2005-09-13



何を隠そうこのアルバム、ぼくがデトロイト・テクノに興味を持つきっかけにもなった一枚だ。久しぶりに聴いてみたのだが、かっこよくて痺れた。たぶん日本人の耳にも馴染みやすいので「デトロイト・テクノ」を知らない人にも聴いてほしい。ちょっとうまく言い表せないが、“男のコ”が好きそうな音楽。アップテンポで、シリアスで、獰猛で、キラキラしてて、哀愁があって。

で、聴きながら思ったんだけど、これって労働歌だよなと(そういう単語は無いかもしれないが、労働者のための音楽という意味で勝手にそう名付けた)。反復するリズムはルーティンワークそのものだし、低音でうねるベースにフラストレーションをぶつけて。哀しいメロディに、やり場の無い鬱憤とちょっとの希望を託して。
デトロイトがアメリカでも有数の工業都市として元気だった頃、街は労働者で活気に溢れていたと思う。やっぱりそこでルーティンワークを与えられる労働者たちにとっての、はけ口というかストレス解消の一種として音楽があったのではないかと。テクノ(をプレイするクラブ)というのも、その同心円上に位置するものなんじゃないかと。イギリスの労働者にとってのパブみたいなもんで。そう考えると、デトロイト・テクノって、労働歌そのものなんじゃないかと。

もっともこれはデトロイト・テクノに限らず、黒人音楽(ソウル・ミュージック)はすべてそうだったのであろうけれども。デトロイト・テクノとは、マシンを使ったソウル・ミュージックに他ならない。反抗と、希望と、祝福の音楽だ。


§



デトロイト・テクノについて書かれた日本でほぼ唯一の本がある。ぼくがデトロイト・テクノに特別な感情を抱くようになったのは本書の影響が大きい。500ページ近くのボリュームにも圧倒されるが、細部まで取材と洞察の行き届いたこの大作には、筆者のテクノに対する造詣と愛情の深さが溢れており、そこにロマンを感じずにはいられない。本書を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。

ディスコ文化からシカゴ・ハウス、Pファンクを経由して、デトロイト・テクノの創始者であるデリック・メイやホアン・アトキンスの名前が登場するまでに200ページも費やしているのだから、そのボリュームは半端ない(いまだに全部読めていない)。この音楽が生まれた背景を説明するためだそうだ。



デトロイト・テクノのオリジネイターと言われるデリック・メイは、1983年のシカゴでフランキー・ナックルズの音楽を聴き、衝撃を受ける。同じくオリジネイターと言われるホワン・アトキンスと共に、それまでパーティでDJもしていた彼だが、シカゴのクラブで出会った音楽は「そんなものではなかった」という。以下、本書よりデリック・メイの言葉を引用する。

「正直言って、おれはそのときほどスピリチュアルな体験をしたことがない。すべてが素晴らしかった。音楽、そこにいる人間たち、ダンス、雰囲気、サウンドシステム、それは未知のパワーのようなものだった。もう「ワーオ!」って、おれはもう、そこで何かを掴んだ気がした。なんて言うのかな、例えば、おまえは何故、音楽を聴く? 明日を生きたいと思うからじゃないのか。希望を見出し、ロマンを感じたいからじゃないのか。だとしたら、そういう類いのものすべてがそこにあったんだ。
 初めてフランキーを聴いた翌日、すぐにホワンに電話したよ。「ホワン、おれはついに音楽の未来を見たよ!」もう興奮していろいろ喋った。そしたらホワンは「ああ、おかまディスコのことね」だって、もう全然信じてもらえなかった。「ノー!違うよ、ホワン、そんなんじゃないんだ!」おれは何回もホワンに説明した。「だから、たかがディスコだろ?」って、ホワンにはなかなか伝わらなかったけどね。だけどおれには確信があったんだ。これは音楽の未来だという確信がね。おれはしばらく、毎週末をシカゴで過ごすことにした。
 (中略)
ある晩は本当に教会みたいになるんだ。教会みたいな状態というのがどういうことか教えてあげようか。ロン・ハーディのDJで、みんながコール&レスポンスみたいなことになるんだよ。彼のDJも騒がしかったけれども、フロアはもっとうるさかった。一緒に歌う者、叫ぶ者、信じられない熱気だった。パーティの翌日は、シカゴのキッズはフランキーやロン・ハーディのプレイの話でもちきりだった。パーティに来ていたキッズのほとんどは、フランキーやロンがかけていた音楽が何なのかを知らない。でもキッズはそんなことどうでもいい。彼らはこの街で最高のDJを知っているからだ。
 (中略)
しばらくはシカゴに夢中だったね。それからデトロイトに戻って、自分たちの手でシカゴのようなパーティをやりたいと考えるようになった。おれたちは、<ザ・パワー・プラント>と<ミュージック・ボックス>にあった生気を、あの熱気を、あの素晴らしいひとたちの感情を自分たちの街にも欲しいと考えはじめたんだ。ストレートもゲイも男女も、誰もが本気で楽しんでいるあの体験をデトロイトでも創造したいと思った。希望のない、死んだようなデトロイトの街に、シカゴのようなファンタスティックなヴァイヴが欲しいと思った。
 黒人のキッズがあんなに生気に溢れている現場を見たことがなかったんだ。おれたちには歴史もなかった。シカゴにあったものがデトロイトにはなかった。デトロイトにあったのは、子供にドラッグを売らせて、銃を撃つことだ。少女に売春をやらせることだ。そこに希望があるか? 人生を生き抜くロマンがあるか? だから、おれたちはおれたち自身のものを創造するしかなかった。」(以上、本書より)

メイが繋いだシカゴとデトロイトのアンダーグラウンドは、ホワン・アトキンスが1985年にモデル500名義でリリースしたシングル「No UFO's」に結実したという。以下に歌詞を紹介する。

希望はないという
UFOはいないという。
それならなぜ、おまえは高みを見るのか
やがておまえは飛ぶのを見るだろう
飛べ!

希望を主題にしたこの曲は、驚くほど的確にデトロイト・ブラックの気持ちを表していたと野田氏は指摘する。ホワン・アトキンスは次のようにコメントしている。

「デトロイトには希望のかけらもない。ストリートで育ったキッズを見ればわかるよ。ドラッグを売って生活する。生きるためには銃だって持たなくてはならない。そしてタフでなければならない。そうさ、ドラッグを売るなんて当たり前さ。そうする以外、ほかに手がないんだ。わかるかい? 希望のない環境は人為的に生み落とされたものだ。自然発生的な過程なんかじゃない。デトロイトの音楽はある種の祈りのようなものでもあるんだ。アメリカに住んでいる黒人たちのね」(以上、本書より)

ぼくが付け足すことは何もない。再びデリック・メイの言葉。

「何故、世界中のこんなに多くのひとがこの一片の音楽から何かを感じとるんだろう。なんで「Strings of Life」はそんなにひとびとにとって大切なんだろう。きみは、高い崖っぷちからダイブしたような、そんな気持ちにさせてくれる音楽を聴いたことがあるかい? 自分でそれはできないかもしれないと思っていても、心の中は満ち足りてしまったようなあの状態、あの曲はきっとみんなをそんな気持ちにさせたんだと思う」「"Strings"はマーティン・ルーサー・キングのことだ。彼が殺されたとき、希望や夢も破壊された。これはかなえられなかった彼の希望なんだ」
シカゴのアンダーグラウンド・パーティの中にデリック・メイが見出した「音楽の未来」とはこのことだった。

「アメリカにはつねにふたつの階級の対立がある」メイは彼の経験してきた“アメリカ”を次のように話す。「スマートなひととゲスなひと。金持ちと貧乏。白人と有色人種。弱者と強者。そしてそこにはつねに嫉妬や足の引っ張り合いがある。とくに黒人のコミュニティではこの50年間はそうだった。50年代に黒人がしっかりとした教育を受けることは同時に黒人のコミュニティからも快く思われないことでもあった。黒人が黒人同士で傷つけ合い、弱い者同士がいがみ合い、そして黒人のコミュニティにはつねに犯罪があり続ける。どうしてそうなってしまうのか、そのことを理解しようとする努力があまりにも欠けていた。だから単純に、多くの黒人の向上心は髪の毛をストレートにしたり、白人社会に迎合したりすることでしか果たせないものになっていたし、あるいはまったくその逆で白人と敵対することでしか自分を保てなくなってしまう人もいた。それでは、つねに誰かが悲しむことになるんだ。おれはそんな世界は望まない。
 例えばイギリスのDJにカール・コックスがいる。彼はまさにイギリスの白人社会で成功した黒人DJだ。でも多くの黒人はカール・コックスを批判する。「やつは媚びている。白人のケツにキスしやがって」とみんなは言う。おれはそうは思わない。何故、カールをカールとして見てあげられないのだろう。何故、カールをひとりの人間として評価しないのだろう。彼は彼自身の実力があって人気DJになった。ただそれだけのことなのに。
 (中略)
何故ひとは自分自身でいられないのだろう」(以上、本書より)

うーむ、デリック・メイ、かっこよすぎる。ちなみに、「Strings of Life」はデトロイト・テクノをまったく知らない人でもおそらく一度は聴いたことがあるはず。89年の貴重なライブ映像があったのでリンクを貼っておく。
Rhythm Is Rhythm - Derrick May with Carl Craign - Strings Of Life LIVE
デリック・メイはこのとき26歳。後ろにいるのは20歳のカール・クレイグだそうだ。

最後に本書から野田氏の言葉を紹介しよう。

これはクラブ・ミュージックについての話だ。と同時にアンダーグラウンドで生きる人たちの自由と快楽と、絶望と希望をめぐる物語でもある。そして願わくば、読者にとって希望の物語であって欲しい。(本書P13より)


