木村カエラ『ROCK』

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たのしい!たのしい!たのしい!

音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれる。木村カエラのプライベートレーベル ELA 第一弾リリースとなる本作は、彼女自身が影響を受けたという60年代〜80年代の洋楽をカヴァーしたアルバム。


著者 : 木村カエラ
ビクターエンタテインメント
発売日 : 2013-10-29



a-haから始まり、シンディ・ローパー、クイーン、ベルベット・アンダーグラウンド、キンクス、ザ・フー、カーペンターズ、ビースティー・ボーイズなどなど、音楽好きなら誰もが知っているような、あるいはアーティスト名を知らなくてもどこかで聴いたことがあるようなヒット曲ばかり。1曲毎に様々なアーティストが客演しているコラボレーションアルバムでもある。

特設サイトにて、それぞれの楽曲およびコラボアーティストについての解説が詳しく載っている。レコーディング風景を収録した動画や試聴もあり、このサイト自体が楽しいので是非見てみて。
木村カエラ Collaboration Cover Album 『ROCK』 - ELA MUSIC

こちらはアルバムからの3曲をつないだPV。



ふつう、これだけヒット曲ばかりを集めると逆にもっさりしてつまらなくなってしまいがちだったりする。ましてや原曲のイメージを覆すようなとんがったアレンジは殆どなく、王道的なカヴァーが中心だ。しかし、ひとくせある様々なアーティストたちとコラボレーションすることで、バラエティに富み、エッジの利いた締まった感じになっている。とても気持ちいい。

なにより木村カエラの歌声がいい。とても気持ちいい。
ほんとうにこの曲が好きなんだろうなというのが伝わってくる。音楽って、楽しくて、うきうきわくわくさせてくれるものだと思い出させてくれるのだ。はじめてロックを聴いた時のどきどき。そこからロック史を遡っていわゆる名盤と云われる音源を自分なりに発掘していくたのしさ。音楽のつながりを知るよろこび。
彼女の天真爛漫な歌声を聴いていると、そんなふうに少年のような感覚で胸を躍らせながら音楽に接したくなるのだ。ここで客演しているアーティストたちもきっとそうだったのではないだろうか。だからこんなに「たのしい」アルバムになったのでは。木村カエラというアーティストの魅力って、おそらくそこにあるんじゃないかと(彼女の他のアルバムを聴いたことがないので早合点かもしれないけれども)思った。才能のあるところに人が集まるというか、人が集まりたくなる才能(こういう感じ?)。それって、打算よりも先にまず好きなことを好きにやってるからなんだと思う。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。

自宅のリビングのスピーカーから、シンディ・ローパーのカヴァー「Girls Just Want To Have Fun」が流れた瞬間、1歳半の娘が小さなおしりをぷりぷり揺らしながら体を動かし始めた。4歳の息子はおもちゃの太鼓を叩く。めちゃくちゃ愛らしくて目尻が下がる。音楽って、ほんと楽しい。生きてることすら楽しくなってくる。音楽は時代を超える。世代を超える。人をつなぐ。とてもシンプルな原体験だ。



『ROCK』に収録されている曲が気に入ったら、オリジナルも聴いてみよう。きっと音楽のたのしさがまた広がる。ぼくはこのアルバムでN'夙川BOYSやPredawn、CSSといったアーティストをはじめて知ったし、「You Really Got Me」のギターリフに痺れて民生のニューアルバムを試聴し感動した。音楽はつながる。下記にリンクを貼っておくので参考になれば。

木村カエラ『ROCK』収録曲
01. Take On Me / a-ha(木村カエラ xxx 岡村靖幸)
02. Girls Just Want To Have Fun / Cyndi Lauper(木村カエラ xxx N'夙川BOYS)
03. FUNKYTOWN / Lipps, Inc.(木村カエラ xxx 石野卓球)
04. Two Of Hearts / Stacey Q(木村カエラ xxx Chara)
05. Heart Of Glass / Blondie(木村カエラ xxx チャットモンチー)
06. Crazy Little Thing Called Love / Queen(木村カエラ xxx 斉藤和義)
07. SUNDAY MORNING / The Velvet Underground(木村カエラ xxx 細野晴臣)
08. You Really Got Me / The Kinks(木村カエラ xxx 奥田民生)
09. Fight For Your Right To Party / Beastie Boys(木村カエラ xxx CSS)
10. SWEET DREAMS (ARE MADE OF THIS) / Eurythmics(木村カエラ xxx POP ETC)
11. MY GENERATION / The Who(木村カエラ xxx 岸田繁 fromくるり)
12. RAINY DAYS AND MONDAYS / Carpenters(木村カエラ xxx Predawn)

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木村カエラ『ROCK』

木村カエラ『ROCK』 2014.01.14 Tuesday [音楽・映像] comments(0)
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マイケル・ムーア『キャピタリズム』

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なんか既視感があるなあと思ったら、前にもいちど借りていた。そのことを忘れて自然に手が伸びたのは、時代の要請かもしれない。アメリカに遅れること数年、ここ日本でも現在、いわゆる「リベラル派」のトレンドは、資本主義への懐疑的視点にある。地球上の資源には限りがあり、少子高齢化が進み労働人口が減りゆく中で、先進国が永遠に経済成長し続けることは可能なのか?社会保障は持続可能なのか?自由競争原理によって市場が淘汰されることで安価で良質なサービスが提供されていく一方で、安価で良質なサービスを提供するために搾取され犠牲になっている人たちがいるのではないか?グローバル企業の台頭で、私たちの生活はほんとうに豊かになるのか?私たちの消費行動ひとつひとつが、資本主義の暴走に加担しているのではないか?

いま日本でも、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。かつて、若者がチャラチャラするのは、特定のイデオロギーに取り込まれないための身体的知恵であったように。

マイケル・ムーア『キャピタリズム』が公開されたのは2009年。主にそこから数年前のアメリカのすがたが描かれている。「資本主義こそが、これまでアメリカを豊かにしてきた、そしてこれからも豊かにする最善の道である」と、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュが語るシーン。彼の言葉が思い描くような、ウォール街の大胆な「規制緩和」が、どのような結果をもたらしたかはすでに歴史が示している。サブプライムローンに端を発する世界金融危機が起こったのが2007〜08年。低所得者層が夢見たマイホームは、国民の税金によって救済された銀行により、あっという間に差し押さえられた。


著者 : マイケル・ムーア
ジェネオン・ユニバーサル
発売日 : 2010-05-26



1%の富裕層が、95%の層全ての所得を足したよりも多くの富を所有しているという指摘は、いまではよく耳にする。Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)運動とは、まさしく文字通りウォール街(1%)に対する市民(99%)の声であった。民主主義を押しつぶそうとする資本主義の暴走に対する、民主主義を守ろうとする、実践しようとするレジスタンスであった(参考)。

アメリカの圧倒的な格差社会は、ジャーナリストの堤未果氏によるベストセラー『貧困大陸』シリーズでも克明に描かれている。日本とアメリカの関係を語る上で、このシリーズは必ず読んでおかなければならない一冊だと思う。


著者 : 堤未果
岩波書店
2008-01-22
著者 : 堤未果
岩波書店
2010-01-21
著者 : 堤未果
岩波書店
2013-06-28


彼女が同書でレポートした「庶民にとってのアメリカ」が、『キャピタリズム』では現実の映像として写される。

銀行により家財を差し押さえられる現場。実際に差し押さえの現場で作業を行うのもまた労働者であり、なんて酷いことをするのという声に対し、彼らは彼らにも自分の生活があるのだと言う。ムーアの父親がかつて勤めていたというデトロイトGMの工場跡地は、「豊かなアメリカ」の現在の姿を象徴しているかのように寂寥とした風景に変わっている。花形職業というイメージのある飛行機のパイロットの現実は、バイトや小遣い稼ぎをしなければ生活ができない程の待遇であるという。彼らは空を飛ぶのが好きだから続けてはいるが、いまのままでは安全性が確保されるはずもないと嘆く。もちろんこれも自由市場が招いた価格競争の行く末。民営化の波は刑務所にも及ぶ。外観の見た目がいかにもクリーンで子供に優しそうな民間の少年院「PAチャイルドケア」では、「教師に暴言を吐いた」「家庭内で皿を投げた」等という理由で連れてこられた少年たちに対して判事はあらかじめ有罪が決められているかのように説教する。受刑者が多いほど儲かる仕組みになっているため、房を空けないように刑期が延長されることもあるという。それも法的手続なしで。大手企業では末端の従業員にまで生命保険をかけている。保険金の受取人は企業側だ。長年ウォルマートに勤務していた男性は、同じく同社でパートをしていた妻を若くして亡くしてしまう。会社が守ってくれると信じていた男性に残されたのは、10万ドルの医療費とふたりの子供だけだった。ウォルマートは彼の妻の死によって8万ドルの保険金を手にしている。社員が死亡すると儲かる。企業にとっては、下りる保険金の額が高くなる“若い女性”ほど、儲かるという理屈になる。

アメリカの、行き過ぎた資本主義が招く強欲、冷酷、非人間的な「現実」は、ここでは書ききれないほどだ。『キャピタリズム』や『貧困大陸』ではその一端を垣間みることができる。胸くそが悪くなるような「現実」ばかりで、そのむかし日本人が憧れた「自由と平等の国アメリカ」は、もうそこには無い。できれば直視したくないと思ってしまうだろう。

『キャピタリズム』も『貧困大陸』も、遠いアメリカの出来事を描いた作品ではない。これらの作品が描く「庶民にとってのアメリカ」の現在のすがたを知って、「アメリカって怖いな〜」で終わってしまったらちょっと残念だ。日米安保もTPPもぼくたちの生活とすべてつながっている話であるからだ。日本でも格安の航空券が手に入るようになった。長距離バスの事故により運転手の過酷な労働環境が明らかになったこともあった。刑務所を民営化するという話が出たこともあった。TPPでアメリカが欲しいのは自由な競争なんかじゃない。自国の99%を食いつぶしてしまったグローバル企業が新たな市場を必要としているということだ。

「資本主義こそが最善である」と規制緩和を推し進めたジョージ・W・ブッシュが、いかにも大根役者のように原稿を読むのが丸分かりであった白々しい「演説」を見て、うわあ、これ安倍首相そのものじゃんと思ってしまった。世界金融危機から5年、日本はアメリカの後追いをしている。ウォール街にて首相がドヤ顔で演説したアベノミクス。しかし「大胆な規制緩和」で喜ぶのは、金融市場だけである。「財政出動」で潤うのは大手ゼネコンだけである。いくら傀儡にすぎないとはいえ、ブッシュも安倍晋三も「1%」のための政治をしているのは明らかである。ぼくたち庶民は、いつか自分も「1%」に入れるかもしれない、努力すれば必ず報われる、夢はきっとかなう、と言い聞かされて育った。いまもどこかでそう思っているし、それが間違いだとは思わない。けれども「1%」側には、そんなつもりは毛頭ないのだ。そのことはきちんと認識しておく必要がある。

§



いままでの、資本主義 VS 社会主義という構図だけではものごとを説明しきれなくなっている。劇中に登場するキリスト教の司祭は、資本主義は民主主義に反すると語る。いまや、これは敬虔な宗教者だけの見解ではない。フランスの文化人類学者エマニュエル・トッドも同様の指摘をしているし、内田樹氏や平川克美氏など日本の有識者が世界のグローバル化についての考察を語るようになり、また彼らの著作が売れ始めたのはここ数年のことだ。同じことを感じている人が、同時多発的に増えているのだと思う。

はじめの話に戻るが、都市に就職することを避け、里山で農業を始める若者が増えているのは、巨大市場の中で自分が「消費者」という記号に取り込まれるのを忌避する本能的行動だと思う。行き過ぎた資本主義に対するアンチテーゼであり、自らの身体活動を通した自らの手の届く範囲でのレジスタンスだ。

§



ここに書いたような話は、世界的な潮流であり、数多くの識者が語っているし、多くの人が肌感覚として感じていることではないかと思う。ちょっとググれば、もっと詳しく書いてある記事はたくさん出てくる。それを超えるような見聞を持っているわけではないので、単なる印象論として、誰も指摘しないようなことも書いておく。

前回観た時は気にもとめなかったのだけれども、今回『キャピタリズム』を観て個人的に引っかかったのは、カーター元大統領の演説シーン。ほんの少し挿入されただけで、演説そのものが心に響いたというわけではないのだが、その後の大統領選でレーガンが圧勝、俳優出身のレーガンはテレビ映えのする「明るく強いアメリカ」を打ち出し、資本主義を推し進めたという経緯を知り、それまで名前しか知らなかったカーターのことが気になった。レーガンが圧勝し「明るく強いアメリカ」を打ち出したのは、カーター政権への反動ではないかと感じたからだ。

簡単にググったところによれば、人権を尊重し軍事費を削減したカーターの外交は弱腰外交と揶揄された。内政の失敗もあり、レーガンに大差で敗れ1期で失脚。「人権外交」を掲げたカーターは大統領としては実績を残せなかったが、退任後に積極的に平和的な外交活動にコミットし続け、ノーベル平和賞を受賞。「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれた。