くり返すけれども、この本を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。単なる機械によるドラムの打ち込み音が、デトロイトの地下に集う彼らの息遣いに聞こえてくる。ルーティンワークのように反復するリズムが、自分の鼓動に聞こえてくる。そう、紛れもなくこれはソウル・ミュージックだ。


§



デトロイト・テクノはいわゆる商業的にはあまり流通していない。現在ではAmazonで簡単に手に入るが、10年くらい前まではずっとアンダーグラウンドな存在だった。(もっとも、彼ら自身がセールスやプロモーションに積極的でないという理由もあるだろう。たとえばムーディーマンことケニー・ディクソン・ジュニアは、音楽がデジタルとして消費されることに批判的な立場を貫いていることでも知られる。彼がヴァイナルにこだわるのは、音質ないしは手触りなどのフェティシズムの問題ではない。デジタルはヴァイナルという個人商店を駆逐するという政治的な理由からだ。(出典))

もしかしたら、現地でもマイナー的な扱いなのかもしれない。彼らの活動の源はアンダーグラウンドにある。だけど、商業的な規模に関わらず、リスナーの数に関わらず、その土地に根付いた音楽であったのだろうと想像する。音楽にもルーツがある。それは、そこに住む人たちの生活から派生するものだ。音楽が生まれるところには、時代や環境といった背景がある。それが文化になる。文化というのは、土着的なものだと思う。デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかったであろう。

チープな図式かもしれないけど、資本家(あるいは経営者)と労働者という構造は資本主義社会では必ず出てくるわけで、そこから発生してくる経済格差や関係性、感情なんかは、どこの国でも、あるいは「資本論」の頃からあまり変わってないのかもしれない。イギリスのオアシスがロックンロールの寵児となったのは、ギャラガー兄弟が労働者階級の出身であったことと無縁ではないと思う。ロックとは反抗の音楽だ。

黒人音楽は、ロックが誕生するずっと前からその歴史上にあった。何に対して反抗していたのかというと、権力や体制といった、「大きなもの」に対する反抗だった。ロックは黒人音楽から派生した。ファッションとしてのロックよりも、反骨精神としてのロックが力をもつ時代があった。いまの若い人は、そんなロックを知らないかもしれない。だって、何に反抗したらいいのか、非常に判りづらい時代だから。

デトロイト・テクノは紛れもなく「反抗の音楽」だ。だって「アンダーグラウンド・レジスタンス」だよ。デトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかった土着的な音楽が、国境や時代を越えて愛されるのは、その音色に共鳴する人々がいるからだ。勘違いしないでほしいのだが、はじめから普遍性をもって愛されるものを作ろうとしたのではなく、あくまでも個人的で土着的な発露から作られたものであるからこそ、国境や時代を越えて語り継がれるのだという、一見矛盾するような創造のマジックを彼らは体現していると思う。
だからこそ、オアシスがそうであったように、共に働き共に生活する同胞を讃え、そこに集う仲間を結束させる、祝福的なヴァイヴが、彼らの音楽の根底にはある。そして日本や欧州でも数多くのフォロワーを生んでいる。

スペイン語でロス・ヘルマノスとは、"ブラザー"を意味する。この言葉の裏には、異なる文化、環境、技術、そしてスピリットを持つ人間が音楽のために協力するという意味が含まれているそうだ。(出典

§



デトロイト市の破綻に話を戻す。このニュースを耳にした時に、ぼくが思ったのは、デトロイト・テクノ(つまり現地のアンダーグラウンド・シーン)はどうなっているんだろうということだった。その手の音楽をめっきり聴かなくなってしまったので、現在のシーンには疎くてよく分からない。もっとも、市が財政破綻を申請するずっと前から、街の荒廃は指摘されてきたわけで、その中で作られてきたデトロイト・テクノがいまさらどうこう変わるわけでもないとは思う。ただ、彼らの「反抗の音楽」とは、野田氏の言葉を借りれば、絶望と希望をめぐる物語でもあった。そして願わくば、やはり希望の物語であって欲しい。今回の絶望を経過してもなお希望の種は消えずに、テクノの音色は鳴り続けるのかどうか、ちょっと気になる。


デトロイトの破綻は、アメリカの「貧富の格差拡大」の象徴である。この貧富の差の拡大に、米国経済に潜む病根が凝縮されている。内国歳入省(日本の国税庁に相当)の資料によると、2010年の米国全世帯の個人所得は前の年に比べて2.3%増加したが、所得上位わずか1%の富裕世帯が全世帯の所得増加分のうち、なんと93%を占めた。一方で、全体の80%の世帯は所得の減少に見舞われているという。(出典

前述したオキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、1%対99%という社会構図に対するカウンターカルチャーであった。第二のデトロイトがいつ生まれてもおかしくない状況に現在のアメリカはある。
9.11同時多発テロを世界貿易センターで体験して以来ジャーナリストに転身した堤未果さんは、『ルポ貧困大陸』シリーズで、経済格差が急激に拡大し二極化するアメリカのすがたを克明に描写している。落ちこぼれゼロ法(教育ビジネス)、経済徴兵制(戦争ビジネス)、高額な医療保険(医療ビジネス)、フードスタンプ(アグリビジネス)。そして愛国者法。残酷なまでに99%を搾取する仕組みが、素知らぬ顔をして、あらゆる方向から逃れられないように迫ってくる。アメリカ建国の精神は、いまや自己責任を弱者に押し付けるための方便に矮小化されてしまった。アメリカ政府は、国民よりもグローバル企業の動向に歩調を合わせることに熱心だ。

最新作『(株)貧困大国アメリカ』では、デトロイトの公共サービスが崩壊している様子についても言及されている。



堤氏は、教育の市場化がデトロイト破綻の一因になったと指摘する。以下に、本書から引用しつつ説明する。

「このままでは全米の自治体の9割は5年以内に破綻する」元ロサンゼルス市長は2011年にテレビ番組のインタビューでそう警告し、公務員の福利厚生や労働条件など労働組合の力が大きくなりすぎたことが地方行政の最大の問題だと指摘した。

ブッシュ政権が導入した「落ちこぼれゼロ法」では、生徒たちの点数が上がらなければ国からの予算が出ないだけでなく、その責任が学校側と教師たちにかかる。低所得者層の多いデトロイトの公立学校ではなかなか平均点が上がらず、教師たちが次々に解雇され、学校が廃校になった。公立校がつぶれると、すぐにチャータースクール(営利学校)が建てられる。7年で元がとれるチャータースクールは投資家にとって魅力的な商品なのだ。しかし入学には、高い授業料と一定以上の学力が要求されるため、デトロイトでは教育難民となった子供が路上にあふれ、失業した教師たちは州を出るか、SNAP(フードスタンプ)を申請した。
教育の市場化は、公教育を破壊して教育格差を作り出し、財政負担をさらに拡大させた。恩恵を受けたのは投資家と大企業、それにSNAPで売り上げが伸びた大型スーパーやファーストフード店、SNAPカードの手数料が入る銀行だけだ。

公務員と公教育が「教育ビジネス」のターゲットになっているのはミシガン州だけではなく、アメリカ中で起こってる動きだという。ハリケーン・カトリーナの後のニューオリンズでは、「もっと強い、国際社会で通用する人材を育てるために強い教育を」という政府の呼びかけのもと、被災により損害を受けた公立校を廃校するとともに、その跡地に大量のチャータースクールが建てられた。「災害」を理由にしたショック・ドクトリンはニューオリンズで成功したのだ。そして今度は「自治体破産」を理由に、デトロイトが次の市場に変えられていくのを投資家は熱い期待とともに待っている。

次々に町が破綻し、廃墟が広がるミシガンですら、上位1%の層は順調に収益を上げている。今のアメリカは、貧困人口が過去最大であると同時に、企業の収益率も史上最高なのだ。

ミシガン州スナイダー知事は、2012年12月、組合への加入と支払いの義務化を廃止する法律「労働権法」に、反対を押し切って署名した。これで労働コストは安くなり、企業にとっては効率のよい経営ができるようになる。労働権法を入れた州ではたしかに失業率は下がっているが、数字を改善しているのは、労働条件の悪い低賃金雇用が圧倒的だ。一方で、ミシガンのように組合の力が強い土地では、組合が既得権益にしがみつくあまり破綻を招いたというのもまた事実であるという。(以上、本書より適時編集)

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「特権にあずかる公務員や労組」を標的に据えるという切り口が大衆の支持を得やすいということは、日本でも同じような現象が起きていることからも容易に想像できる。民営化こそが善である、という単純な思い込みは、一部の成功例を引き合いに出されることで、大衆の間で根強く信奉されている。

安倍首相は、国会の施政方針演説において「世界で一番企業が活動しやすい国」を目指すと宣言した(出典)。「強い日本」をつくる、「国際的な大競争時代」で「世界のフロンティアへ羽ばたく」人材を育成する、とことあるごとに強調している。いつから「経済発展」が「国是」のように扱われるようになったのか知らないが、ニューオリンズの施政方針とまったく同じである。断言してもいいが、現在の日本が「世界のフロンティアへ羽ばたく」ことは不可能だと思う。他でもない掛け声をあげている首相が、アメリカのやること、言うことに右ならえの「親米家」であるからだ。「1%」の栄光にはご熱心であるが、「99%」の現実などまるで眼中にないようにお見受けする。「アベノミクス」の恩恵など、待てど暮らせどわれわれ99%には巡ってこないであろう。

中央政府は実質的に大企業が牛耳っており、彼ら(1%)の利益を正当化するために、「経済成長」というお題目が掲げられる。これは多かれ少なかれ、世界的な潮流なのであろう。この流れは加速していく予感がする。アメリカの1%は自国の99%を食いつぶし、今度は世界を99%化し始めている。TPPはまさにそれを象徴するアメリカ側のリーサルウェポンである。特定秘密保護法案は、「国家の株式会社化」プロセスの一環であると内田樹氏は指摘する(参考)。

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もうひとつ、「切り売りされる公共サービス」いう流れでたいへん印象的だった出来事がある。デトロイトが破綻していく一方で、アメリカでは自治体を民間が運営する都市が誕生した。言うなれば、金持ちの金持ちによる金持ちのための都市である。ふたたび『(株)貧困大国アメリカ』から引用する。

2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。水没した地域住民のほとんどが低所得者層だったのだ。なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければならないのか。莫大な予算をかけて被災地を復興させても、住民の多くは公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入はまるで社会主義だ。いったいどれだけ貴重な税金を投じなければならないのか。

納得のいかない彼らは住民投票を行い、ベストな解決策を打ち出した。群を離れ、自分たちだけの自治体を作って独立すればいいのだ。彼らは自治体の運営に関しては素人だったが、富裕層には大手企業がちゃんと近づいてきてくれる。すぐに両者の間に契約が成立した。この動きは、数ヶ月という短い時間で、目立たず速やかに進められた。全米の関心はハリケーン・カトリーナと被災地に集まっていたからだ。

かくして2005年12月、人口10万人、全米初の「完全民間経営自治体」サンディ・スプリングスが誕生する。雇われ市長1人、議員7人、市職員7人。余分な税金を低所得者層の福祉などに取られずに、効率よく自分たちのためだけに使えるのだ。警察と消防以外のサービスはすべて民間に委託し、費用に見合ったサービスが受けられる。市のホットラインは24時間対応可能。政府統治機構を株式会社に委託するというサンディ・スプリングスの誕生は、小さな政府を望む富裕層の住民と大企業にとって、まだに待ち望んでいたことの実現だった。
もちろん、権利ばかり主張する「いまいましい組合」など存在しない。何しろ住民はみな平均年収17万ドル(約1700万円)以上の富裕層と、税金対策で本社をおく大企業なのだ。外部の者が簡単に入れないよう警備も充実しており、住民には安心で快適な暮らしが約束されている。

過疎化が進む地域はどんどん取り残され、自治体の再分配機能は働かなくなってしまうと、周辺地域の政治家が頭を抱える一方で、この新しい民間経営自治体への関心はとどまるところを知らない。噂は世界中に広まり、中国やサウジアラビア、インド、ウクライナなどからも視察団が訪れるほど人気が高まっている。

サンディ・スプリングスが象徴するものは、株主至上主義が拡大する市場社会における、商品化した自治体の姿に他ならない。そこで重視されるのは効率とコストパフォーマンスによる質の高いサービスだ。そこにはもはや「公共」という概念は、存在しない。(以上、本書より適時編集)

内田樹氏は、日本は「シンガポール化」を目指していると指摘しているが(参考)、それは「サンディ・スプリングス化」と置き換えてもいい。

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たまたま目にしたデトロイト・テクノの音楽を久しぶりに聴き、デトロイト破綻のニュースを思い起こしたときに、ぼくはふとサンディ・スプリングスのことが頭に浮かんだのだ。
いったい、サンディ・スプリングスのような街ではどのような音楽が鳴り響くのだろうかと。投資家による、投資家のための街では、いったいどのような音楽が生まれるんだろうかと。いや、果たして生まれるんだろうかと。前述したように、文化というのは土着的なものだと思う。そこに住む人たちの生活や息遣いから生まれるものだ。

少なくとも、サンディ・スプリングスではデトロイト・テクノのような音楽=ソウル・ミュージックは鳴らされない(生まれない)だろう。「邪魔な」低所得者層を排除したピカピカの街では、「反抗の音楽」は必要ないわけだから。株式会社が席巻する社会とはすなわち、「消費される商品」が正しいものであるという価値観によって形づくられる。その帰結として、汚いものは排除され、いつも綺麗でピカピカのショッピングモールのように「漂白された」社会になる可能性は大きいと思う。

デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれないということはすでに述べた。と同時に、ロックとかテクノって、基本的に暗い奴がやらないとダメなのだ。クラスの中で進んで学級委員長になりたがるような明るく元気な優等生や、プレゼンが得意な明朗快活ビジネスマンがやるものじゃない。数字や言葉で簡単に伝わるなら、わざわざ音楽なんて演りはしない。落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじした少年が、やむにやまれず表出させてしまった音っていうのがロックでありテクノなのだ。

この記事にも書いたが、ピート・タウンゼントは、「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 」という至言を残している。もちろんテクノも同様だ。そのきわめて「個人的な」衝動の中にしかアンダーグラウンドは存在しないんじゃないかと、ぼくは思ってる。

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デトロイトの光と影。

光と影は表裏一体だ。しかし影は時として邪魔になる。とくに、利益優先のビジネスの場においては、排除の対象となる。「個人的な」衝動や意見は、損益が第一義の企業論理においては押し込められる。
ぼくが言いたいのは、デトロイトの犯罪や希望のなさといった影の部分が無くなることを望んでいないということではない。それらの生活圏から生じる衝動や感情といった、きわめて個人的なヴァイブというものは、そう簡単に消せはしないということだ。

緊急財政管理官のオア氏が財政再建に乗り出した現在のデトロイトには、再開発が進むのなら今のうち投資しておけと、これから生まれるかもしれない新たな住民たちに向けて安い物件を買う業者がすでにどしどし入ってきているという。人口の8割以上が黒人になったデトロイト市内では、2012年の大統領選で投票者の98%がオバマに票を入れ、共和党のロムニー候補への投票はわずか2%だったと言われる。人種とクラスで分断された地域で、オア氏やスナイダー知事が相手にしているのは、現在の住民ではなく、新たにやってくる人たちだという指摘もある。(出典

一方で、落ちるところまで落ちたデトロイトに明るい光がわずかばかり差している、という記事もある。無法地帯と化した街と人々の暮らしを救うべく立ち上がったのは、若い民間のスタートアップだそうだ。

破綻都市デトロイトをスタートアップが救う!コミュニティ再生の鍵は「民間」にある - WIRED.jp

民間による都市の再生と聞くと、どうしてもサンディ・スプリングスの例を思い浮かべてしまう。それはオア氏やスナイダー知事が舵取りをするネオリベ路線とも符合する。しかし、この記事を読む限りは、幸先は悪くないように思える。若い世代が立ち上がり、しがらみのない土地で「有機的なムーヴメント」を起こし、「コミュニティの人々が再生への道に参画」することに成功するならば、あるいはデトロイト再生の可能性はあるのかもしれない。

もし仮に、デトロイトが再生したとしたら、そこで鳴らされる音楽はいったいどのような音色を奏でるのだろうか。祝福に満ちた音楽だろうか。それとも漂白された音楽だろうか。聴いてみたいような、みたくないような・・・。

破綻都市デトロイトが、この先どのような道を辿るのかは、誰にも分からない。
今度デトロイトのニュースを耳にした時は、どこか物悲しく、しかし生命力に満ちたデトロイト・テクノの音色を聴きながら、再び妄想を膨らませることにしようと思う。


§



追記(12/5)
12月3日付のニュースによると、連邦判事スティーブン・ローズは、連邦破産法は州法よりも優先され、公的年金を保護する州法を無効にすることができるという裁決を下した。この判決によりデトロイト市は、市職員の健康保険と退職手当の予算を大幅に削減できることになる。(出典

「デトロイト市の事例は、持続不能な年金費用という多くの地方・州政府が直面する慢性的な問題に対してどの程度対応できるかを示すテストケースとなり得る。」とWSJ誌は報じている。日本もけっして他人事ではない社会保障の問題として、デトロイトの今後に注視したい。
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デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色

デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色 2013.11.23 Saturday [音楽・映像] comments(0)
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『風立ちぬ』

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8月12日。

妻とふたりで出かけた。
映画館なんて、第一子妊娠前以来なのでもう何年ぶりだろうか。
チケットの買い方も、スクリーンの大きさも忘れていた。


『風立ちぬ』

黒川さんの奥さんの台詞。そしてあのラストシーン。思わず息を飲んだ。
風のように美しく、愛おしさに溢れた映画だった。




「あの時代」ーーーそう呼ぶしかないくらい、その時代のことをぼくは知らない。実感としてはもちろんのこと、知識としても、語り継がれた物語としても、ほとんど知らない。同じ国なのに、まるで別の国で起きた出来事のように、断片的な情報でしか、知らないのだ。

であるはずなのに、この映画から立ち上ってくるのは、鮮烈なノスタルジー。知らないはずの、その国の出来事、というか景色が、人々の息遣いや仕草が、まるで子供の頃に記憶した景色であるかのように懐かしく思えてくる。

車窓から見える、里山の萌えるような緑とか、土埃の舞う街並みとか、石ころの混じったぼこぼこの散歩道とか、この時代に生きたことはないのに、そのすべてが有機的で美しくて懐かしかった。

ほんとうにそう。なぜなのかは分からない。

なんとロマンチックな作品だろう。呆れるくらいのロマンチストが、自分でも自分のバカさ加減に呆れて、ぐるっと一周して、それでもロマンを夢見るような、、、少年のような、青年のような、老年のような、、、

生きてる。というただそれだけでロマンチックなんだと感じた。



8月15日、終戦記念日。

戦争を知らない世代。それこそ、別の国での出来事であるかのような、遠い認識しか持ち得ていない、ぼくを含めた多くの日本人も、この日くらいは戦争について考える。

「終戦」ではなく「敗戦」なのだ。

終戦記念日になると幾度もくり返される意見。たしかに、終戦ではなく敗戦なのだというのは、紛れもない事実である。ただ、そこまで意識して使い分けていないという人の方が大多数だと思う。呼び方自体に、政治的な作為が有る無しは置いておいたとして。終戦という語り口で、喪失されていくものはあるのかもしれない。失われるのは、敗戦という事実ではなく、そこに至るまでの、人々が生きてきた物語(ものがたり)だ。