似てないだろうか?鳩山政権と。カーターの理想主義っぽいところやバッシングのされ方なんかが鳩山さんと似てるんじゃないかとすごく思った。政界引退後も平和活動にコミットしようとしている点も。それから、鳩山政権(民主党)への反動で、安倍政権(自民党)がネオリベ的な政策を推し進めている点も。日本はアメリカの後追いをしている。アメリカを知ることは、日本を知ることでもある。ジミー・カーターのことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、アメリカ人は何を期待し、何に失望したのか。鳩山由起夫のことをもっと知りたいと思った。彼が何を主張し、日本人は何を期待し、何に失望したのか。

日本人は民主党に何を期待し、何に失望したのか。当の民主党自身がそれを総括できていない以上、4年前に票を投じた有権者自身がそれを顧みないといけない。ぼくは北欧の社会に憧れを抱いているが、日本ではそれは実現しないだろうと諦観もしている。じゃあ近づくことはできるだろうか。だとしたら、何をどう変えていけばいいのだろうか。そこを明確にできなければ、次世代にバトンを渡すことができない。

ムーアはこうも言っている。「1%にも99%にも等しく同じ一票の選挙権が与えられている。彼ら(1%)はそれを怖れている。」だからもっと成長できる(経済成長と人間的成長を敢えてダブらせたりして)と夢を見させるわけだ。しかし資源には限りがある。少子高齢化も解決していない。これから先進国が目指すべきは、成長戦略ではなく成熟戦略であると、ぼくも思う。行き過ぎた資本主義に疑問を抱くことは、資本主義を全面否定することではない。要はバランスの問題だ。かつてアメリカで反戦を訴えたヒッピーたち、ウォール街のOccupy Wall Streetに集まった人たち、そして里山に向かう若者たち。彼らが見ているものと、そう遠くない気がする。
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マイケル・ムーア『キャピタリズム』

マイケル・ムーア『キャピタリズム』 2013.12.26 Thursday [音楽・映像] comments(4)
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仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス

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まさかこの日が来るとはね。

うちの息子はクルマがほんとうに大好きで。1歳の頃は道路を走る自動車を見るだけで喜んでいたし、早起きした日は近所の始発バス停まで見学に行ったり(思い出)。バス→緊急車両→スポーツカーと、車種への興味が移るとともにトミカは増えていく一方だけど、ほほえましいもんだった。ディズニー映画『カーズ』シリーズも大好きで、カーズトミカは塗装がボロボロになるくらい飽きもせず遊んだ。

小さなミニカーを、小さい手ではさんで「ぶーぶー」と一生懸命にやる様子は、やっぱり可愛いです。年齢が上がるにつれ、「ぶーぶー」の速度がはやくなり、衝突は激しくなり、パトカーの逮捕が頻出するようになってきたけど、それでもやっぱりうちの息子はクルマが好きなんだなあと思ってた。男の子は「クルマ派」と「ヒーロー戦隊もの
派」に分かれるそうだけど、うちはクルマ派だよね、なんて安心してた。

いやですね、子供が生まれる以前から、夫婦ともに「ヒーローものはちょっとね…」という見解だったんです。だって、暑苦しいし、うっとおしいじゃないですか。絵に描いたような「正義の味方」っていう構図も、ひねくれ者のぼくとしてはなんだかなあで。ましてや、いやこれがいちばんの理由なんだけど、まあなんと言いますか、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか。痛そうだし。

だから、たまにその手のテレビ番組を見せてもあまり興味を示さなかったという経緯もあり、うちの息子は「クルマ派」でほんとよかったねえ、なんて高を括っていた。

しかし。

来たんですよ、うちにも。あいつらが。


画像は東映より



断っておきますが、只今絶賛放映中の『仮面ライダー鎧武(ガイム)』も、『キョウリュウジャー』も、息子はテレビ放送を見ていません。前日の夜に「見るー」と言って意気込むも、当日になると「(悪者が怖いから)見ない」となり、本編はほとんど見ていないのです。

なのになぜ、うちにこいつらが上陸してきたのか。

おそらく保育園の影響かと。彼にもマブダチができたようなのです。朝、保育園に送り届ける親の身体からなかなか離れようとせずにぐずぐずしていた息子が、いまではお友だちの待つ教室へ振り返りもせずスタコラサッサと走っていくようになりました。毎日のように、チラシの裏紙で作った剣や手裏剣を持ち帰ってきます。毎日のように、お友だちと「戦いごっこ」をしているそうです。『キョウリュウジャー』や『鎧武』の名前が頻出するようになったのは、「戦いごっこ」を愛する彼らにしてみれば当然のことでしょう。

そんなわけで、見てもいない『鎧武』『キョウリュウジャー』に登場するアイテムについてあれこれ喋るようになるわけですが、こちとら番組を見ていないのでよく分かりません。「ブラック」や「ゴールド」の靴下、コンビニで売ってる「ロックシード」を買ったりしてお茶を濁していましたが、いよいよ逃れられないビッグイベントがやって来ます。世界中の大人たちが同じドッキリに参加する暮れのあの日です。

一ヶ月ほど前から、クレヨンでまるを付けたカタログを見える場所に飾り立て、毎日のようにそのポジションをチェックし、サンタさんがこれとこれをくれるんだと主張していた商品がこちら。



いやあ、まさかこの日が来るとは。こんな俗なものをこの俺が…。はじめは難色を示していた私(だって、一緒に「戦う」のがめんどくさいじゃないですか)ですが、しょうがねえなあと調べていくうちにだんだんおもしろくなってきました。

最近の仮面ライダーはカニやパイナップルを被ってるのかと目を丸くしていたアレが、カニの甲羅ではなくてオレンジであったこと。もはや仮面ライダーという面影はなく、戦国武将をイメージした新しいキャラもの(ライダー同士で戦う戦国時代だそうで)と考えたほうがよさそうなこと。果物をモチーフにした「ロックシード」をベルトにロックオンすることで、同じ果物をモチーフにした兜や鎧が装着され、ライダーに変身すること。そしてバンダイが販売する「ロックシード」には2種類あること。

すなわちコンビニ等で売られている「サウンド・ロックシード・シリーズ」とトイザらス(地方都市では玩具やと言えばもはやトイザらスしかありません)で売っている「DXロックシード・シリーズ」(参考)。なぜこんなに価格が違うのかと不思議でしたが、例の「ベルト」や「セイバー」に装着した際に、光と音が連動するものとしないものの違いだったようです。なんだか、とてもややこしいのです。

子供向け(というか親やじじばば向け)の抱き合わせ商法というか、はじめにアイテム販売ありきで番組が作られているという匂いがぷんぷんします。主人公の鎧武はすでに「オレンジ」と「パイナップル」。これから節操なく新しいロックシードがばんばん登場するわけです。おまけにこれ価格設定が高いですよ。トミカの可愛らしい価格に比べると、バンダイ恐るべし。

と、ぶーたれながら、それでもまあこれだけ欲しがってるんだから年に一度くらいいいだろうと意を決してサンタさんにお願いしました。ふしぎなもので、手配してしまうとだんだん好きになってくるんですね。今までにないタイプの仮面ライダーでなかなか良いじゃないかと。多彩なロックシードも、男子にありがちな収集癖をくすぐります。

そして何より、欲しかったモノを手にしたときの息子の表情。



「サンタさん来てくれたんだね」と目を輝かせる4歳児に、こちらがぐっとくる。前日まで「いい子にしてないとサンタじゃなくて妖怪が来るよ」と散々脅していたので尚更。
この日は、朝から晩までベルトを付けたり取ったり、ロックシードを何度も付け替えて、音とアクションを楽しんでおりました。いつのまにか操作も手慣れてきて、ひっきりなしに「ロォックオォン」だの「オォレェンジパァワォー」だの喧しいことこの上無しですが、まあ好きなだけやりたまえという気持ちになりました。

ちなみに武器を手にした彼、いつもより威勢の良い台詞を口走るようになりまして、ああ大きいクルマに乗って人が変わったように強気になったり、戦闘機に乗ってポーズを決めたりするのは男子の性なんだなと思ったことも書き留めておきます。戦闘機に乗ってポーズを決めて喜ぶ政治家の気持ち悪さって、軍国主義者うんぬんというよりも、4歳児と変わらないその幼児性にあるんじゃないかな。そういうのは子供のうちに卒業しておこうよ。


娘(1歳)にはキッチンが届きました。



こちらも一生懸命に遊ぶすがたは、めちゃくちゃ可愛いです。


イブの夜、息子からママにサプライズ的な告白があったそう。ぼくら夫婦にとっては非常に感慨深い出来事なのですが、これは夫婦だけの胸にしまっておくことにします。こうして家族4人でクリスマスを過ごすことができる幸せを噛み締めながら。


子供が二人になってから、その数倍くらい子育ては大変になりまして、出るのは愚痴ばかり。傍若無人な子供らに毎日イライラして怒りっぱなし。それでも、こういう日くらいはしみじみするのです。きっとどんな親だってそうでしょう。だからこの壮大なフィクションに世界掛かりで乗っかり続けるのです。

Merry Christmas, and I love my family.

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仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス

仮面ライダー鎧武(ガイム)のクリスマス 2013.12.25 Wednesday [子育て・教育] comments(0)
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『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治

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政治のことばが変わった。

2009年、民主党による政権交代でいちばん印象に残っていることだ。共感してくれる人はどれだけいるだろうか。政治の言葉が、ずっと身近になった。新しい内閣が発足したあの夏の夜、颯爽と壇上に上がる閣僚たちが、記者の質問をきちんと聞き(ある人はメモを取りながら)ひとつひとつ丁寧に答える映像をテレビで見ながら、「政治が変わる」という高揚感を妻とふたりで共有したことを、ぼくはいまでも覚えている。あのとき、たしかに国会では「新しい政治」が生まれようとしていた。民主党の議員の中には、そのような自覚を持った政治家が少なからずいたように思う。政治の言葉とともに、情報公開という面でもぼくたち有権者のほうに開かれていく感触があった。鳩山氏は、憲政史上初めて首相会見をオープン化した。閣僚会見も記者クラブだけでない完全オープン化へと向かっていた。「自民党政権下では貧困率を発表することが許されなかった。民主党政権になって出せるようになった。」という有識者の言もある(出典)。「情報公開」は民主党の党是でもあった。しかし残念ながら、憲政史上初とも言える国民自身の手による政権交代を成し遂げた、その国民自身のほうに、「新しい政治」と主体的に関わっていく自覚が足りなかったために、鳩山政権は程なく頓挫した。

民主党は、鳩山政権の瓦解とともに変質した。政治の言葉が、ふたたび官僚の言葉に支配された。いちどは身近に感じた政治の言葉が、また遠くなった。そのことを総括できなかった民主党執行部は、与党の座を失った。民主党の自滅により政権の座に返り咲いた自民党は、以前にも増して強権的な国会運営をするようになった。もちろん、政治の言葉が届いてくるわけはない。いまや、平気で嘘をつき、簡単に前言撤回することなど朝飯前である。

2013年7月の参院選。三宅洋平というミュージシャンが全国比例区で立候補した。彼の「唄う選挙演説」をYoutubeで見て、2009年の政権交代で感じたのと同じヴァイヴを感じた。ああ、この人は「政治の言葉」を変えようとしている。そう思った。彼がやろうとしていたのは、徹底的な「対話」だ。「政治をマツリゴトに」という彼の主張は、スーツを脱いで、新しい「政治の言葉」を一緒に紡いでいこうぜ、という意味だ。「お上にお任せ」ではなく、政治のことを「自分ごと」として。「俺も分かんねえことだらけだからさ、一緒に勉強していこうよ」と彼は言う。

§



人々の意識下にある「お上にお任せ」は根強い。民主党が崩壊した後の自民党への振れ幅をみていると、そう感じざるを得ない。民主党がダメだったからやっぱり自民党、なんて程度で選ばれたのだとしたら短絡的すぎる。そこには知的な逡巡がなにも無い。自民党にお灸を据える、民主党にお灸を据える、という程度の認識で政治に参加したつもりになっている、あるいは参加しないことで冷静なつもりでいる、意思を貫いたつもりでいるという態度からは、政治を前に進ませる土壌は生まれない。だけど仕方がない。戦後長いこと「お上にお任せ」でやってきた日本人のバックグラウンドはそういう文化的土壌なのだから。一度や二度の政権交代で簡単に意識が変わるわけがないのだ。

ぼく自身も、偉そうなことを言える立場にはない。ぼくも数年前まで完全なるノンポリ・無関心層だった。子供が生まれてはじめて政治のことが自分ごとだと知った。子供が生まれた時期と、政権交代の時期とが重なったのは、幸運だったのかもしれない。

特定秘密保護法案の強行採決に象徴される、暴力的とさえ言える現在の自民党による国会運営。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。自民党議員は「サイレントマジョリティの信任を得た」と言う。しかし、前回の選挙で自民党に投票した人たち、あるいは選挙に行かなかった人たちは、ほんとうにこうなることを望んでいたのだろうか?