ぼくも、その物語(ものがたり)を知らない世代。実感としてはもちろんのこと、知識としても、語り継がれた物語としても、ほとんど知らない。物語が語り継がれるには、140字では足りない。それなりの時間、手触りが必要である。そして受け手の側にも、語られる物語と対峙する姿勢が必要だ。

『風立ちぬ』の、ラストシーン数十秒が描かれるためには、そこまでの2時間が必要だった。あの大きなスクリーンに向き合う時間が必要だった。
あのラストは真実である。と同時に、そこに至るまでの物語(ものがたり)もまた真実である。そのことを「感じる」ためには、物語(ものがたり)と向き合い、あの映画が醸し出すクオリアを共有する時間が必要なのだ。


ノスタルジックであり、ロマンチックであるがゆえに残酷でもある。そういう物語を人はこれからも生きていく。
男だったら、敢えて描かないことで蓋をして隠しておきたい部分がある。居丈高な態度で自分の見たくない部分を否定するのは、弱さの裏返しなわけだが、男はバカだから、という台詞でいつまでも免罪符にできる時代でもない。自らの残酷さを知った上で、それでもロマン(美学)無しでは生きられない。そういう、どうしようもない人間の性を、真正面から、しかし淡々と描いた映画だと思う。

それはとても美しく、とても儚く、とても残酷な物語(ものがたり)だった。




以下、蛇足。

宮崎アニメって、新作が公開される度に、それこそ気合いの入ったマニアから、にわか評論家まで、めんどくさいのが湧いてきて、こぞって議論を呼ぶ。踏み絵的な様相を呈し、単なるいちファンなどが下手な感想などを書くと、笑われてしまう(ような気がする)ので、素直な感想さえおおっぴらに言えないような雰囲気がある。
やれ、宮崎駿の過去の作品が云々だとか、あのアイテムはなにそれの隠喩だとか。

今作は、たばこの描写をめぐって議論が巻き起こっているらしい(一例)。
ばかばかしいというか。せっかくの映画の余韻が冷めるので、こういうのは見ないように、関わらないようにする。

この作品は、「読み解く」とか「分かる」といった性質のものではないと思う。ただ自分が感じたように、感じるしかない。自分が感じたものを、記録として残しておきたいと思ったので、たいした分析があるわけでもないけれども本稿を書いた。いろいろな人がこの映画についてすばらしい論評をしているので下記関連リンクに貼っておく。


映画って、いいですね。


『風立ちぬ』

『風立ちぬ』 2013.08.16 Friday [音楽・映像] comments(0)
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映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ

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公開から9日間連続の満席となった映画「立候補」。感想ツイートも続々流れてきますが、「とんでもなく良かった」「今年いちばん」「傑作」との声が多く、これからも話題を呼ぶことは間違いないと思います。(ぼくの感想1感想2

絶好調の同作ですが、予期せぬ意外な(?)ところから正念場を迎えています。

映画「立候補」facebookページより
いよいよ正念場!

映画「立候補」ですが、正直次の手に困っています。というのも出演者の参院選立候補で期せずしてバーチャルな状況になりプロモートの展開を大きく見直す羽目になってしまいました。
幸い観客のあたたかいご支援により公開劇場は連日大盛況。でも選挙後から始まる拡大公開が宣伝できない事態に陥っております。


何が起こったのかというと。7月4日に公示され、7月21日に投開票が行われる、この度選挙期間中の参議院選挙に、この映画の主人公をはじめ泡沫候補2名が立候補したのです(参考1参考2)。この事態を受けて、公式サイトはこんなことになっています。



この映画が「特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではない」ことは、本編を観れば分かります。実際にぼくは、観終わった後、感動したけれども、あの人に投票したいとは全く思いませんでした。

映画「立候補」facebookページより
映画「立候補」は人生においての夢を諦めかけている人や、
踏み出す一歩にためらっている人を応援します。政治に限らず
すべての立候補者を称え、励ますことを目的とした映画です。

先ほど、17時に2013年参院選の届出が締め切られました。
映画「立候補」の出演者が2013年参議院議員選挙に立候補しました。本作は特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではないとの立場から、また選挙の公平性を鑑み、今後7月21日の投票日まではウェブサイト等の宣材物から候補者の肖像・氏名を一旦削除します。なお公示前に掲示・領布された宣材物についてはその限りではありません。皆さまのご協力とご理解をお願いします。(明るい立候補推進委員会)


選挙期間に入ると、こういう「自主規制」を念頭に置かなければならない状況って、めんどくせーなーと思います。逆説的に、選挙とは「利権」で動くものであると言ってるようなものですよね。


数年前に劇場上映された『選挙』の再上映をめぐり千代田区立・日比谷図書館で起きたごたごたについて、想田和弘さんが考えたことを書いています。
日比谷図書館での『選挙』上映が一時中止された件について - 観察映画の周辺
千代田区の見解に対する僕の疑問と見解 - 観察映画の周辺

実際にこの映画が上映されることで損なわれる何らかの利権構造が存在するのかどうか、この事件の真相はたぶん解明されないままになるでしょう。想田さんもそこを追求したいわけじゃない。あるんだか無いんだか分からないけれども、それを先に汲み取って「自主規制」しようとする空気こそが、おかしいのではないかと言っています。きわめて同感です。

選挙前に選挙について語れない「空気」について - 観察映画の周辺より
今晩のJ-wave生出演中にも申し上げたのだが、「選挙前なので放送では政党名や候補者名を言えない」という放送各社の自主規制ガイドラインは全くおかしいと思う。選挙前だからこそ、報道機関は具体的な政党や候補者の政策や体質について詳報し議論すべきではないのか?


このガイドラインは、ぼくらの「思考」に枠組みを付け加えます。ほんらい政治とは、自分の生活実感から出てくる思いや願いであるはずなのに、利権の勢力分布を推し量ることが主眼になっていく。自分はそういう利権勢力とは関わりがないということをことさらにアピールしたくなる(無党派層という訳の分からないカテゴライズはそういう忌避感から生まれたものでしょう)。だから「選挙活動」には近づかないようにしとこう、となるし、「政治」には関わらないほうがいいし、よく分からないとなる。だから、選挙が近づくと大きくなる「政治的」な声は、真面目くさった声ばかりになる。きれいごとばかりになる(あるいはきれいごとばかり言ってはいけない、痛みに…云々という類いのきれいごと)。嘘こけっての。ふだんちゃらちゃらへらへらしているくせに、選挙のときだけまじめくさった顔をする意味があるのか。

だから政治が嘘ばかりになるんですよ。

ほんとはぐうたらなのに、みんなガンバッてるからとか、ガンバらないと怒られるからっていうので「ガンバリます」キリッって無理して作ってきたのが、これまでの日本経済を支えてきた「男社会」だと思うんです。その精神構造がブラック企業の存在を許している。ほんとはできないのに、やりたくないのに、「できます」「やります」つって。そうやって後戻りできなくなっていくという構図の象徴が原発なんだろうなと、ぼくは思っています。だから責任の所在が曖昧になる。「できない」ことを認めないのは、強さの証明ではない。



ということを踏まえつつ、氏の街頭演説を見てみました。

2013/07/05 【東京】「世界に先駆けて永世中立国宣言を」〜東京選挙区 スマイル党 マック赤坂候補 街頭演説(第一声) - IWJ

ぶっ。 こらこら、選挙で遊ばない。
これが率直な感想。

「言ってることはマトモじゃないか」という声もあります。たしかに、「世界で唯一の被爆国である日本は世界に先駆けて永世中立国宣言をすべき」「恒久平和」だのマトモなこと言ってるんです。だけど、それがちーっとも本気に見えない。見えないところが、逆にすごい。なぜハンストなのか。

映画「立候補」の木野内プロデューサーはこうつぶやいています。

木野内哲也さんのツイートより
1年半付き合って大好きな人なんだけど、やっぱりこの人に票を入れてはいけないと思う。ちゅーか、まじで上映していいのか悩む。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/88977


大好きだけど投票はしないという感覚、すごくわかります。なんなんでしょうか、言ってることがちっとも本気に見えない、この軽薄さ。ガンジーに関する蘊蓄の薄っぺらさ。だけど憎めない。っていう、石田純一的な立ち位置。こういう人が「いる」というだけで救われる人がどれだけいるか。

同時に、ぼくはこう考えました。氏の出で立ちを見て、「おいおい、選挙で遊んでんじゃねーよ」とぼくも第一に思うわけですが、まじめな話、選挙で遊んじゃだめなのでしょうか。やっぱり、まじめくさった顔をするべきなのでしょうか。例えば、ぼくらは「遊び」を仕事にしているような人を羨むわけです。そういう人に政治家になってほしいとすら思ったりもする。政治家とは、ぼくらの代表です。ぼくらはどういう社会を作りたいのか。まじめくさった顔してウソをつく人と、どう見ても遊んでる人と、どっちがマシなんだろう。


「私は政見放送だけの男ではない」うん。「Youtubeだけの男でもない」う、うん。「インターネットで投票できたら私は5人のうちの1人に入ります」…お、おう。

っていうか、この人、めっちゃ映画に影響受けてるじゃないですか(笑)。
あれだけ本編を観ても分からなかった、供託金300万円を払ってまで立候補する理由についても、さらーっと言っちゃってるし。映画の宣伝してるし。

氏の今回の変化は、映画の影響だとぼくは思います。現実が先なのか、映画が先なのか。フィクションなのか、ノンフィクションなのか。その境目が現在進行形で入り組んで融解してきている。なんですかこれ。