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくるだろう。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党という政党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。

ただし、伝え方が難しい。同じ志向や嗜好の人が集まりやすいツイッターでいくら情報を拡散してもあまり意味がないだろう。それまで、選挙に行かなかった人、政治に関心の無かった人、政治の話題を忌避していた人に向けて言葉を発しないといけない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。そして、それがいちばん難しいのだ。

政治の話題に関して、多くの人はデリケートだ。政治「活動」や「運動」には、できれば近づきたくないと思っている。下手に政治のことを口にすれば、レッテルを貼られて終わりになりかねない。いままで、いわゆる「政治的」とされる人たちというのは、「定型的」な言葉を繰り出す人たちのことであった。ネトウヨは皆一様に同じ言葉を喋る。視点や思考はもとより、繰り出す言葉そのものがまったく均一的なのだ。どこかで仕入れた定型的な言葉を、政治の言葉と勘違いしているのだ。これは左翼にも言える。原理主義になるほど、教条的で定型的な言葉が並ぶようになり、思考も画一的になる。ノンポリは、そのことを敏感に嗅ぎ取って、忌避するのだ。レッテルを貼って、遠ざけるのだ。政治的に正しいとか正しくないとか、そういうことではない。言葉の使われ方、それ自体がメタ・メッセージを発しているということだ。

ぼくらが使うべき政治の言葉は「コロキアル」でなければならない。


§



鳩山内閣において、内閣官房参与として劇作家の平田オリザ氏が関わっていたと知り、なるほどと得心した。そりゃ政治の言葉が届くはずである。官僚的な文章にアレルギーのあるぼくでも理解できるはずである。
オリザ氏とともに総理演説のスピーチ、ツイッターやブログでの情報発信に取り組んだのは、「新しい公共」の生みの親でもある官房副長官(当時)の松井孝治氏。

本書『総理の原稿』は、その2人による「新しい政治の言葉を模索した266日の記録」である。



本書より
私たちが目指したのは、まさにコロキアルな政治の言葉を作り出すことだった。(P6)


「コロキアル」な言葉とは何か。「コロキアル」とは、「口語の」「日常会話の」という意味だ。なるほど、では日常的な、喋り言葉であればいいのだろうか。

「わかりやすい」言葉はたしかに好まれる。これを徹底的に突き詰めたのが、小泉純一郎氏だった。彼は「わかりやすい」フレーズで国民の心を掴んだ。「コロキアル」な言葉を使う政治家は、もてはやされる。小泉以降、ワンフレーズ・ポリティカルと呼ばれるような、単一フレーズが政治の言葉として多用されるようになった。

政治家の側だけではない。有権者の側も、たとえば「バラマキ」「政治とカネ」といったフレーズだけで、政治のことを「わかったつもり」になるようになった。それは流行の言葉を消費するだけの行為と変わらない。そうして、政治と自分の生活はますます乖離していくのだ。

平田オリザさんの言う「コロキアル」な言葉とは、単に「わかりやすい」フレーズという意味ではない。

本書より
私たちは、熱狂によって万人が興奮するような演説は避けたつもりだ。小泉元首相や、それを真似た現行の幾人かの自治体の首長たちがとったようなやり方ーー仮想敵を作り出し、それを徹底的に叩くことによって、大きな世論のうねりを現出しようとする方法はとらないように厳に自らを戒めた。
巻末に載せたいくつかの文章を見ていただければ、新政権としては意外なほど控えめで、提言型、呼びかけ型の演説となっていることがご理解いただけると思う。(P3)


鳩山内閣における総理原稿は、従来とは異なるプロセスで作成されていたそうだ。各省庁の官僚から提出される短冊をまとめ上げていくという、それまでのやり方を一新し、少数の官邸メンバーで原案を作るという方法で作られたという鳩山内閣の総理原稿は、なるほど、だから言葉が届いたのだ。オリザ氏の言葉を借りれば、「いろいろな人の手が入ると、文章はだんだんつまらなくなる」。

オリザ氏と松井氏の作った文案を初めて読んだ鳩山氏は、「国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません」というくだりを、とても気に入ったそうだ。いかにも鳩山氏らしい。(それが良いか悪いかはさておき、)こういうことを、総理として言える政治家はあまりいないのではないかと思う。やけに肩肘張って「がんばります」とか、口角泡をとばすような演説の暑苦しさに、嘘くささと空虚さを感じる人は少なくないのでは。それもまた「政治離れ」の一因ではないかと思う。

§



いま改めて、鳩山総理時代の原稿を読み返してみよう。

国民のさらなる勝利に向けて 2009/08/30

歴史的な総選挙の大勢判明後、8月30日の深夜に出された談話。ここでは、民主党の勝利というよりも、国民が85年ぶりの政権交代を勝ち取ったというトーンの文章になっている。「民主党や友党各党はもちろん、自民党、公明党に投票なさった皆さんも、誰かに頼まれたから入れるといったしがらみの一票ではなく、真剣に、日本の将来を考えて一票を投じていただいたのではないかと思います。」と、敗者を讃えるということを入れた点も新しいとオリザ氏は指摘する。もう一つは「経済だけでなく」ということを示した点。「戦前、日本は、軍事によって大きな力を持とうとしました。戦後は経済によって国を立て直し、国民は自信を回復しました。しかし、これからは、経済に加えて、環境、平和、文化などによって国際社会に貢献し、国際社会から信頼される国を作っていかなければなりません。」鳩山政権が一番やりたかったことが端的に表れているそうだ。


第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説

これは10月26日、国会が召集されて最初の演説。いま改めて読むと泣けてくる。「あの暑い夏の総選挙の日から、すでに2ヶ月が経とうとしています」という詩的なイントロが印象的だが、これもオリザ氏の発案によるもの。内田樹氏はこれを「身体感覚に訴える表現」と評したらしい。全力で闘ったあの夏の日々を思い出させ、なおかつ敗者に対しても呼びかけるような演説を、というのがオリザ氏の意図だそうだ。所信表明演説とは、国民に鳩山内閣の方針をきちんと伝えるというのが目的であるが、それと同時に多くの議席を獲得した新人議員たちを感動させるスピーチにしようと、それであの冒頭部分が決まったという。こうして後日談として聞くとおもしろいが、あのイントロは、いち国民としても情感を呼び起こすものであった。


第174回国会における鳩山内閣総理大臣施政方針演説

これもまたイントロが印象的な演説。「いのちを、守りたい。」こんな言葉から始まる首相スピーチがあったでしょうか。「生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。」字面で見ると当たり前のことであるように思えるが、動画で実際に鳩山氏が喋る映像を見直してみると、一国の首相がこのようなメッセージを発するということそれ自体のインパクトを感じる。泣きそうになるよこれ。


本書より
平田:「国民と対話がしたい」と政治家はよく言うけれども、そうじゃなくて「国民が対話している場に政治家が入っていく」というのが私たちのチームのキャッチフレーズでした。国民が政治に参加するのではなく、政治家がちゃんと社会に参加する、ということ。ここにコペルニクス的転回があった。対話の場をつくって、そこに政治家も入っていく。
松井:総理大臣は、もちろん国家ということも語らなければいけないけれども、鳩山内閣の演説の特徴は、国家だけではなく社会を語る。総理も一人の人間であり、社会の一人の参加者なので、そこにフラットに入っていってもらいたい。それは鳩山内閣特有のものでした。(P55)


政治とは、ぼくたちの生活に他ならない。「国民の生活が第一」というのも民主党の大きなテーマであった。いまでもあたまの傍らに置いておきたい、とてもいいコピーだと思う。自分の働き方や社会保障なんかが全然見えないままに、安全保障だけを声高に語るような肌感覚は、ぼくには理解できない。若い世代の一部が愛国的な言説に熱狂し、それが「政治的」だと勘違いするのは、優先順位のつけ方が生活実感と乖離しているからだと思う。仮想敵を叩くことで得られる陶酔感の一方で、自分の生活がどうなるかに考えが及んでいない。

ミュージシャンの七尾旅人さんが昨年、印象的なツイートをしていた。
「音楽的な言語で 政治やジャーナリズムの言語では語りきれないものを捉えて鳴らそう 単純化されたスローガンに陥らないように 音の波をかきわけて どんな立場の方にも会いに行ければ良い 音楽は誰も排除しない」
ああ、ぼくが音楽を聴く理由が、ここにあると思った。

オリザ氏が目指した「新しい政治の言葉」とは、「音楽的な言葉」に近づくということだったのではないだろうか。

§



オリザ氏の言う通り、鳩山内閣のスピーチは基本的に「呼びかける」ような演説であった。現在の安倍内閣と比べると、演説が発するメタ・メッセージの質が異なることがよくわかる。すなわち、鳩山内閣は「人の話を聞いてくれそう」であった。国民の側に下りてきて、政治を一緒につくっていこうというメッセージを感じた。安倍内閣が発するメタ・メッセージは「俺に任せろ」である。旧来の自民党的な密室政治をより一層強権的にしたような印象だ。鳩山内閣が醸し出すオープンな雰囲気と、安倍内閣のクローズドな雰囲気はきわめて対照的である。

ノンポリは、細かい政策の善し悪しはわからなくとも、そのメタ・メッセージを敏感に嗅ぎ取るのだ。少なくとも、数年前のぼくはそうだった。

いま政治に失望し、諦観し、忌避している人たちが、自民党のままでいいと思っているとはぼくは思わない。サイレントマジョリティの多くは、良心的な人たちであるだろうと思う。ただ、語るべき「政治の言葉」を持っていないだけだ。彼らがサイレントであるのは、「定型的」な政治の言葉以外で、政治を語ってくれる人がいないからだ。「定型的」な政治の言葉に、自らが回収されるのを恐れているのだ。その直感は正しいと思う。

そのような、正しい直感を備えたサイレントマジョリティに、コロキアルな政治の言葉を届けないといけない。民主主義の社会を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、隣人に、自分の言葉で語らないといけない。政治の言葉とは、テレビや新聞やネットの中にあるような「定型的」な言葉ではなく、「自分の言葉」そのものなのだと思う。

§



内田樹氏は、「日本語は本質的にコロキアルなんで、ロジカルになりようがない」と言っている。これに対して、オリザ氏は「日本語はまだまだ近代化の途上にある」と述べている。

本書より
パスカルの書簡の中に、「ここからは哲学的な議論なので、ラテン語で書きます」という一文があると聞いたことがある。17世紀、まだフランス語では、哲学や政治の込み入った話はできなかったのだ。
ただ、英語やフランス語が、そこから150年、200年とかかって行った言語の近代化、国語の統一という難事業を、日本語は、たかだか4、50年で行ってしまった。当然、そこには、積み残し、取りこぼしがあったはずだ。(中略)言語の民主化とは、とりもなおさず、難しい政策論議でも「聞いてわかる」言葉で話すということだ。(P6〜7)


2009年に、政治の言葉が変わったのは、偶然ではない。「言葉を変える」と意識して、具体的にそれに取り組んだ人たちがいたから、そうなったのである。この記録の書を読んで、そのことを知った。
残念ながら、オリザ氏と松井氏の取り組みは、志半ばにして「敗戦」となった。政治の言葉は、ふたたび官僚の作文に戻っていった。

本書より
いまも、永田町でや霞ヶ関では、あいかわらず日本語のようで日本語ではない奇怪な言語が飛び交っている。道は険しい。おそらく、新しい政治のための新しい日本語を作る仕事は、30年、50年とかかるだろう。(P8)


「政治の言葉」を変えるべきは、政治家の側だけではない。政治家が自分の言葉で喋っていないと憤る前に、自分はどうなのか、どこかで聞きかじったフレーズをなぞっているだけじゃないかどうかを反芻しよう。
ぼくたちが、テレビや新聞あるいはインターネットで情報を収集したり共有したりするのは、ある特定の「真実」を知るためでも、ある特定の「集団」を形成するためでもない。それらを通して「自分の言葉」を獲得するためなのだ。

鳩山スピーチは、鳩山由紀夫氏と平田オリザ氏、松井孝治氏らが邂逅することで生まれた。オリザ氏のような人物が、内閣官房参与として、政治の言葉を届ける側にまわって労力を注いだということは、あの暑い夏が生んだ一瞬の奇跡だったのかもしれない。そして、子供が生まれてはじめて政治のことをちゃんと考えるようになった時期に、定型的ではない、新しい政治の言葉を届けようとしていた政権の言葉に触れることができたのは、ぼくにとって幸運だったのかもしれない。

ぼくはロジカルな思考というものは、得意ではない。ただ、こうして思ったことをブログに書き連ねるという行為を数年間続けることで、いくらかは言語化できるようになった。ぜんぜんロジカルではないけれども、コロキアルであることと政治の言葉とがつながりつつある。もちろん、まだまだ近代化の途上であるが。

「自分の言葉」で政治を語る日本人がある一定数に達したとき、ほんとうの政治の季節は必ず到来する。ぼくはそう信じている。信じなければやってられない。
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『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治

『総理の原稿』平田オリザ・松井孝治 2013.12.13 Friday [読書] comments(2)
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特定秘密保護法案が可決されて思ったこと

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12月6日夜、特定秘密保護法案が参議院本会議で可決された。



拙速に採決を急ぎ、強行的な手法で法案を可決させた与党であるが、これだけ多くの著名人が反対を表明する法案が、かつてあったんだろうか。それこそ「有識者」の多くが反対している。

「特定秘密保護法案に反対する学者の会」は、わずか数日で3000名を超える学者の賛同を得た。3日に行われた記者会見では、様々な識者が同法案の問題点について語っている。内田樹さんのブログに全文書き起こしが掲載されているので一読されたい。

12月3日の「特定秘密保護法案に反対する学者の会」記者会見 - 内田樹の研究室
特定秘密保護法への学者の会からの抗議声明 - 内田樹の研究室

また、「特定秘密保護法案に反対する表現人の会」でも、数日で1万人を超える賛同者が集まった。ぼくもデザイナーとして賛同した。
高畑勲、山田洋次らの呼びかけで結成された「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」には、宮崎駿、是枝裕和、吉永小百合、大竹しのぶら日本を代表する映画人の賛同が集まった。

条文はこちらから読める(特定秘密の保護に関する法律)。が、こういう官僚文章にアレルギーのあるぼくには、何を言わんとしているのかほとんど理解できない(ほんとに、生理的にダメなのだ)。条文を読まずに批判するのはおかしいと言う人もいるかもしれないが、だいたいそう言う人も読んでいないだろう。法律の素人である市民ひとりひとりがすべて条文を読み込む必要があるとは、ぼくは思わない。そのために専門家がいるわけだから。(だから、どの専門家が自分の肌感覚に合っているのかを普段から意識して観察し、信頼できる専門家を自分なりに心得ておく必要がある。)

はっきり言って、問題がありすぎてどこから説明したらいいのか途方にくれてしまうのだ。ぼくは、この法案の問題点を、論理的に、端的に他人に説明できるだけの頭脳も労力も持ち合わせていないので、各自で調べてみることをおすすめする。ちょっとググればいくらでも出てくる。

特定秘密保護法の問題点について、政治学教員の岡田憲治さんはこうまとめている。(出典
・特定秘密の指定について恣意的な運用が可能であること
・行政府の権限を無限に拡大する恐れがあること
・情報開示の方法と原則について明確な規定を持っていないこと
・第三者のチェックが周到に排除されていること
・条文の中に共謀罪とほぼ同等の規定がこっそり書き込まれていること
・「適性検査」という信じがたい人権侵害規定が含まれていること
・想定されている同盟国(米国)に対して無力なこと
・罰則規定が重すぎること

法律であるのに、定義が曖昧である(そのくせに罰則は重い)というのが、キモである。平川克美さんのツイートを引用する。

この法案のキモは、誰も指摘していませんが、一望監視システムと同じところにあります。この法案の不備が指摘されていますが、不備であればあるほど効果があるのです。実際に法適用される必要もない。ただ、法案があればよい。それだけで、誰もが疑心暗鬼になる。
法律というものは、常にその侵犯の最低ライン(マージナルライン)を明示することで成立します。時速40km制限は、侵犯の最低速度はここですよと示している。基本的人権は人間的な生活の最低ラインを示している。しかし、特定秘密保護法にはその最低ラインがないのです。権力にとって、これほどコストがかからずに、効果が大きい法律はないのです。
この法律はあちらがわからはこちら側が丸見えだが、こちら側からは鏡のように自分しか見えない。この非対称性がこの法律のキモだということです。(以上引用

特定秘密保護法が恐ろしいのは、それが権力側に都合よく利用されるという理由ももちろんあるが、「出る杭を打つ」というカオナシのような国民性と符号するからだ。自分はこんなに我慢している。だから我慢してない奴が許せない。他人に我慢を強要し、声を上げるものを全力で引きずり下ろそうとする。
警察国家というものは、国家権力による横暴だけではおそらく成立しない。誰もが疑心暗鬼になり、隣人を監視する社会、相互不信といった心象が広がったときに、監視社会は成立し得る。日本には、村八分という伝統もある。集団(多数派)に個が埋没したときに、いかに恐ろしい同調圧力が生まれるかは多くの人が少なからず経験として知っているはずだ。

§



法案の中身だけではなく、その可決までのプロセスにもこの法案の恐ろしさが表出している。というか、与党がいかにしてこの法案を可決させたかというその行為そのものが、この法案がいかにして運用されるかを物語ってる。

11月26日、特定秘密保護法案が衆議院で強行採決されてから、わずか10日あまりで参議院で強行採決されるまで、国会がいかにして運営されたか、嫌というほどツイッターでまわってきた。恐ろしい、おぞましいその現実を、嫌というほど知らされた。
往年の自民党世代である野中広務氏は「戦争の足音が聞こえてくる」と、秘密保護法案を批判している。いまの自民党は、往時の自民党ではない。「自民党」という括りや、右翼や左翼といったカビの生えた価値軸でものごとを見ようとすると本質は見えてこない。

12月4日、国会は徹夜で行われ、深夜3時、何の落ち度もない民主党籍の委員長2名が「野党の委員長なんて必要ない」という理由で、与党の賛成多数により解任された(2013.12.04-2013.12.05 真夜中の国会 - Togetter)。きわめて野蛮な、数の暴力に他ならない。集団(多数派)に個が埋没したときの横暴なる人の姿だ。議会の存在を否定するような、こんな国会を世界が見たら誰が日本を民主主義国家だと思うだろうか。野蛮な法案を野蛮なやり方で押し通す野蛮な国だとしか思えないだろう。

わざわざこんな深夜に委員長を解任するという暴挙。衆人環視が無ければ、権力は必ず暴走する。真夜中の国会はそれを如実に示している。彼らが何をやろうとしているのか、分かっていながら、反対する声が上がっていながら、それを止める手だてが無い。ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。

正直に言って、こんな歴史の目撃者になんかなりたくなかった。生来めんどくさいことは嫌いな性質だ。しかし、知ってしまったからには目を背けられない。こんな異常な国会運営を強行する人たちに政権を与えてしまったのも我々なのだから。シニカルに構えていえれば事が過ぎ去るという時代はもう終わったのだ。


§



「特定秘密保護法」を、戦前の「治安維持法」をなぞらえる向きもある。ぼくも直感的に同じ匂い、相似性を感じる。あるいはアメリカの「愛国者法」と比較してもいいかもしれない。

政治社会学者の栗原彬氏は「監視されるべきなのは、行政府であるのに、逆に、市民が、とりわけ、異議申し立てをする市民が、取り締まりの対象になっていく」「これは現代の治安維持法です。治安立法なんですよ。ナチの全権委任法に限りなく近いんです。行政府が、これは特定秘密に触れているというふうに判断すれば、何でも取り締まりができる」と述べている(出典)。

治安維持法 1925年制定。28年の改正で最高刑が死刑に。41年の改正により予防拘禁(犯罪の恐れのある者を、犯行が行われる前に拘束し犯罪を未然に防ぐ)制度が導入。権力に従わせる法律として暴威をふるう。拷問による虐殺・獄死194人、獄中での病死1503人、逮捕・投獄者は数十万人。

1945年、治安維持法はGHQの指令により廃止された。逆に考えると、GHQの介入が無ければ存続していたのかもしれない。日本人には、秘密保護法のようなモノを望んでしまう体質が無意識のうちに潜んでいるのだろうか?

であるならば、稀代の悪法と云われる治安維持法がいかなるプロセスで成立し、どのように運用され、改正され、社会にどのような影響を与えたのか、その歴史を知ることに大きな意味がある。1979年生まれの若き学者、中澤俊輔氏による『治安維持法 〜なぜ政党政治は「悪法」を生んだか』は、まさに今読むべき本ではないかと思う。



同書のコピーより。「言論の自由を制限し、戦前の反体制派を弾圧した「稀代の悪法」。これが治安維持法のイメージである。しかし、その実態は十分理解されているだろうか。本書は政党の役割に注目し、立案から戦後への影響までを再検証する。1925年に治安維持法を成立させたのは、護憲三派の政党内閣だった。なぜ政党は自らを縛りかねない法律を生み、その後の拡大を許したのか。現代にも通じる、自由と民主主義をめぐる難問に向き合う。」

§



12月6日、参議院での採決についても記しておく。本会議に先立つ特別委員会での質疑を、ぼくはネット中継で見ていた。

共産党の議員や福島みずほさんはこういうとき本当に頼りになる。強度が違う。維新の議員はアリバイ作りのための質疑。議事録上では慎重意見ということになるだろうが、喋り方で分かる。(民主党・みんなの質疑は見れなかった)
その後、元自衛官の自民党議員による質疑。国民の不安、誤解やミスリードを払拭するために、説明していく必要があるんですよ、と森大臣に詰め寄る。森大臣は野党に対する答弁と違って、たいへん流暢に答える。これが絵に描いたような茶番でほんとうに気持ち悪かった。そうだそうだ、と拍手喝采するヒゲの隊長。
突如「石井浩郎くん」。立ち上がり、何の脈絡もなく委員長のもとに駆け寄る石井議員。複数の議員も詰めより場内は騒然。「ダメダメ」の声が響く。何が起こっているのか分からない。委員長の眼前で紙キレをピラピラさせる議員。なにこれ?と思う間もなく散会。ツイッターで知るまで、採決されたとは分からなかった。

後で動画をよく見たら、石井議員が委員長に駆け寄り場内騒然としている中で、ヒゲの隊長が自民党の議員に、立て立てとゼスチャーしていた。騒然として委員長の声も聞こえない中で、自民党の議員が立っていた。それに対する確認も何もなかったが、あれが「採決」ということなんだろう。驚いた。めちゃくちゃだ。「強行採決」というより「不意打ち」だ。学級会の多数決より酷い。


写真はthe guardianより



法案のマズさもさることながら、本当にやり方が汚い。圧倒的多数を誇るはずの与党が、こんな不意打ちみたいな汚いやり方をしないと通せない法案って何なんだろうか。こんなことして恥ずかしくないのだろうか。どこが「美しい国」なのか。立ち上がった自民党の議員は、これが「採決」ですと、胸を張って言えるのだろうか。

委員会議事録には、審議打ち切りの緊急動議も委員長による採決・可決の宣言もいっさい記録されていないそうだ(出典)。反対派・賛成派で受け取り方は異なれど、「強行採決」という言葉が独り歩きしている。しかしながら、「どうやって採決されたのか」「そもそも採決と言えるのか」が明らかになっていない現状ってすごくないか。国会がどのように運営されているのか、実はぼくはまるで知らないのだ。


同日夜、民主党は内閣不信任案、および森大臣に問責決議案を提出するが、他野党とのまとまりに欠けたこともあり時間稼ぎにもならなかった。こうして特定秘密保護法案は、参議院本会議でも強行採決され、可決された。

§



民主主義の発展や人権擁護に取り組む米財団「オープン・ソサエティー」は、特定秘密保護法が国家秘密の保護と開示に関する国際基準を「はるかに下回る」とし、「日本の一歩後退」を示すことになると懸念する声明を発表した。「21世紀に民主的な政府が検討した中で最悪の部類」とまで表現されている(出典)。

JNNの世論調査によれば、特定秘密保護法の国会審議について85%の人が十分ではなかったと考えている。同法の成立を「評価する」は28%、「評価しない」は57%。安倍内閣の支持率は54.6%だそうだ(出典)。

最低の法案が、最低のやり方で決められた。そう感じざるを得ない。

森雅子担当相は、「成立後は、あらゆる手段を使って必要性と懸念に対する説明を丁寧にしていきたい」と述べている。これから、多くの懸念はミスリードと認定され、報道は政府が示唆するような「正しい」伝え方をすることが求められるだろう。というか、採決前の質疑で元自衛官の自民党議員がそう言ってた。「報道機関にミスリードさせないようにする」。また同党の礒崎陽輔議員は、法案に反対するキャスターの意見を、中立義務違反であるとツイッターで述べている。反対デモはテロと本質的に変わらないと発言した石破幹事長も同じ体質である。

もう決まったんだから、いまさらイチャモンつけてんじゃねえよ。ネガティブなことばかり言いやがって。だったら対案を出せよ。そのように言いたくなる人も増えるだろう。それに対して萎縮する人も増えてくる。こんなこと言ったらミスリードになるんじゃないか、誠実な人であればあるほど発言を躊躇するようになる。そういった空気が醸成されることを、この法律は望んでいる。

これからは、抵抗することそれ自体が難しくなるということは覚悟しておかないといけないだろう。

§



後の自分のために、いま考えていることをもう少し噛み砕いて記録しておこう。

最近、自民党が強権的に事を推し進める際に自己正当化として用いるのが「サイレントマジョリティの信任を得た」という台詞だ。だけどこれは確かめようがない。なんせサイレントなんだから。あえて言うなら「高い支持率」がその根拠になる。しかしシングルイシューに的を絞れば、これは必ずしも当てはまらない。特定秘密法案に関しては、世論としても慎重論のほうが多かったはずだ。しかし与党は、「高い支持率」を、「サイレントマジョリティの信任を得た」と解釈して事を進める。