木野内哲也さんのツイートより
参院選の立候補届け出が先ほど閉め切られた。映画「立候補」に出演する2人が国政に名乗りを上げた。ドキュメンタリー映画の特性なのか、映画という領域が現実とフィクションの差を余裕で越えている。

スクリーンに映り込む光と影が非現実世界だと誰が決めたのだろう。緩やかにプログレスする映画「立候補」。我ら平成よ、刮目せよ。我々は未だ真の現実を味わってはいない。


映画「立候補」は、現在進行形なのです。劇場の100分だけでは完結しない。

刮目しましょう、候補者を。
刮目しましょう、自分の生活を。

そして、できれば一票を投じてみたほうがいいと思います。それは「政治」を、「自分ごと」「自分の生活」に引き寄せる行為です。その結果が、7月21日では完結しないことは言うまでもありません。

映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ

映画「立候補」その後 我ら平成よ、刮目せよ 2013.07.08 Monday [音楽・映像] comments(0)
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映画「立候補」と観察映画

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6月29日から東京・ポレポレ東中野で公開が始まった映画「立候補」が、4日間連続で立ち見を含め満席となり大きな話題を呼んでいるそうです。
映画「立候補」異例の大ヒット!4日連続満員御礼 - 映画.com




公開日直前には、高橋源一郎さんが森達也さんに誘われて試写会に出向き、見終わった直後に「感動して、涙が止まらない」とツイート。その数日後には朝日新聞の論壇時評でも大きく取りあげていました。
立候補する人々 ぼくらはみんな「泡沫」だ 作家・高橋源一郎 - 朝日新聞 論壇時評

これもいいレビューです。
京大出身、商社エリート、スマイル党代表。マック赤坂はなぜ戦うのか「映画『立候補』」 - エキサイトレビュー


映画を観た人のツイートなんかを見ても、評判は上々。
ぼくも、公開前に本編を観る機会に恵まれたのですが、めちゃくちゃおもしろかったです。全国での上映スケジュールはまだ決まっていない状況ですが、これは全国ロードショーされるべき作品だと思いました。こちらに感想を書いています。
映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

「彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあった」
これが、ぼくの感想です。悩みに悩んで死票を投じた昨年の衆院選を思い出しながら、投票するという行為とは何なのかについて考えさせられました。詳しくは上記記事を。

これはあくまでもぼくのパーソナルな体験を通じた、ぼくの感想です。ここ大事なんですが、たぶん観る人によって想起することが違う。観る人によっていろんなことを考えさせられる映画だと思うから、多くの人に観て欲しいと思うし、いろいろな人の感想を聞いてみたい。

そういう映画になっている。藤岡利充監督と製作・撮影の木野内哲也さんの二人でほぼ作られたドキュメンタリーだそうですが、たぶん、藤岡監督や木野内さんが意図して作ったもの以上の「なにか」が宿ってしまっている。その「なにか」は、観る人によってさまざまなことを想起させるはず。

そう思っていたので、或るレビューの中にあった一文が妙に引っかかりました。

マック赤坂、羽柴誠三秀吉氏…異色候補の本音に迫った「映画『立候補』」 - zakzakより
映画評論家の垣井道弘氏は「着眼点はいいし、マック氏ら取材対象者に迫ろうとしているのも分かるが、選挙のドキュメンタリーであるならもう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫るべきだった」という。


もし仮に、「もう少し批評的、ジャーナリステックな視線で取材対象者に迫った」ならば、この映画はまったく別のものになっていたと思います。作り手の「政治的な意図」が透けて見えたならば、聴衆はシラけてしまうと思います。「感動して、涙が止まらない」なんてことにはならないでしょう。クライマックスにかけて映画の神が降りてくる、あの奇跡的な展開は、決して意図して出来るものではないからです。だから感動する。それが「作られた」ものではないから、胸がふるえる。

もともとこの作品は、藤岡監督自らの“映画監督にかける夢”とリンクした「夢追い人」という企画からスタートしたもので、“あきらめない人”のモデルとして「泡沫候補」が取りあげられただけで、当初は泡沫候補だけに絞るつもりも無かったそうです。撮影も、外山恒一氏のインタビュー以外は難航したとのこと。マック赤坂は私生活に触れられることを嫌い、カメラを回すのも事前に許可を得られた時間のみで、気分が乗らない時は中断することもあったとか(参考)。

実際、この映画を観てもマック赤坂のことはほとんど分からないままです。彼はなぜ、供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。政治家になって何をしたいのか。理解しようとすればするほど、理解できなかった。だって、マックが政策について語るシーンはほぼ皆無なんだから。マラカスを振って踊っているだけ。中身が何も無い。「ジャーナリステックな視線で」迫ることを、彼は拒否している。

なのに、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたが、なぜこれほど胸を打つのか。それは、実際に映画を観て「体感」してほしい。そうしないとたぶん伝わらない。言葉や文章で簡単に伝わるようなものだったら、映画を撮る必要は無い。逆に言うと、だから映画を撮るんです、きっと。

ぼくが20代半ばのときに、「古寺巡礼」展示とともに目にして衝撃と大きな影響を受けた土門拳の言葉です。
『写真の立場』土門拳 - 土門拳記念館



ニューヨーク在住のドキュメンタリー映画作家、想田和弘氏は、自身の映像作品を「観察映画」と呼んでいます。想田監督のドキュメンタリーには一切の説明がありません。イントロもナレーションもBGMも敢えて排している。ごてごてと盛り付けて分かりやすさを演出する昨今のテレビ番組とは真逆です。もともとテレビ番組制作に携わっていた想田さんは、そこでの「決まりごと」の多さについて疑問を感じるようになったそうです。



想田監督は、アメリカのドキュメンタリー映画監督であるフレデリック・ワイズマンから影響を受けたと言っています(ぼくはワイズマンの作品を観たことはありませんが)。

同書より
ワイズマンの映画にはナレーションも音楽もテロップも何も無い。ただひたすら目の前に展開する現実を映像と音で描写するだけである。「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」というワイズマンの素っ気ない声が聞こえてきそうだ。


テレビ番組が最大公約数の「分かりやすさ」を追求して、てんこ盛りになっていくのに対して、この「素っ気なさ」は、作り手の努力不足と言われてしまうかもしれません。けれども、解釈を受け手に委ねるということは、受け手の知性を信じているから出来ることだと思います。テレビが説明過剰になるのは、視聴者の知性を信じていないからです。

受け手の知性を信じるとは、受け手の解釈に委ねるということ。教育も、子育ても、そこが本質的な根幹にあるのだとぼくは思っています。もちろん、基礎となる学力(しつけ)も必要だけど、それは目的ではない。彼らが自分で自分のこととしてものごとを「考える」ようになるための手段です。主客が転倒しないように気をつけたい。

想田さんは、徹底して説明を省くのと同時に、だからといってドキュメンタリーが公正中立な客観性を保つわけではないとも言います。カメラのフレームを通した時点で、それは撮影者によって切り抜かれた映像です。そこからこぼれ落ちる現実も無数に存在する。



映画「立候補」は、特定の政党や候補者を支持・応援する映画ではありません。それどころか、たいして「政治的」な映画でも無い。なのに、観終わった後には、今までよりもずっと政治のことを考えるようになります。考えたくなる。それも、テレビが分かりやすく説明してくれる劇場としての「画面上の政治」ではなく、自分ごととして。自分の投票行為を省みたくなる。自分の生活を顧みたくなる。

「オレからは何も説明しないよ。観る人が勝手に解釈してくれ」

ひょっとしたら、映画の中でのマック赤坂はそう言っているのかもしれません。



最後に、木野内哲也さんのツイートを。
参院選の立候補届け出が先ほど閉め切られた。映画「立候補」に出演する2人が国政に名乗りを上げた。ドキュメンタリー映画の特性なのか、映画という領域が現実とフィクションの差を余裕で越えている。

スクリーンに映り込む光と影が非現実世界だと誰が決めたのだろう。緩やかにプログレスする映画「立候補」。我ら平成よ、刮目せよ。我々は未だ真の現実を味わってはいない。


なにが現実で、なにがフィクションなのか。ぼくらはどうやって判断するんでしょうね。

映画「立候補」と観察映画

映画「立候補」と観察映画 2013.07.04 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ

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今日もタイムラインですばらしい曲を教えてもらった。高島千晶さんのツイートより。



キース・ジャレットによる、ボブ・ディラン「My Back Pages」のカバー。
このアルバムに収録されています。1968年のライブ盤。キースは当時23歳。


著者 : キース・ジャレット
ワーナーミュージック・ジャパン
発売日 : 2013-07-24



ディランの原曲は知っていましたが、まさかキース・ジャレットがカバーしているとは知らなかったので驚くとともに、その演奏の瑞々しさにオジさんは胸がときめいてしまいました。アルバムのレビューを見ても、とにかく1曲目「My Back Pages」がいいという声が多いですね。

しかしこれが68年ですか。自分が知っていた曲を、自分が好きなミュージシャンがカバーしていて、しかもそれが自分が生まれる前だったということを知るのは、なんだか不思議な感じがします。音楽は、色褪せないですね。


ボブ・ディランのオリジナルはこちら。地味です。




実はオリジナルよりも、バーズ (The Byrds) がカバーして有名になった曲なんだそうです。キースのカバーも、こちらの方をモチーフにしているとか。なるほどメロディアス。



ディランの30周年記念で歌われたという、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、ニール・ヤング、トム・ペティという豪華面子による共演も。



ラモーンズのカバーもありました。




ところで、ぼくが初めてこの曲を知ったのは、真心ブラザーズによるカバーです。



同曲が収録されているこのアルバムは若かりし頃によく聴いたなあ。


著者 :
キューンレコード
発売日 : 1995-05-01



真心ブラザーズの「マイ・バック・ページ」は、ニューエスト・モデルの「嵐からの隠れ家」と並んで、日本語詞によるディラン・カバーの名曲だと思います。ボブ・ディラン本人もこのバージョンを気に入ったという逸話もあるそう。