国会とはそういう理屈が通る場所であるということが今回痛烈に分かった。自民党の拙速で強引なやり方が発するメタ・メッセージは二つ。一つは、数に勝ればなんでもできるということ。もう一つは、反対意見はノイジーマイノリティとして片付けられるということ。

ところで、自民党の強権的なやり方の根拠となっている「高い支持率」であるが、前回の選挙で積極的に自民党に票を投じたのは約二割にすぎない。それで過半数を超える議席を得る圧勝となったのは、小選挙区制という選挙制度の問題である。これはよく理解しないといけない。なぜなら選挙制度を変え得るのも、選挙で選ばれた政治家であるからだ。たとえば、議員定数の削減という「身を切る」改革がどんな結果をもたらすか、言葉のイメージだけではなくきちんと想像しないといけない。比例区の定数を減らしたらますます少数意見は反映されにくくなる。「なんとなくよさそう」「やってくれそう」といったイメージだけで信任するのは無責任な大人だ。

ぼくがいちばん不可解なのは、二割の得票率でありながら、しかも個別の政策での支持は決して高くないのに、過半数を超えるという内閣支持率である。これはいったいどういうことなのか。
個別の政策についてはよく分からないけど、「なんとなくよさそう」「やってくれそう」だから支持されているという現象なのではないかと思う。とくに、選挙に行かなかった人たちが。二割の得票率で過半数の支持率とはそういうことだろう。

アベノミクスでも生活水準は上がらず、秘密法案のマズさが露呈してくると、安倍政権の支持率は下がってくる。選挙に行かずに「なんとなく」現政権を支持していた人たちは、べつに自民党を支持しているわけじゃない。政治に無関心であるか諦観しているか忌避しているかだけだ。その時に、彼らがますます政治に失望し、忌避し、さらなる「サイレントマジョリティ」を形成するのかどうかがターニングポイントになる。

であるならば、やるべきことはおのずと見えてくる。
サイレントマジョリティとは、与党への全権委任状に他ならないのだということを、選挙に行かない人たちに知ってもらうこと。そして、秘密法案はまさにそのようにして強行されたのだということを理解してもらうことだ。つまりそれらを伝えることだ。自分の言葉で。

数年前までぼくも完全なるノンポリ、無関心層だったので、そう思う。反対デモを「テロのようなもの」「嵐」と切り捨てる態度って、実はぼくらノンポリが共産党の人たちに向けていた視線(或いは泡沫候補に対する蔑視)そのままだったのだ。このことはよく反芻しよう。

自民党が今回の国会で見せた醜悪な姿は、集団(多数派)に埋没した時の個の姿だ。誰でもそうなり得る。民主主義を望むならば、ぼくたちは政治的立場の異なる相手とも対話しないといけない。相手を論破するためではなく、どこが違ってどこまでが同じであるのかを確認するために。互いに妥協できる落とし所を探るために。そのためには、ツイッターで定型的な言葉を拡散してもあまり意味がない。隣人に、自分の言葉で語らないといけない。だから今回起こったことと、それを通して自分が感じたことを、自分なりに覚えておくことはとても大事なのだ。

§



参議院での採決をめぐる攻防、反対デモの盛り上がりは、石破幹事長に「テロと本質的に変わらない」、安倍首相に「嵐」と言わしめるほどに大きなものであった。それはたしかに一時的な盛り上がりであったのかもしれない。けれども、こんな時に盛り上がらないでどうする。こんな時に平易を装うようなシニカルな態度にいったい何の意味があるのか。

特定秘密保護法(に限った話ではないが)に対する、いろいろな「人々の反応」を冷静に分析してみせるのは結構だが、いちばん大事なのは自分がどう感じるかだ。自分の問題なんだから。

特定秘密保護法に反対している人々は、反対「勢力」を拡大するために無関心層を懐柔して取り込もうとか、そういう「運動」としての反対活動には興味がないのではないかと思う。それよりも、ひとりひとりが自分の頭で、自分のこととしてこの法案のことを考える人が増えてほしかったのだ。意味も分からないまま「反対派」に多数を取り込むような行為は、たとえ短期的に効果のある行為であったとしても、長期的に考えると逆効果だ。自分の頭で考え、自分の身体で行動する日本人がひとりでも多く増えることこそが、民主主義の国をつくることにつながり、特定秘密保護法への「抵抗」になる。

今回デモに参加した人の多くは、「やむにやまれず」飛び出した人たちであると思う。デモに意味があるかないか、なんてしたり顔で見物することのほうが意味がない。國分功一郎氏によれば、「デモとは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。テーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないと主張する人はデモの本質を見誤っている。デモの本質は、その存在がメッセージになるという事実、メタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることが重要なのだ。」(出典


奈良美智さんは、絵を描くときに下書きをしないそうだ。
奈良美智さんのツイートより
自分は下書きとかしないので、いっつもぶっつけ本番で描いていく。
何を描くかもわからず、何かが見えるまで、ただただ手を動かしていく。
途中はこんな感じで、何も見えない・・・

で、いっつもひとり叫ぶ 「あしたはどっちだ!?」


下書きのない真っ白なキャンパスに、筆を下ろすのは勇気がいる。だいたいの場合、どうしてやろうかと雑念が入り一筆目を躊躇してしまうからだ。一筆目をどう入れようかという雑念は、他人からどう見られるかというプレッシャーと表裏一体だったりする。そうするとますます怖くなる。下書きしたくなる。

明日がどっちに転ぶか分かっていたほうが人は安心できる。安心したい。下書きしたい。奈良さんはなぜ下書きしないのか。なぜ「あしたはどっちだ」と身悶えしながら手を動かし続けるのか。
「何を描くかもわからず、何も見えないまま、ただただ手を動かしていく」ことではじめて「何かが見えてくる」からだと思う。そしてそれは、下書きからは決して見えてこない何かなのだ。自分が思い描く「下書き」なんて、ものすごく了見の狭い思い込みの世界にすぎない。奈良さんはそのことを知っているから下書きしないのだと思う。現実の世界は、明日がどっちに転ぶのか誰にも分からない。ただ手を動かすしかないのだ。

デモに行く人は、用意周到に下書きをしていってるわけではない。明日がどっちに転ぶのか分からないことを承知の上で、それでもやむにやまれず飛び出しただけだ。手を動かしただけだ。意味や結果ではなく、「群衆が街中に出現すること」それ自体がデモの本質なのだ。そうすることで初めて見えてくる世界というものがある。「行動」と「知」は地下水脈でつながっている。

アーティストがなぜ作品をつくるのかというと、「そうせずにはいられない」からだ。商業的価値軸では判断できないし、言葉で簡単に説明できるならそもそも作品なんかつくりはしない。「そうせずにはいられない」から街頭のデモに飛び出した人たちのことを、「何の意味もねーよw」などと嘲笑する行為は慎みたい。それは自分の尺度での「意味」でしかない。未だキャンパスに描かれていない「意味」もあるのだ。

子供の絵の何がいいかって、それはもちろん、下書きが無いから。下書きから自由だ、と言ったほうがいいかな。ぼくはそういう絵を見てるとわくわくする。


§



特定秘密保護法が可決された翌日、ぼくのツイッターのタイムラインは不思議なほど穏やかなトーンであった。もちろん与党の理不尽なやり方や、同法に対する懸念は相変わらずある。けれども、それらは怒りに任せてというよりもっと冷静なトーンであった。施行されるまでは1年あるし、反対世論はこれから高まるだろう。3年後には衆議院選挙もある。

悪夢のような「真夜中の国会」実況中継ツイートが流れる深夜のスマホの画面の中で、作家の佐々木中さんのツイートに胸が沁みたことを思い出す。

佐々木中さんのツイートより
みんな、おやすみ。明日は闘争だ。よく寝て、英気を養って、あいつらを叩き潰すんだ。あいつらをあの場所に居させたのは俺たちだ。なら潰すことだってできるはずだ。子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢を、今夜は見よう。われわれにも夢がある。


子どもたちが自由な世界で遊ぶ夢ーーー。おなじ夢を見ている人がここにもいる。そう思うだけで少し救われた。デモに参加するのは、おなじ思いを抱く人たちがここにもいるということを確認するためでもあるだろう。

ほんとうにどうしようもない歴史の目撃者になってしまった。それでも、ぼくたち大人は、来るべき子供たちに希望を紡がなければならない。どうしようもない時代だからこそ、意識的にそうしなければ、数の暴力であっというまに消されていく時代だ。この両手に、子供たちの小さなぬくもりを感じている、そのぬくもりを知ってる大人たちは、いま希望の灯を点けないといけない。それぞれの持ち場で、それぞれ自分の言葉で、希望の灯を紡いでいかないといけない。そう思った。

平田オリザ氏の言葉を借りれば、日本はレジスタンスの時代に入ったのだ(出典)。レジスタンスは常にアンダーグラウンドでしか有り得ない。だから、意識的に希望の火を紡がなければならない。アンダーグラウンドであることと、レジスタンスであること、そしてポジティブであることは矛盾しない。やれることをやればいい。疲れたら休めばいい。

和合亮一さんのツイートより
真の 政治の季節が 必ず到来する
それまで あきらめずに したたかに しなやかに


岡田憲治さんの記事も紹介しておく。とてもいい文章だと思う。

祭りの後にするべきことについて 〜大切なこと3つ〜

そう、しなやかに。鋼のように。

§



特定秘密保護法案が可決された翌日、ぼくは久しぶりに実家に足を運び、これからについて両親と話をした(実はこれがいちばん苦手なのである)。それから家に戻り、妻が作った美味しい料理を食べて、少しだけビールを飲んで、家族でくだらないテレビ(エンタの神様)を見て笑った。じわじわと幸せを感じた。

本を読み、音楽を聴き、映画を観る。ごはんを食べ、たまにビールを飲む。子供らと遊ぶ。家族と話をする。仕事は自分からやっていく。やるべきことをやる。そんな気分になった。遅ればせながら。

シニカルに構えていれば事が過ぎ去るという時代は終わった。明日をつくるのも自分でしかないのだ。今までよりもずっと楽しんでやるという覚悟(やけくそじゃないよ)が必要だ。レジスタンスはポジティブなほうがいい。


岡田憲治さんの言うように、「SNSは、日々の記録をデータベース化させるのに絶好のメディアであり、記憶装置である」。この記事は、ここ数日の自分のツイートをまとめたものだ。もうすでに忘れていたようなこともある。だからこうして、ここに記しておく。
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特定秘密保護法案が可決されて思ったこと

特定秘密保護法案が可決されて思ったこと 2013.12.09 Monday [政治・メディア] comments(1)
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デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色

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2013年7月、デトロイト市が財政破綻した。



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ミシガン州を本拠地とするフォード、GM(ゼネラルモーターズ)、クライスラーという自動車産業を代表する企業(いわゆるビッグ3)の隆盛と共に、かつては工業都市として全米第4の都市と言われたデトロイト。全盛期には人口180万を超え、その半数が自動車産業に関わっていたという。1950年代には、まさにアメリカンドリームを象徴する都市だった。

しかし、1967年に多数の死傷者を出したデトロイト暴動により白人の郊外への脱出が増加。また70年代頃から日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業は社員を大量解雇、下請などの関連企業は倒産が相次ぎ、市街地の人口流出が深刻となった。同時に、ダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進んだ。
以来、デトロイト市内では人口の8割を黒人が占める。自動車産業関連の職を求めて南部から移住した人々である。一方、白人の多くは郊外に住んでおり、郊外の衛星都市では人口の9割以上を白人が占めている。郊外と市内の生活圏は分断されており、ダウンタウン周辺の空洞化は続いている。(以上、Wikipedia参考)


2009年、同市に本社を置くGMが経営破綻。同年クライスラーも破綻した。自動車産業の空洞化により、デトロイトの都市基盤はいよいよ崩壊していく。180万あった人口は現在68万人にまで減少。人口の減少により、この10年間だけでも市の所得税からの収入は3分の1に。収入の約40%は退職給付の支払いと債務の返済に、過去10年に発行した債務のほとんどは年金拠出金に充てられた(このレガシーコスト問題については後述する)。不動産価格は暴落し、見捨てられた家は市に没収されたまま朽ちていくばかり。廃家屋は7万8000軒にも上り、固定資産税からの歳入を大幅に減らすと共に治安はますます悪化。管理の行き届かない公園は70%近くが閉鎖され、雑草が空き地を覆い荒れ放題になっている。街灯は10本に4本の割合でしか機能しない。稼働している救急車は3分の1。警官の人数も10年で40%削減され、警察に通報しても警官が現場にやってくるのに平均58分(全米平均の5倍)もかかるという。(以上、Democracy Now!及びWSJ.com参考)

そして2013年7月18日、デトロイト市は連邦破産法9条を申請。負債総額は推定180億ドル(約1兆8千億円)。自治体の財政破綻としては米国史上最大だそうだ。

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遠いアメリカの出来事である。だいたいが、デトロイトが合衆国の何処らへんに位置しているのかもよく知らなかった。その割には、日本でもデトロイトの破綻は話題になった。中でも印象的だったのは、廃墟と化した街の景観を写した写真の数々だ。財政破綻のニュースは、経済学に興味のある人ぐらいしか深く読み込まないであろうし、ぼくも理解できていない。議論などできるレベルにはないことは重々承知している。しかし、朽ち果てた建物が並ぶ写真を見るにつけ、「財政破綻」がもたらす現実にショックを受ける。やはりビジュアルが訴える力は強い。(「廃墟好き」にはたまらない、と別の意味でも話題にもなっているようだが…)



いちおう補足しておくが、「財政破綻」がもたらす現実、というと語弊があるかもしれない。デトロイト市が財政破綻に至るまでには、主力産業の衰退、それに伴う人口減少、ダウンタウンの空洞化があった。実際には、市が財政破綻する前から、街の廃墟化は進んでいたわけである。すなわちデトロイトという街は、都市機能としてはすでに破綻していた。ビジュアルが訴える廃墟の写真は、「都市機能の破綻」がもたらす現実、と言ったほうがいいかもしれない。

行政機能は崩壊し、企業の倒産、失業問題、犯罪増加、医療危機、格差拡大など、デトロイトの問題は、現在アメリカが抱える問題を凝縮しているように思える。アメリカ政府はそれらの問題を先延ばしにすることでなんとか生き延びているが、格差はますます拡大している。いつ第二のデトロイトが生まれてもおかしくない状況であると思う。オキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、それに対するカウンターカルチャーであったはずだ。


デトロイト市の財政破綻や、ビッグ3を経営破綻に追い込んだのは「レガシーコスト」だと言われる。レガシーコストとは、退職した市の職員の医療や年金に充てる費用のこと。景気の良かった時代を基準に設計された年金制度が、人口が半減した場合に立ち行かなくなるのは当然だ。財政問題を解決するには破綻申請しかなかったとのことだが、今後もレガシーコストをどう扱うかが焦点になる。

現在、180億ドルの負債処理を任されているのは、デトロイト市長ではなく、ミシガン州知事リック・スナイダー氏が任命した緊急財政管理官ケビン・オア氏。オア氏は連邦破産法の適用を認めるかを判断する審理で、負債のうち90億ドルについて、市職員1万人と退職者2万人の年金と退職者向け医療保険が占めているとの推計を提示した。これに対して労働組合や年金管理機関は、公的年金はミシガン州の憲法に守られているとして年金受給額の大幅カットを認めないよう訴えた。もし仮に破産裁判所がデトロイト市の年金支払額の削減を認めた場合、多くの年金生活者たちは貧困に陥ることになる。(出典


ひるがえって、これは対岸の火事ではない。少子高齢化が指摘されながら有効な手だてが講じられていない日本の年金制度だって近い将来、破綻することは目に見えている。ましてやアメリカのやること、言うことに右ならえの日本政府である。日本が「デトロイト化」「廃墟化」する可能性が無いとは言えない。


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話変わって。
ぼくが、所在地もよく知らずにいたデトロイトのニュースに興味を持つのには理由がある。デトロイトと聞いてぼくがまっ先に連想するのは「デトロイト・テクノ」だ。いまや世界中のクラブでプレイされているテクノ・ミュージックが生まれた街。子供が生まれてからは音楽の趣味も変わり、いまはもう聴いていないけれども、お小遣いの殆どをCD購入に充てていた音楽バカであった頃は、いろんなジャンルの音楽を漁るようにして聴いていた。クラブ系テクノを経由して知ったデトロイト・テクノ周辺の音楽にも一時期かなりハマった。その深淵なる世界のとりこになった。(記事下の関連リンクに一例を紹介してあるので興味を持たれた方はぜひどうぞ)

先日、無料化を機に数年ぶりにヤフオク出品を再開した。押入れに放り込んであったCDの山を漁っている最中に、ロス・ヘルマノス(Los Hermanos)の1stアルバム『On Another Level』が目に入った。デトロイトのアンダーグラウンド・シーンにおける伝説的な集団、アンダーグラウンド・レジスタンス(Underground Resistance)のメンバーでもあるジェラルド・ミッチェル(Gerald Mitchell)やDJロランド(DJ Roland)を中心としてリリースされた本作、日本盤帯のコピーには「デトロイト・テクノの金字塔、ここに現る。」と書いてある。


著者 : Los Hermanos
Submerge
発売日 : 2005-09-13



何を隠そうこのアルバム、ぼくがデトロイト・テクノに興味を持つきっかけにもなった一枚だ。久しぶりに聴いてみたのだが、かっこよくて痺れた。たぶん日本人の耳にも馴染みやすいので「デトロイト・テクノ」を知らない人にも聴いてほしい。ちょっとうまく言い表せないが、“男のコ”が好きそうな音楽。アップテンポで、シリアスで、獰猛で、キラキラしてて、哀愁があって。

で、聴きながら思ったんだけど、これって労働歌だよなと(そういう単語は無いかもしれないが、労働者のための音楽という意味で勝手にそう名付けた)。反復するリズムはルーティンワークそのものだし、低音でうねるベースにフラストレーションをぶつけて。哀しいメロディに、やり場の無い鬱憤とちょっとの希望を託して。
デトロイトがアメリカでも有数の工業都市として元気だった頃、街は労働者で活気に溢れていたと思う。やっぱりそこでルーティンワークを与えられる労働者たちにとっての、はけ口というかストレス解消の一種として音楽があったのではないかと。テクノ(をプレイするクラブ)というのも、その同心円上に位置するものなんじゃないかと。イギリスの労働者にとってのパブみたいなもんで。そう考えると、デトロイト・テクノって、労働歌そのものなんじゃないかと。

もっともこれはデトロイト・テクノに限らず、黒人音楽(ソウル・ミュージック)はすべてそうだったのであろうけれども。デトロイト・テクノとは、マシンを使ったソウル・ミュージックに他ならない。反抗と、希望と、祝福の音楽だ。


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デトロイト・テクノについて書かれた日本でほぼ唯一の本がある。ぼくがデトロイト・テクノに特別な感情を抱くようになったのは本書の影響が大きい。500ページ近くのボリュームにも圧倒されるが、細部まで取材と洞察の行き届いたこの大作には、筆者のテクノに対する造詣と愛情の深さが溢れており、そこにロマンを感じずにはいられない。本書を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。

ディスコ文化からシカゴ・ハウス、Pファンクを経由して、デトロイト・テクノの創始者であるデリック・メイやホアン・アトキンスの名前が登場するまでに200ページも費やしているのだから、そのボリュームは半端ない(いまだに全部読めていない)。この音楽が生まれた背景を説明するためだそうだ。



デトロイト・テクノのオリジネイターと言われるデリック・メイは、1983年のシカゴでフランキー・ナックルズの音楽を聴き、衝撃を受ける。同じくオリジネイターと言われるホワン・アトキンスと共に、それまでパーティでDJもしていた彼だが、シカゴのクラブで出会った音楽は「そんなものではなかった」という。以下、本書よりデリック・メイの言葉を引用する。

「正直言って、おれはそのときほどスピリチュアルな体験をしたことがない。すべてが素晴らしかった。音楽、そこにいる人間たち、ダンス、雰囲気、サウンドシステム、それは未知のパワーのようなものだった。もう「ワーオ!」って、おれはもう、そこで何かを掴んだ気がした。なんて言うのかな、例えば、おまえは何故、音楽を聴く? 明日を生きたいと思うからじゃないのか。希望を見出し、ロマンを感じたいからじゃないのか。だとしたら、そういう類いのものすべてがそこにあったんだ。
 初めてフランキーを聴いた翌日、すぐにホワンに電話したよ。「ホワン、おれはついに音楽の未来を見たよ!」もう興奮していろいろ喋った。そしたらホワンは「ああ、おかまディスコのことね」だって、もう全然信じてもらえなかった。「ノー!違うよ、ホワン、そんなんじゃないんだ!」おれは何回もホワンに説明した。「だから、たかがディスコだろ?」って、ホワンにはなかなか伝わらなかったけどね。だけどおれには確信があったんだ。これは音楽の未来だという確信がね。おれはしばらく、毎週末をシカゴで過ごすことにした。
 (中略)
ある晩は本当に教会みたいになるんだ。教会みたいな状態というのがどういうことか教えてあげようか。ロン・ハーディのDJで、みんながコール&レスポンスみたいなことになるんだよ。彼のDJも騒がしかったけれども、フロアはもっとうるさかった。一緒に歌う者、叫ぶ者、信じられない熱気だった。パーティの翌日は、シカゴのキッズはフランキーやロン・ハーディのプレイの話でもちきりだった。パーティに来ていたキッズのほとんどは、フランキーやロンがかけていた音楽が何なのかを知らない。でもキッズはそんなことどうでもいい。彼らはこの街で最高のDJを知っているからだ。
 (中略)
しばらくはシカゴに夢中だったね。それからデトロイトに戻って、自分たちの手でシカゴのようなパーティをやりたいと考えるようになった。おれたちは、<ザ・パワー・プラント>と<ミュージック・ボックス>にあった生気を、あの熱気を、あの素晴らしいひとたちの感情を自分たちの街にも欲しいと考えはじめたんだ。ストレートもゲイも男女も、誰もが本気で楽しんでいるあの体験をデトロイトでも創造したいと思った。希望のない、死んだようなデトロイトの街に、シカゴのようなファンタスティックなヴァイヴが欲しいと思った。
 黒人のキッズがあんなに生気に溢れている現場を見たことがなかったんだ。おれたちには歴史もなかった。シカゴにあったものがデトロイトにはなかった。デトロイトにあったのは、子供にドラッグを売らせて、銃を撃つことだ。少女に売春をやらせることだ。そこに希望があるか? 人生を生き抜くロマンがあるか? だから、おれたちはおれたち自身のものを創造するしかなかった。」(以上、本書より)

メイが繋いだシカゴとデトロイトのアンダーグラウンドは、ホワン・アトキンスが1985年にモデル500名義でリリースしたシングル「No UFO's」に結実したという。以下に歌詞を紹介する。

希望はないという
UFOはいないという。
それならなぜ、おまえは高みを見るのか
やがておまえは飛ぶのを見るだろう
飛べ!

希望を主題にしたこの曲は、驚くほど的確にデトロイト・ブラックの気持ちを表していたと野田氏は指摘する。ホワン・アトキンスは次のようにコメントしている。

「デトロイトには希望のかけらもない。ストリートで育ったキッズを見ればわかるよ。ドラッグを売って生活する。生きるためには銃だって持たなくてはならない。そしてタフでなければならない。そうさ、ドラッグを売るなんて当たり前さ。そうする以外、ほかに手がないんだ。わかるかい? 希望のない環境は人為的に生み落とされたものだ。自然発生的な過程なんかじゃない。デトロイトの音楽はある種の祈りのようなものでもあるんだ。アメリカに住んでいる黒人たちのね」(以上、本書より)

ぼくが付け足すことは何もない。再びデリック・メイの言葉。

「何故、世界中のこんなに多くのひとがこの一片の音楽から何かを感じとるんだろう。なんで「Strings of Life」はそんなにひとびとにとって大切なんだろう。きみは、高い崖っぷちからダイブしたような、そんな気持ちにさせてくれる音楽を聴いたことがあるかい? 自分でそれはできないかもしれないと思っていても、心の中は満ち足りてしまったようなあの状態、あの曲はきっとみんなをそんな気持ちにさせたんだと思う」「"Strings"はマーティン・ルーサー・キングのことだ。彼が殺されたとき、希望や夢も破壊された。これはかなえられなかった彼の希望なんだ」
シカゴのアンダーグラウンド・パーティの中にデリック・メイが見出した「音楽の未来」とはこのことだった。

「アメリカにはつねにふたつの階級の対立がある」メイは彼の経験してきた“アメリカ”を次のように話す。「スマートなひととゲスなひと。金持ちと貧乏。白人と有色人種。弱者と強者。そしてそこにはつねに嫉妬や足の引っ張り合いがある。とくに黒人のコミュニティではこの50年間はそうだった。50年代に黒人がしっかりとした教育を受けることは同時に黒人のコミュニティからも快く思われないことでもあった。黒人が黒人同士で傷つけ合い、弱い者同士がいがみ合い、そして黒人のコミュニティにはつねに犯罪があり続ける。どうしてそうなってしまうのか、そのことを理解しようとする努力があまりにも欠けていた。だから単純に、多くの黒人の向上心は髪の毛をストレートにしたり、白人社会に迎合したりすることでしか果たせないものになっていたし、あるいはまったくその逆で白人と敵対することでしか自分を保てなくなってしまう人もいた。それでは、つねに誰かが悲しむことになるんだ。おれはそんな世界は望まない。
 例えばイギリスのDJにカール・コックスがいる。彼はまさにイギリスの白人社会で成功した黒人DJだ。でも多くの黒人はカール・コックスを批判する。「やつは媚びている。白人のケツにキスしやがって」とみんなは言う。おれはそうは思わない。何故、カールをカールとして見てあげられないのだろう。何故、カールをひとりの人間として評価しないのだろう。彼は彼自身の実力があって人気DJになった。ただそれだけのことなのに。
 (中略)
何故ひとは自分自身でいられないのだろう」(以上、本書より)