倉持さん(YO-KING)が訳した「マイ・バック・ページ」日本語詞

白か黒しかこの世にはないと思っていたよ
誰よりも早くいい席でいい景色がみたかったんだ
僕を好きだと言ってくれた女たちもどこかへ消えた
あのころの僕より今の方がずっと若いさ

自尊心のため無駄な議論をくり返してきたよ
英雄気取りで多数派の弱さを肯定もしてきたし
僕をすばらしいと言ってくれた男たちも次の獲物へ飛びついた
あのころの僕より今の方がずっと若いさ

穴のあいた財布が僕に金をくれ金をくれと言う
青空が僕にむりやりのんきさを要求する
僕を怖いと言ってくれた友人もはるか想い出の中
あのころの僕より今の方がずっと若いさ
あのころの僕より今の方がずっと若いさ


イントロから、出だしのワン・フレーズで持っていかれちゃいますね。
「白か黒しかこの世にはないと思っていたよ」
YO-KINGの歌声と、このワン・フレーズが耳について、ずっとこの曲が好きでした。

オジさんになったいままた聴いてみると、この歌詞が、ぐっと現実的になって胸に迫ってきます。このブログにぐだぐだと書いてきたことも、あのワン・フレーズに凝縮されているような気がする。「自尊心のため無駄な議論をくり返してきたよ」って、橋下批判ですか。いや、橋下批判を含めた橋下批判への批判ですね。自分へのカウンター。

あのころの僕より今の方がずっと若いかどうかは分かりませんが、あのころの僕より今の方がずっとドMにはなりました。ありがとう、ディラン。

My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ

My Back Pages マイ・バック・ページ / ボブ・ディラン、キース・ジャレット、まごころ 2013.07.02 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

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ぐいぐい引き込まれて目が離せませんでした。まさに、いま観るべき映画だと思います。縁あってこのタイミングで本編を観ることができたことに感謝。




映画「立候補」公式サイト

「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか? 橋下維新で盛り上がりを見せた2011年の大阪府知事選挙を軸に、その原動力を探ったドキュメンタリー映画」




先日、この予告編を見て映画にたいへん興味を抱き、また合わせて「選挙って何なんだろう」と考えたこと(それは昨年の衆院選以来考えさせられてきたことでもあります)について書きました(→映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補)。マック赤坂さんや外山恒一さんの政見放送も、この映画に先立ってぜひご覧いただきたいです。

泡沫候補と呼ばれる彼らは、自身が当選しないということを分かっている。
じゃあ、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
「売名行為」だと結論づけるのは簡単ですが。不思議ですよね、なぜそこまでするのか。300万円をドブに捨て、嘲笑と罵声を一身に浴びながら、なぜ負けると分かっている戦いに挑むのか。この映画を観ることで、その理由の一端を垣間みることができるのではないかと期待していました。ひょとしたらマック赤坂のファンになってしまうのではないか、そんな自分はちょっと怖いなと若干の警戒心を抱きつつ。

§



結論から書きます。疑問は少しも解けませんでした。あえて言うならば、分からないということが分かった。マック赤坂という人物について、理解しようとすればするほど、理解できなかった。それどころか、頭の中は以前にもましてハテナが増えました。マック赤坂には「スマイル」以外の何も無かった。いや、ほんとうに何も無いのか、それともあえて何も無いように振舞っているのか、それすらも分からなかった。

本編を通じて、マック赤坂が考える政策の話はまったく出てきません。政見放送では「スマイル」だけだし、街頭ではマラカスを振って踊っているだけ。呆れるくらい、ほんとうに何も無い。これで投票しろというほうが無理でしょう。一応、小さな政府を指向するという旨は主張していたものの、なんだか取って付けたような感じで、「スマイル」以上の説得力はありませんでした。

政治家の仕事といえば、予算の割り振りをすることと法律を定めることですから、マック赤坂さんのいちばんの主張である「スマイルの普及」に直結するような仕事ではないわけで。街頭でマラカスを振って踊ることでスマイルを普及させるのであれば、その手段が「立候補」である必要はまったくない。記者がスマイル党の党員数について質問する場面では、党の活動についてはクローズドだという答え。まったくもって意味が分かりません。なんのために政治家になりたいのかが見えてこないんです。当選したら何をしたいのか。いや、そもそもほんとうに政治家になりたいのか。この映画を見ても、ぜんぜん分かりませんでした。

唯一、あ、ほんとうのことを言ってるなと感じたのは、候補者届出の現場で選挙管理委員会の人に詰め寄るシーン。「同じ供託金300万円を払いながら、新聞紙上では「おもな候補」と「その他」に分けられるのはおかしい」と。至極もっともです。この映画を観るかぎり、マック赤坂が立候補し続ける原動力とはここにある(そしてここにしかない)ように、ぼくは感じました。自ら宣言していましたが、彼は「体制に迎合する男ではない」のです。警官にはやたらと好戦的だったり。

2011年の大阪府知事選は、「おもな候補」3名と「その他の候補」4名による選挙戦でした。マック赤坂のほかにも3名の泡沫候補が登場します。彼らはみな、自分が当選するとはまったく思っていない。供託金300万円を払いながら、金がかかるからという理由でそれ以外の選挙活動を一切行わずほぼ家にいたという候補。公約というウソを付くのがいややから、という理由で「こんにちは、よろしく」という挨拶だけをくり返していた候補。妻に先立たれ、ひとり娘を喜ばれるために泡沫の中での一番を目指す候補。率直に言って、この人ら、なんておもしろいんだと思った。そして、やっぱり分からなかった。
だから、なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。

§



ここでいったん映画から離れ、自身の経験として昨年12月の衆院選のことを振り返ってみます。ぼくは山形1区の有権者でした。1区は、自民党の遠藤利明と民主党の鹿野道彦による事実上の一騎打ちとされていました。そこに共産党の候補を含めて、小選挙区での選択肢は3つ。民主党には失望していましたが、だからといって自民党はあり得ない。だけども菅政権、野田政権という流れの民主党執行部は信じられない。かなり悩みました。選挙というものが分からなくなった。そのときの経緯をこのブログに記しています(選挙のジレンマ選挙の憂鬱選挙の曙光)。けっきょく未来の党に託した希望は打ち砕かれる散々な結果となりましたが。それはそれとして、小選挙区で「選びようがない」という立場に置かれたことで、いろいろと考えさせられました。

最終的に、ぼくは小選挙区で誰に投票したのか。生まれてはじめて共産党の候補者に一票を投じました。共産党アレルギーを克服できたのかどうかは分かりません。だけど単純なことだったんです。脱原発やTPPをはじめとした政策論点で考えたらここしかないんだもの。いち生活者として、わたしはこの政策を支持しますと表明するのが投票という行為なのだとしたら、ここしかないだろうと。じゃあなぜ悩んだのか。「死票」になることが分かっていたからです。共産党候補に一票を入れても、彼が当選することはあり得ない。それは必ず死票になる。

たとえば消去法(TPPには慎重であろうという希望的推測)で鹿野氏を選んだとします。その場合、ぼくは鹿野道彦を選んだことになるのか、民主党を選んだことになるのか。後者ならば、野田民主党を承認したという意味になるのか。理屈としては、鹿野道彦という人物を選んだはずですが、彼が民主党内でどれだけ影響力があるかはまた別問題。民主党執行部は、鹿野氏個人への信任というよりも、民主党執行部が信任されたと解釈して、自分たちのやりたいことをやるための根拠にする。鹿野道彦がTPPに慎重だったとしても、執行部の都合で推進するでしょう。ほんとうに「人」で選ぶ意味があるのか。選挙というものが分からなくなりました。

いくらネット調査で生活党の支持がダントツでも、自分の住む選挙区に候補者が立たなければ選びようがない。未来の党と共産党が両立する選挙区では、なぜ選挙協力しないのか、理念よりも党が大事なのか、という批判がおもに未来の党支持層から共産党に向けてありました。ぼくも少なからずそう思っていた。だけど、衆院選で実際に自分が「死票」を投じてみて、少し考えが変わりました。

「死票」だ何だと小賢しいことを考えるのをやめようと思ったんです。何十年か後になって、自分がここに投票したということを自分の子供らにちゃんと説明できるところに票を投じようと心に決めたときは、なんだか胸がすーっとしていくのを感じました。

当選しないと分かっている人に票を投じる。特定の組織に属しているわけでもないし、別段イデオロギーに凝り固まっているわけでもないのに。それまで、「特殊な人」がするものだと思っていた「死票」を自分が投じてみて、ああ、こういうことかと。

府知事選での勝利後に、橋下徹大阪市長が語っていたセリフが映画にも出てきます。“選挙で負けた候補者については知りません。負けた候補者に投票した市民の声には耳を傾けます(要旨)”。橋下氏が実際に大阪市民の声に耳を傾けているかどうかは甚だ疑問ですが、ここで彼が言っていることが、民主主義の原則なのだなと。そして選挙の意味、ぼくらが投票する意味もここにあるのだと。多数派が正解(絶対正義)だということを決めるために選挙をやるわけじゃない。むしろ、社会の多様性を担保するためにこそ、代議士による議会制民主主義が存在しているはずです。

勝ち馬に乗ろうとすることが、投票の意味ではありません。そのためにどの候補が「勝ちそうか」を比べることに何の意味も無い。たとえ自分がマジョリティであろうがマイノリティであろうが、自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合って、そこから考え得る最適解にいちばん近い候補者に票を投じなければ、いくら勝ち馬に乗ったって意味が無い(皮肉なことに、ぼくは子供を持つことで自分がマイノリティであることを痛感させられました)。