うーむ、デリック・メイ、かっこよすぎる。ちなみに、「Strings of Life」はデトロイト・テクノをまったく知らない人でもおそらく一度は聴いたことがあるはず。89年の貴重なライブ映像があったのでリンクを貼っておく。
Rhythm Is Rhythm - Derrick May with Carl Craign - Strings Of Life LIVE
デリック・メイはこのとき26歳。後ろにいるのは20歳のカール・クレイグだそうだ。

最後に本書から野田氏の言葉を紹介しよう。

これはクラブ・ミュージックについての話だ。と同時にアンダーグラウンドで生きる人たちの自由と快楽と、絶望と希望をめぐる物語でもある。そして願わくば、読者にとって希望の物語であって欲しい。(本書P13より)


くり返すけれども、この本を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。単なる機械によるドラムの打ち込み音が、デトロイトの地下に集う彼らの息遣いに聞こえてくる。ルーティンワークのように反復するリズムが、自分の鼓動に聞こえてくる。そう、紛れもなくこれはソウル・ミュージックだ。


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デトロイト・テクノはいわゆる商業的にはあまり流通していない。現在ではAmazonで簡単に手に入るが、10年くらい前まではずっとアンダーグラウンドな存在だった。(もっとも、彼ら自身がセールスやプロモーションに積極的でないという理由もあるだろう。たとえばムーディーマンことケニー・ディクソン・ジュニアは、音楽がデジタルとして消費されることに批判的な立場を貫いていることでも知られる。彼がヴァイナルにこだわるのは、音質ないしは手触りなどのフェティシズムの問題ではない。デジタルはヴァイナルという個人商店を駆逐するという政治的な理由からだ。(出典))

もしかしたら、現地でもマイナー的な扱いなのかもしれない。彼らの活動の源はアンダーグラウンドにある。だけど、商業的な規模に関わらず、リスナーの数に関わらず、その土地に根付いた音楽であったのだろうと想像する。音楽にもルーツがある。それは、そこに住む人たちの生活から派生するものだ。音楽が生まれるところには、時代や環境といった背景がある。それが文化になる。文化というのは、土着的なものだと思う。デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかったであろう。

チープな図式かもしれないけど、資本家(あるいは経営者)と労働者という構造は資本主義社会では必ず出てくるわけで、そこから発生してくる経済格差や関係性、感情なんかは、どこの国でも、あるいは「資本論」の頃からあまり変わってないのかもしれない。イギリスのオアシスがロックンロールの寵児となったのは、ギャラガー兄弟が労働者階級の出身であったことと無縁ではないと思う。ロックとは反抗の音楽だ。

黒人音楽は、ロックが誕生するずっと前からその歴史上にあった。何に対して反抗していたのかというと、権力や体制といった、「大きなもの」に対する反抗だった。ロックは黒人音楽から派生した。ファッションとしてのロックよりも、反骨精神としてのロックが力をもつ時代があった。いまの若い人は、そんなロックを知らないかもしれない。だって、何に反抗したらいいのか、非常に判りづらい時代だから。

デトロイト・テクノは紛れもなく「反抗の音楽」だ。だって「アンダーグラウンド・レジスタンス」だよ。デトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかった土着的な音楽が、国境や時代を越えて愛されるのは、その音色に共鳴する人々がいるからだ。勘違いしないでほしいのだが、はじめから普遍性をもって愛されるものを作ろうとしたのではなく、あくまでも個人的で土着的な発露から作られたものであるからこそ、国境や時代を越えて語り継がれるのだという、一見矛盾するような創造のマジックを彼らは体現していると思う。
だからこそ、オアシスがそうであったように、共に働き共に生活する同胞を讃え、そこに集う仲間を結束させる、祝福的なヴァイヴが、彼らの音楽の根底にはある。そして日本や欧州でも数多くのフォロワーを生んでいる。

スペイン語でロス・ヘルマノスとは、"ブラザー"を意味する。この言葉の裏には、異なる文化、環境、技術、そしてスピリットを持つ人間が音楽のために協力するという意味が含まれているそうだ。(出典

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デトロイト市の破綻に話を戻す。このニュースを耳にした時に、ぼくが思ったのは、デトロイト・テクノ(つまり現地のアンダーグラウンド・シーン)はどうなっているんだろうということだった。その手の音楽をめっきり聴かなくなってしまったので、現在のシーンには疎くてよく分からない。もっとも、市が財政破綻を申請するずっと前から、街の荒廃は指摘されてきたわけで、その中で作られてきたデトロイト・テクノがいまさらどうこう変わるわけでもないとは思う。ただ、彼らの「反抗の音楽」とは、野田氏の言葉を借りれば、絶望と希望をめぐる物語でもあった。そして願わくば、やはり希望の物語であって欲しい。今回の絶望を経過してもなお希望の種は消えずに、テクノの音色は鳴り続けるのかどうか、ちょっと気になる。


デトロイトの破綻は、アメリカの「貧富の格差拡大」の象徴である。この貧富の差の拡大に、米国経済に潜む病根が凝縮されている。内国歳入省(日本の国税庁に相当)の資料によると、2010年の米国全世帯の個人所得は前の年に比べて2.3%増加したが、所得上位わずか1%の富裕世帯が全世帯の所得増加分のうち、なんと93%を占めた。一方で、全体の80%の世帯は所得の減少に見舞われているという。(出典

前述したオキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、1%対99%という社会構図に対するカウンターカルチャーであった。第二のデトロイトがいつ生まれてもおかしくない状況に現在のアメリカはある。
9.11同時多発テロを世界貿易センターで体験して以来ジャーナリストに転身した堤未果さんは、『ルポ貧困大陸』シリーズで、経済格差が急激に拡大し二極化するアメリカのすがたを克明に描写している。落ちこぼれゼロ法(教育ビジネス)、経済徴兵制(戦争ビジネス)、高額な医療保険(医療ビジネス)、フードスタンプ(アグリビジネス)。そして愛国者法。残酷なまでに99%を搾取する仕組みが、素知らぬ顔をして、あらゆる方向から逃れられないように迫ってくる。アメリカ建国の精神は、いまや自己責任を弱者に押し付けるための方便に矮小化されてしまった。アメリカ政府は、国民よりもグローバル企業の動向に歩調を合わせることに熱心だ。

最新作『(株)貧困大国アメリカ』では、デトロイトの公共サービスが崩壊している様子についても言及されている。



堤氏は、教育の市場化がデトロイト破綻の一因になったと指摘する。以下に、本書から引用しつつ説明する。

「このままでは全米の自治体の9割は5年以内に破綻する」元ロサンゼルス市長は2011年にテレビ番組のインタビューでそう警告し、公務員の福利厚生や労働条件など労働組合の力が大きくなりすぎたことが地方行政の最大の問題だと指摘した。

ブッシュ政権が導入した「落ちこぼれゼロ法」では、生徒たちの点数が上がらなければ国からの予算が出ないだけでなく、その責任が学校側と教師たちにかかる。低所得者層の多いデトロイトの公立学校ではなかなか平均点が上がらず、教師たちが次々に解雇され、学校が廃校になった。公立校がつぶれると、すぐにチャータースクール(営利学校)が建てられる。7年で元がとれるチャータースクールは投資家にとって魅力的な商品なのだ。しかし入学には、高い授業料と一定以上の学力が要求されるため、デトロイトでは教育難民となった子供が路上にあふれ、失業した教師たちは州を出るか、SNAP(フードスタンプ)を申請した。
教育の市場化は、公教育を破壊して教育格差を作り出し、財政負担をさらに拡大させた。恩恵を受けたのは投資家と大企業、それにSNAPで売り上げが伸びた大型スーパーやファーストフード店、SNAPカードの手数料が入る銀行だけだ。

公務員と公教育が「教育ビジネス」のターゲットになっているのはミシガン州だけではなく、アメリカ中で起こってる動きだという。ハリケーン・カトリーナの後のニューオリンズでは、「もっと強い、国際社会で通用する人材を育てるために強い教育を」という政府の呼びかけのもと、被災により損害を受けた公立校を廃校するとともに、その跡地に大量のチャータースクールが建てられた。「災害」を理由にしたショック・ドクトリンはニューオリンズで成功したのだ。そして今度は「自治体破産」を理由に、デトロイトが次の市場に変えられていくのを投資家は熱い期待とともに待っている。

次々に町が破綻し、廃墟が広がるミシガンですら、上位1%の層は順調に収益を上げている。今のアメリカは、貧困人口が過去最大であると同時に、企業の収益率も史上最高なのだ。

ミシガン州スナイダー知事は、2012年12月、組合への加入と支払いの義務化を廃止する法律「労働権法」に、反対を押し切って署名した。これで労働コストは安くなり、企業にとっては効率のよい経営ができるようになる。労働権法を入れた州ではたしかに失業率は下がっているが、数字を改善しているのは、労働条件の悪い低賃金雇用が圧倒的だ。一方で、ミシガンのように組合の力が強い土地では、組合が既得権益にしがみつくあまり破綻を招いたというのもまた事実であるという。(以上、本書より適時編集)

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「特権にあずかる公務員や労組」を標的に据えるという切り口が大衆の支持を得やすいということは、日本でも同じような現象が起きていることからも容易に想像できる。民営化こそが善である、という単純な思い込みは、一部の成功例を引き合いに出されることで、大衆の間で根強く信奉されている。

安倍首相は、国会の施政方針演説において「世界で一番企業が活動しやすい国」を目指すと宣言した(出典)。「強い日本」をつくる、「国際的な大競争時代」で「世界のフロンティアへ羽ばたく」人材を育成する、とことあるごとに強調している。いつから「経済発展」が「国是」のように扱われるようになったのか知らないが、ニューオリンズの施政方針とまったく同じである。断言してもいいが、現在の日本が「世界のフロンティアへ羽ばたく」ことは不可能だと思う。他でもない掛け声をあげている首相が、アメリカのやること、言うことに右ならえの「親米家」であるからだ。「1%」の栄光にはご熱心であるが、「99%」の現実などまるで眼中にないようにお見受けする。「アベノミクス」の恩恵など、待てど暮らせどわれわれ99%には巡ってこないであろう。

中央政府は実質的に大企業が牛耳っており、彼ら(1%)の利益を正当化するために、「経済成長」というお題目が掲げられる。これは多かれ少なかれ、世界的な潮流なのであろう。この流れは加速していく予感がする。アメリカの1%は自国の99%を食いつぶし、今度は世界を99%化し始めている。TPPはまさにそれを象徴するアメリカ側のリーサルウェポンである。特定秘密保護法案は、「国家の株式会社化」プロセスの一環であると内田樹氏は指摘する(参考)。

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もうひとつ、「切り売りされる公共サービス」いう流れでたいへん印象的だった出来事がある。デトロイトが破綻していく一方で、アメリカでは自治体を民間が運営する都市が誕生した。言うなれば、金持ちの金持ちによる金持ちのための都市である。ふたたび『(株)貧困大国アメリカ』から引用する。

2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。水没した地域住民のほとんどが低所得者層だったのだ。なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければならないのか。莫大な予算をかけて被災地を復興させても、住民の多くは公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入はまるで社会主義だ。いったいどれだけ貴重な税金を投じなければならないのか。

納得のいかない彼らは住民投票を行い、ベストな解決策を打ち出した。群を離れ、自分たちだけの自治体を作って独立すればいいのだ。彼らは自治体の運営に関しては素人だったが、富裕層には大手企業がちゃんと近づいてきてくれる。すぐに両者の間に契約が成立した。この動きは、数ヶ月という短い時間で、目立たず速やかに進められた。全米の関心はハリケーン・カトリーナと被災地に集まっていたからだ。

かくして2005年12月、人口10万人、全米初の「完全民間経営自治体」サンディ・スプリングスが誕生する。雇われ市長1人、議員7人、市職員7人。余分な税金を低所得者層の福祉などに取られずに、効率よく自分たちのためだけに使えるのだ。警察と消防以外のサービスはすべて民間に委託し、費用に見合ったサービスが受けられる。市のホットラインは24時間対応可能。政府統治機構を株式会社に委託するというサンディ・スプリングスの誕生は、小さな政府を望む富裕層の住民と大企業にとって、まだに待ち望んでいたことの実現だった。
もちろん、権利ばかり主張する「いまいましい組合」など存在しない。何しろ住民はみな平均年収17万ドル(約1700万円)以上の富裕層と、税金対策で本社をおく大企業なのだ。外部の者が簡単に入れないよう警備も充実しており、住民には安心で快適な暮らしが約束されている。

過疎化が進む地域はどんどん取り残され、自治体の再分配機能は働かなくなってしまうと、周辺地域の政治家が頭を抱える一方で、この新しい民間経営自治体への関心はとどまるところを知らない。噂は世界中に広まり、中国やサウジアラビア、インド、ウクライナなどからも視察団が訪れるほど人気が高まっている。