どうせ比例区でしか議席を獲れない共産党が全ての選挙区で候補者を立てるのは、有権者にとっての選択肢を増やすためでしょう。当選はしない(議席は得られない)けれども、これだけ票を入れる人が存在するという事実を、当選した議員は、立場上、受けとめなければならない。それはつまり与党への圧力としてはたらきます。原発事故以降、共産党の存在が無かったらと思うとゾッとしますね。共産党は批判ばかりして建設的ではない、という意見もよく聞きます。ぼくも以前はそう思っていましたが、これも考えが変わりました。選挙に限らず、ぼくら市井の人々が声をあげること自体に意味があります。デモだってそうだし、ツイッターでぼやくことだってその一種かもしれない。女性手帳は圧倒的批判で見送りになりました。

§




閑話休題。

映画「立候補」に登場する泡沫候補が立候補する理由、それはそれぞれ違うみたいです(当たり前だけど)。でも彼らに共通している点があります。それは、「組織に属さない」ということ。選挙に必要だと言われる3つの「バン」、つまり「地盤」(組織力)・「看板」(知名度)・「鞄」(資金)のどれか(あるいはどれも)が圧倒的に不足している彼らは選挙戦では圧倒的不利な立場に立たされる。その中でも、「地盤」(組織力)の力は強大です。

「組織に属さない」ということの「マイナス」を痛いほど見せつけられるのが、この映画のおそろしいところでもあります。これが現実だと思うと、途方もない無力感と孤立感に襲われる。無視されながら、嘲笑と罵声を浴びながら、それでも街頭に立ち続ける彼らを見ていると不思議な気持ちになってきます。「帰れ」コールが連呼される中でマック赤坂が「なにものか」と対峙するラストシーンは鳥肌が立ちました。

マック赤坂が対峙し続ける「なにものか」とは、ぼくらが対峙しなければならない「なにものか」であるような気がします。だからこそ、「何も無い」はずのマック赤坂のすがたがこれほど胸を打つのだと思います。彼はいったい何と戦っているのか。


泡沫候補には、例外なく「イロモノ」というレッテルが貼られます。ぼくらはそういう目で彼らを見る。ぼくもそう見る。どうしたってそう見てしまう。そういう心のクセがあるからです。「組織に属さない」人を、ぼくらは「特殊な人」と見る。べつに「イロモノ」でなくとも、見知らぬ顔に対しては、出る杭を打とうとする心理がどこかではたらく。

出る杭を打つことで、人は自分が勝ち組の中にいるような錯覚を覚えるものです。だから泡沫候補をバカにする。見下す。目を逸らし関わらないようにする。彼らを「腫れ物」として排除しようとするぼくらの心のクセが、排他的で同調圧力的な社会をつくっているのかもしれません。「帰れ」コールのおそろしさは、集団のおそろしさです。


何度も300万円を捻出できる資金力を考えれば、マック赤坂さんはむしろ「勝ち組」側の人間であって、ぼくみたいな庶民の感覚とは離れた感覚をお持ちなのかもしれません。対立候補の眼前で、まるで妨害するかのように辻立ちしBGMを流す行為が好ましいとは思わないし、京都大学の入口にこれまた妨害するかのように選挙カーを横付けし、「学祭なのでどいてもらえますか」と訴える学生に「公職選挙法違反だよ。就職できなくなるぞ」などと脅しをかけるに至っては、いよいよこの人が分からない。

もしぼくが2011年11月に大阪府民だったとしたら、マック赤坂には投票しなかったでしょう。この映画を観終わって、マック赤坂に幾分かの親近感を抱くようになったけれども、やはり彼には投票しないと思います。それでも彼には出続けてほしい。もし街頭で出会う機会があったら声ぐらいかけてみようかとは思うようになりました。

そういう社会がいいと思うんです。
個人的には、マック赤坂の踊りをべつに見たいとも思いません。けれども、彼が踊れるような社会のほうがいいとは思います。

人によってこの映画から感じることはさまざまでしょう。正解なんて無い。多種多様な立場からの、多種多様な真実が入り乱れている。誰にでも簡単に説明できて、誰からも理解されるようなことなんてほとんど無い。そういう社会にぼくらは生きています。誰か「偉い人」が作った教科書をなぞらえていれば、勝利やおなぐさみが確約される、そういう時代はすでに過ぎ去ったと思いたい。
圧倒的アウェー環境の中で、咆哮したりしなかったりする泡沫候補。体制に迎合しない彼らは教科書から逸脱した存在です。

なぜ供託金300万円を払ってまで、立候補するのか。
映画「立候補」を観ても、ぼくにはその理由が分かりませんでした。けれども、もっと大事なことが分かりました。
彼ら泡沫候補が存在する理由とは、すなわち、ぼくらが存在する理由でもあったのです。

彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由。そんなもの簡単に分かるものか。分かってたまるか。簡単に分かるような理由なんて、ペラペラの嘘っぱちですよ。分かった風なことを聞きかじって、分かったつもりになって、分かった風な口をきくことの軽薄さ。分かったつもりになって「勝ち馬」に投票することの底浅さ。


§



参院選が目前に迫っています(7月4日公示)。だけど世間はあまり盛り上がっていません。たぶんまたぎりぎりの直前になってから、誰が勝つだの負けるだの、にわかにお祭り騒ぎ的な様相を呈してくるのでしょう。そしてお祭りが過ぎれば、ほとんどの人は自分が投票したことなんか忘れる。

参院選が盛り上がらないのは、結果が見えているからでもあります。このインタビューで、小沢一郎が今回の選挙の展望について語っています。

同記事より要旨
民主党は結局(憲法でもTPPでも)意思決定できない。このままだと参院選までに受け皿の構築は無理ですね。去年と同じように自民党に対する積極支持はないけれど、最終的に自民党が勝つということになるでしょう。しかし、まあそこからです。3年後には、絶対また政権交代になると思っています。そのために小選挙区制にしたんだから。大多数の民主党の人たちはTPP賛成、原発OKではない。ただ、幹部の中に自民党志向の人たちが多いわけです。だから、民主党の中で考え方の相違がいずれ出てくる。具体的な動きとして出る。そうすると、政界の新しい再編になるのではないかと思っています。


小沢氏のこの見立てには、おおむね同感です。ですが、「3年も耐えられるんだろうか、こっちの生活が…」というのが率直なところ。3年後の政権交代を指を加えて待っているわけにはいきません。これからの3年間でどれだけ生活が壊され、格差が拡大するかがとても心配です。「出戻り自民党のお手並み拝見、だめなら3年後に審判を下せばいい」だなんて悠長に、斜に構えている場合ではないと思います。政治のことを自分の生活にたぐり寄せて、自分ごととして考えていかないと、いつかきっとしっぺ返しを食らいます。

選挙では勝ち馬レースに関係なく自分の意思を表明すること、その後は与党の言動をしっかりと注視すること、それから違うと思ったら声をあげることがとても大事だと思います。それがたとえ、他人から見るとマック赤坂のように滑稽に映ったとしても、そんなことはぜんぜん関係ありません。



追記:ちなみにこの映画には、ラストが近づくにつれ明らかになるもうひとつの核となるストーリーがあり、監督も「泣きながらカメラを回した」というクライマックスには、ぼくも大いに感動させられたのですが、ネタバレになるのでそちらは映画を観てのお楽しみということで。

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由 2013.05.31 Friday [音楽・映像] comments(0)
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George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭

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世界中で話題を呼んでいるらしいDaft Punkのニューアルバム『Random Access Memories』、まだ試聴したばかりの段階ですが、スイートでノスタルジックで脳みそとろけそうになりますね。ぼくも大好きです。

ダフトパンク新曲に対しての世界中の盛り上がりがすごい - NAVERまとめ

その中で見つけた、この青年による「Get Lucky」(Daft Punkのオリジナルはこちら)のカバーがとってもいいなあと思いまして。誰?って感じですが、まあ聴いてみてください。



ノスタルジックなDaft Punkのオリジナルも良いですが、若い衝動がぎゅっと詰まったようなこのタイトな演奏にはまた違った魅力がありますね。

George Barnettさん。ググってみたものの日本語の情報が乏しいので本国での知名度や名前の読み方など詳しくは分かりませんが(ジョージ・バーネットでいいのかな)、UK出身のミュージシャン・モデルさんで、なんとまだ19歳?? ドラム、ピアノ、ギター、ベース、トランペット、ハーモニカを演奏するマルチプレイヤーで、オリジナル曲もつくってるみたいです。

これとかいいなあ。すごい好き。





PVの雰囲気もグッとくるものがあって、なんだか泣きたくなります。すっごいよね。バーネット君。若い才能がほとばしってる感じ。きらきら輝いてるもの。
おじさんは良い歌を聴かせてもらってありがとうという気持ちでいっぱいです。

しかし、これくらい若くて才能あるアーティストのPVを見てると、以前みたいに単純にかっこいいなあというよりも、自分の子供のことを連想してしまうようになったよ。。。勝手に(もうほんとうに勝手にで恐縮なんですが)いろいろ重ね合わせて目頭が熱くなる。年とったなあ自分…(悪い意味ではなく)。日本でもこういう才能ある若者が出てこれるかなあ。出てこれるような環境を、社会を、俺たちおじさんはつくってあげられるかなあ。せめて自分の子供たちにはキラキラ輝く世界を見せてあげたいなあ、って。ああもう泣きそう。


2012年にリリースされたアルバムが下記に公開されています(日本のアマゾンでは取扱いしていないみたいです)。


George Barnett - 17 Days (Full Album)

なかなかバラエティに富んだ楽曲が揃っていて、荒削りな部分も含めてとっ散らかった印象もありますが、自分の好きなものを詰め込みましたって感じが、それも若さの魅力だなと。近い将来、なにかのタイミングで、日本でもブレイクしそうな逸材だと思います。ルックスもいいし。まあ日本でブレイクしようがしまいが、個人的にはなんだか無性にグッとくる若者で、今後も追いかけたいなと思ったので記録として残しておきました。

George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭

George Barnett 若者の才能とおじさんの目頭 2013.05.23 Thursday [音楽・映像] comments(0)
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映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補

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気になる映画を見つけた。



映画「立候補」公式サイト

「泡沫候補たちはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか? 橋下維新で盛り上がりを見せた2011年の大阪府知事選挙を軸に、その原動力を探ったドキュメンタリー映画」だそうです。夏の参院選を目前に控え、想田和弘監督の「選挙2」と合わせて観たい作品ですね。


泡沫候補といえば、東京都知事選ではマック赤坂や又吉イエスといった個性的な人たちが立候補するのが恒例となっており、ぼくもYoutubeで政見放送なんかを面白半分で眺めながら、なんだこれと笑ったり、政見放送っていちばんアバンギャルドな放送帯なんだなと感心したりしていました。



マック赤坂さんは有名ですね。
コスチュームをはじめ、何とコメントしたらいいのか、どこまで本気なのかぼくには分かりません。その辺りもこの映画を観れば分かるのでしょうか。知りたいような知りたくないような…。



こちらの政見放送は初めて見ました。
「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ」と言い放ち、中指を突き上げる外山恒一候補。2007年当時、この動画はネット上ではたいへん人気を呼んだそうです。他の泡沫候補同様にキャラ立ちが全てであり、シュールな映像に仕上がっていますが、そのメッセージはいま見るとなかなか卓見ですね。オチも上手いし。
ちなみに本人は、政見放送はウケ狙いだったと語っているようです。興味を持ったのでさらにググってみると、こちらの動画ではグローバリズムを批判するなど、まともなことを言ってます。さらに、実際に選挙演説(飲み会?)に行かれた方の記事(泡沫候補研究)を読むと、外山恒一という人物像がなんとなく見えてくるような気がします。「アブナい人」というイメージ作りをされていますが、なかなか深いんですね。


彼ら泡沫候補には、例外なく「イロモノ」というレッテルが貼られます。ぼくらはそういう目で彼らを見る。ぼくもそう見る。どうしたってそう見てしまう。そういう心のクセがあるからです。べつに「イロモノ」でなくとも、見知らぬ顔に対しては、出る杭を打とうとする心理がどこかではたらく。

昨年の衆院選で、脱原発を訴えて出馬した目黒区のデザイナー丸子安子さんは「普通の人」でした。
「普通の人」出馬できる 目黒のデザイナー 脱原発訴え - 東京新聞

「私たちの一票で社会は変わる」という当たり前のことが実現するためには、さまざまな壁があります。「候補者乱立を防ぐ」という名目で設けられている世界一高い供託金(小選挙区で300万円、比例区で600万円)。さらには候補者への「売名行為」という陰口。「政治には関われない」という空気。こういった村八分的な「風習」が、政治というものをぼくらの生活から切り離しています。

上記記事より
二人の娘の母親でもある丸子さんは福島原発事故後、放射能汚染から子どもを守る活動などをしてきたが、出馬を知って離れた仲間がいた。「売名行為」と陰口もたたかれた。「私は何も変わっていないのに『政治には関われない』と言われる」
「有権者は望めば立候補できるはずなのに、まるで議員は別の立場のように思われ、両者が分断されている。子どもたちへの投票教育を怠り、あれもこれもだめという選挙制度が、日本の民主主義をだめにしてきた」
「署名やデモの次の自然な活動の姿として、今がある。誰だって選挙に出られることを知ってほしい」と力を込める。


政治のことを、自分の家族や生活をもとにして考えるのではなく、テレビの画面上に争点があるかのように錯覚して誘導される、すなわち選挙という行為を評論家感覚やゲーム感覚で捉えている人は案外多いのではないでしょうか。

選挙は知名度がいのちです。テレビに出ているタレント候補が組織力と組めば簡単に当選します。選挙時期が近づいてくると、各党がいかに有名人を擁立するかが選挙の焦点になったりする。候補者が何を言ってるのかよりも、ナントカガールズ等とあだ名を付けることのほうに一生懸命になる。そういうレッテルだけで分かったつもりになって多くの票が投じられる。現在の日本の選挙とは人気投票です。小選挙区制という制度の導入によって、その側面が大きくなってきたとも言えます(だから政権交代しやすい仕組みではあるわけです)。

橋下徹氏にしろ、石原慎太郎氏にしろ、猪瀬直樹氏にしろ、なぜこうも恥ずかしいことを恥ずかしげもなく言ってしまうのか。そして、日本人はなぜそういう人たちを選んでしまうのか。彼らはみな有名人候補です。有名人候補だから悪いとは限らないけれども、選挙結果が知名度によって支配されるという現状は、議会制民主主義を標榜する国の仕組みとしては良くない傾向であると思います。

橋下徹氏は「誤報された」とか、「日本人は読解力不足」などと言って自己正当化を図っていますが、その詭弁術は目に見えて劣化しており、論旨がおかしいのは明らかです。けれども、いまもって「マスコミの伝え方が悪い」とかいう擁護の意見を少なからず目にすると、ああなるほど日本人は読解力が不足してるという点だけは当たってるなと。

橋下徹氏は69年生まれのテレビ世代。もちろんぼくなんかもテレビ世代なわけで、彼を選んでしまう日本人も含めて、ある意味、時代の申し子なのではと。橋下現象とは、橋下氏個人の問題だけではないはずです。

テレビ世代からネット世代への世代交代は必ず起こります。いまはまだテレビ世代が大手を振る時代。橋下徹氏はその最後の砦なのかもしれません。欺瞞がボロを出して崩壊している。それは橋下氏の欺瞞であると同時に、ぼくら日本人自身が作ってきた社会というものが抱える欺瞞を見せつけられているような気もするのです。有名と泡沫を隔てるもの、その筆頭はテレビです。そのうち「読解力のある」ネット世代が出てくれば、政治なんて必然的に変わるんじゃないでしょうか。もちろんネット世代のすべてが「読解力がある」わけではないし、むしろ二極化あるいは蛸壺化が進むのかもしれないけど、すべてを同じ色で塗りつぶしてしまうテレビよりはマシだろうなと思います。有名人候補がテレビを栄養にし、泡沫候補がネットを栄養にするというのも象徴的だなと。


泡沫候補をバカにする心のクセ、出る杭を打とうとする心理は、無くならないかもしれない。けれども、そういう自分の傾向を、認識して向き合うことはできます。その上で、人気投票やお祭り騒ぎだけでない、もっと冷静に選挙というものに向き合い、投票できるようにならないといけないですよね。

映画「立候補」は、そのことを認識する上で今まで気付かなかった視座を与えてくれるような気がします。彼らはなぜ300万円も支払って選挙に立候補するのか。知りたいです。


ところで、この映画がとくに気になったのは予告編がとても良かったからです。本作監督の藤岡利充さんは76年生まれ。ぼくと同い年です。予告編で流れるBGMやその編集センスに、同世代の感覚を感じました。



Youtubeで見ると「イロモノ」でしかない泡沫候補ですが、この予告編では一大叙情詩になっている。選挙によって向き合うのはPCやテレビの画面だけではありません。自身の生活、家族、はたらき方や子育て、生き方と向き合うということです。候補者にとってもそうだし、有権者にとってもそうです。

同世代の監督が、泡沫候補という対象をどのように切り取ったのか、そこから見えてくるものは何なのか、とても興味があります。


公式サイトfacebookに掲載されている感想も参考までに転載。
「しつこい。しつこいほどに深く対象者を捉えている。良し。」ジャーナリスト 田原総一郎

「政治家とは何か。私たちが政治家を選ぶとはどういうことか。深く深く考えさせられた。われわれの社会に刃を突きつける、驚くべき傑作。」ジャーナリスト・作家 佐々木俊尚

「群衆の罵声を浴びながら踊り続けるマック赤坂の姿に泣きたくなった。見事だ。ありがとう。」映画監督 森達也

「とにかく面白い。あれやこれやと引き込まれ、最後は涙流す自分にびっくり」俳優 近藤芳正

「バカにするがいい。その分、感動に撃たれるから。」映画監督 松江哲明

「登場する立候補者たちの広々とした心に感銘した。これぞ泡沫の底力だ。」元東京都知事候補・現代美術家 秋山祐徳太子

「立候補する事に意味があるかどうかは、あくまで候補者が決める事だと気付かせてくれる作品。信じる力は偉大だ。」MC・Producer shing02

「泡沫と笑うは易し。でも彼らはまぎれもない”意義申し立て者”だった。懸命さが愛おしくなった。」アジアプレス・インターナショナル大阪オフィス代表 石丸次郎

「爆笑と驚嘆の果てに、民主主義の光と影だ現出する恐るべき人間ドラマだ!日本人必見。」東京国際映画祭 プログラミング・ディレクター 矢田部吉彦

「マイノリティとマジョリティについて深く考えさせられた作品。観終わった後、一人で唸った。」
WKA世界ムエタイウェルター級・WPKC世界ムエタイスーパーウェルター級王者 佐藤嘉洋

「ラストは鳥肌が立つと同時に、ウルッときて、背筋がゾッとした。」元川崎市議会議員 山内和彦(『選挙2』の主人公「山さん」)



追記:本編を観ました。感想など→ 映画「立候補」本編 彼らが立候補する理由、ぼくらが投票する理由

映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補

映画「立候補」予告編 有名人候補と泡沫候補 2013.05.22 Wednesday [音楽・映像] comments(0)
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