サンディ・スプリングスが象徴するものは、株主至上主義が拡大する市場社会における、商品化した自治体の姿に他ならない。そこで重視されるのは効率とコストパフォーマンスによる質の高いサービスだ。そこにはもはや「公共」という概念は、存在しない。(以上、本書より適時編集)

内田樹氏は、日本は「シンガポール化」を目指していると指摘しているが(参考)、それは「サンディ・スプリングス化」と置き換えてもいい。

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たまたま目にしたデトロイト・テクノの音楽を久しぶりに聴き、デトロイト破綻のニュースを思い起こしたときに、ぼくはふとサンディ・スプリングスのことが頭に浮かんだのだ。
いったい、サンディ・スプリングスのような街ではどのような音楽が鳴り響くのだろうかと。投資家による、投資家のための街では、いったいどのような音楽が生まれるんだろうかと。いや、果たして生まれるんだろうかと。前述したように、文化というのは土着的なものだと思う。そこに住む人たちの生活や息遣いから生まれるものだ。

少なくとも、サンディ・スプリングスではデトロイト・テクノのような音楽=ソウル・ミュージックは鳴らされない(生まれない)だろう。「邪魔な」低所得者層を排除したピカピカの街では、「反抗の音楽」は必要ないわけだから。株式会社が席巻する社会とはすなわち、「消費される商品」が正しいものであるという価値観によって形づくられる。その帰結として、汚いものは排除され、いつも綺麗でピカピカのショッピングモールのように「漂白された」社会になる可能性は大きいと思う。

デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれないということはすでに述べた。と同時に、ロックとかテクノって、基本的に暗い奴がやらないとダメなのだ。クラスの中で進んで学級委員長になりたがるような明るく元気な優等生や、プレゼンが得意な明朗快活ビジネスマンがやるものじゃない。数字や言葉で簡単に伝わるなら、わざわざ音楽なんて演りはしない。落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじした少年が、やむにやまれず表出させてしまった音っていうのがロックでありテクノなのだ。

この記事にも書いたが、ピート・タウンゼントは、「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 」という至言を残している。もちろんテクノも同様だ。そのきわめて「個人的な」衝動の中にしかアンダーグラウンドは存在しないんじゃないかと、ぼくは思ってる。

§



デトロイトの光と影。

光と影は表裏一体だ。しかし影は時として邪魔になる。とくに、利益優先のビジネスの場においては、排除の対象となる。「個人的な」衝動や意見は、損益が第一義の企業論理においては押し込められる。
ぼくが言いたいのは、デトロイトの犯罪や希望のなさといった影の部分が無くなることを望んでいないということではない。それらの生活圏から生じる衝動や感情といった、きわめて個人的なヴァイブというものは、そう簡単に消せはしないということだ。

緊急財政管理官のオア氏が財政再建に乗り出した現在のデトロイトには、再開発が進むのなら今のうち投資しておけと、これから生まれるかもしれない新たな住民たちに向けて安い物件を買う業者がすでにどしどし入ってきているという。人口の8割以上が黒人になったデトロイト市内では、2012年の大統領選で投票者の98%がオバマに票を入れ、共和党のロムニー候補への投票はわずか2%だったと言われる。人種とクラスで分断された地域で、オア氏やスナイダー知事が相手にしているのは、現在の住民ではなく、新たにやってくる人たちだという指摘もある。(出典

一方で、落ちるところまで落ちたデトロイトに明るい光がわずかばかり差している、という記事もある。無法地帯と化した街と人々の暮らしを救うべく立ち上がったのは、若い民間のスタートアップだそうだ。

破綻都市デトロイトをスタートアップが救う!コミュニティ再生の鍵は「民間」にある - WIRED.jp

民間による都市の再生と聞くと、どうしてもサンディ・スプリングスの例を思い浮かべてしまう。それはオア氏やスナイダー知事が舵取りをするネオリベ路線とも符合する。しかし、この記事を読む限りは、幸先は悪くないように思える。若い世代が立ち上がり、しがらみのない土地で「有機的なムーヴメント」を起こし、「コミュニティの人々が再生への道に参画」することに成功するならば、あるいはデトロイト再生の可能性はあるのかもしれない。

もし仮に、デトロイトが再生したとしたら、そこで鳴らされる音楽はいったいどのような音色を奏でるのだろうか。祝福に満ちた音楽だろうか。それとも漂白された音楽だろうか。聴いてみたいような、みたくないような・・・。

破綻都市デトロイトが、この先どのような道を辿るのかは、誰にも分からない。
今度デトロイトのニュースを耳にした時は、どこか物悲しく、しかし生命力に満ちたデトロイト・テクノの音色を聴きながら、再び妄想を膨らませることにしようと思う。


§



追記(12/5)
12月3日付のニュースによると、連邦判事スティーブン・ローズは、連邦破産法は州法よりも優先され、公的年金を保護する州法を無効にすることができるという裁決を下した。この判決によりデトロイト市は、市職員の健康保険と退職手当の予算を大幅に削減できることになる。(出典

「デトロイト市の事例は、持続不能な年金費用という多くの地方・州政府が直面する慢性的な問題に対してどの程度対応できるかを示すテストケースとなり得る。」とWSJ誌は報じている。日本もけっして他人事ではない社会保障の問題として、デトロイトの今後に注視したい。
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デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色

デトロイトの破綻とデトロイト・テクノの音色 2013.11.23 Saturday [音楽・映像] comments(0)
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スマホ子守やめてという正論やめて

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昨夜、寝る前に目にした記事。

スマホ子守やめて…小児科医会 啓発へ - 読売新聞

「スマホに子守をさせないで!」。日本小児科医会(松平隆光会長)は、乳幼児の心身の発達への影響が心配されるとして、来月から、スマートフォンの利用を控えるよう保護者に対し啓発活動を行う。

スマホの普及に伴い、絵本やパズルなど乳幼児向けのアプリも増えている。中には100万回以上ダウンロードされている人気アプリもある。スマホを子供に渡して、こうしたアプリで遊ばせたり、アニメの動画を見せたりして、放っておくケースもあるという。

 東京都内の1歳児の母親(32)は、「子供が外出先でぐずると、つい渡してしまう」と打ち明ける。

 今月1日には乳幼児向けアプリを企画・販売する企業が、乳幼児のスマホ利用のガイドラインを独自に作成した。「親子で会話をしながら一緒に利用しましょう」「創造的な活動になるよう工夫しましょう」など5項目で、ホームページで公表している。

 ただ、日本小児科医会の内海裕美常任理事は「乳幼児期は脳や体が発達する大切な時期。子供がぐずるとスマホを与えて静かにさせる親がよくいるが、乳幼児にスマホを見せていては、親が子供の反応を見ながらあやす心の交流が減ってしまう」と指摘する。また、画面をなぞるだけの仮想体験を重ねることが、手の機能や五感を育むことに影響を与えかねないと心配する。


気持ち悪い記事だなあと思いつつ、眠かったので深く考えずにそのまま入眠。
翌朝、さっそくこの記事に噛み付いているやまもといちろうさんの記事を目にして、たいへん共感しました。実際に現在進行中で子育てをしている親からしてみれば、やまもとさんの言っている内容に頷くことのほうが大きいと思います。少なくともぼくは、ほとんど同意です。

「スマホde子守」の是非(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

基本的には、レストランや電車などの公共交通機関など、騒いで欲しくない局面で必ず騒ぐ仕様になっています。この親の顔が見たい状況に陥るのは、私たち親の教育が悪いのではありません。そこに子供が登りたがる高さのソファーだったり、子供が投げやすい形状の調味料入れがあったり、くぐって腹ばいになるのに適した大きさのテーブルであるとか、騒いでいる子供を見ると露骨に嫌な顔をする年寄りやカップルに責任があります。

(中略)

朝から晩まで頑張って育児していても、何でもするのが子供というものであります。

私たち夫婦が何も悪くないということを存分に読者に印象付けたところで、出てまいりますのはこちらのiPad。もうね、これのお陰で父親母親が人間らしい生活が送れるのだといっても過言ではないほど、大騒ぎが日課の兄弟には抜群の効果をもたらしてくれます。最高。

(中略)

こんなスマホで少しの時間大人しくしてくれて、他人に迷惑がかからず親も息抜きできるんであれば、そう多くない時間与える分には何の問題もないのではないでしょうか。


もうまったくその通りでして、大人が「言ってきかせる」ことが出来るんなら、誰も苦労しないですよ。日本小児科医会のお偉い先生方によれば、まるで、子供にスマホを見せている親は子供の反応を見ていないとでも言いたげですが、スマホを与えてでも静かにさせなきゃいけない、というところまで親を追いつめているものは何なのかについて、少し思いを巡らせたらいかがかと思います。

おそらくいつの時代にも繰り返されてきたであろう「しつけ論」。親学や道徳教育やらといかにも親和性の高そうなご高説です。それらは「正論」という顔をしています。ぼくが気持ち悪いと感じるのは、その多くが紋切り型の定型文になっている点と、それらが自身を戒めるためのものではなく他人を貶めるためのもとして機能しているからです。

子供が「騒ぐ」「ちゃんとしない」のは、親がちゃんと「言い聞かせない」のが悪いからだと。子供の育ちにとって、家庭での環境が第一のベースになることはその通りだと思います。家庭での教育が最重要であることも頷けます。しかしだからといって、「悪いとき」だけ親のせいにされるのではたまったもんじゃありません。ふだん「言い聞かせ」していないとでも?というか、なんでそういう時だけ他人の子供の教育に首をつっこみたがるのか。あんたそんなにおとなしく大人の言うことをきく「良い子」だったのか。

そりゃあね、「親が子供の反応を見ながらあやす心の交流」で、子供が公共の場で「良い子」にしてくれるんなら、それにこしたことはありません。そりゃあね、安易にスマホを見せて静かにさせることに躊躇がないわけじゃないですよ。出来ることなら、「言ってわかる」子になるような家庭教育を実施したいですよ。だけど、それはあくまで机上の論理です。現場を無視した理想論です。

読売新聞の元記事が、印象論だけで書かれた粗雑な論旨なので、ぼくも印象論だけで書きます。自信をもって他人に語れるような子育てをしているわけでもありませんし…。

しつけって要はルーティンワークなわけじゃないですか。「言えばわかる」というのは結果的にはそうなのかもしれませんが、何回言ってわかるか、何万回言ってわかるかはその子の個性によります。数式だってすぐに覚える子もいればなかなか覚えられない子もいる。逆上がりだってそうです。向き不向きにもよる。しつけも同じようなもので、同じことを延々と何万回も言い続けることで、ある日とつぜんに出来るようになるのだということを聞いたことがあります。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うことを聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。いつかわかるようになると思わないとやってられません。じゃあその「言ってわかる」までの回数が、子供の善し悪しを決めるというのでしょうか。

おそらく、こういう「しつけ論」をぶつ人って、子守りをしたことのない人か、子育てがスムーズにいった人かのどちらかでしょう。子育てがうまくいったというケースは、それが親のやり方がよほど良かったのか、子供の性格が良かったのか、それともたまたまだったのかは分かりませんけれども。いずれにしても、自身の成功体験を子育ての極意みたいにすべての子育てに当てはめて上から目線で語るのは、そこから外れる人への圧力にしかなりません。子供の性格や育ち方は千差万別ですし、誰だって望んでガミガミ叱ったりしたくなんかないし、それが「しつけ」なのか自分の怒りの感情なのか判然としない境界線上で揺らぎながら子供と向き合っている親御さんのほうが多いと思います。

それと、大人の「言うことをきく」子がほんとうに「良い子」なのか。それって「大人の都合」という物差しでしか見ていないんじゃないか。という問いかけは自分の中に常にあります。もちろんだからといってすべて「子供の都合」に合わせていたら生活が成り立たないことは重々承知しています。これは答えのない問いです。

「正しい子育て」なんて存在しない。スマホが普及してから、たかだか数年です。子供の成長に与える影響を判別するにはスパンが短すぎる。というか、子供にとって良い影響か悪い影響かだなんて、誰がどういう基準で決めるんでしょうか。「誰かの都合」にすぎないってことはないでしょうか。


印象論を加速させます。読売新聞の元記事が気持ち悪いのは、「いまの親はダメだ」という個人的印象に基づいて、その印象を増長するための論旨展開でしかないからです。1歳児の母親のなんてことない台詞を、まるで悪いことをしているかのように「打ち明ける」と表現したり、「スマホを子供に渡して放っておく親」というイメージに基づいてミスリードしていることが端々から垣間見える。新しいモノが登場すると必ず表出するアレルギー反応にも見えます。

子供の「ゲーム脳」を問題にするより、こういう記事を書く「偏見脳」のほうがよっぽど害悪だと思います。自分らの頃にはこんな便利なものは無かった、というやっかみ以上にこのような「啓発活動」を行う理由があるんでしょうか。「正論」をぶつ自分に酔ってるだけじゃないの。こういう「啓発好き」な人にかぎって、公共の場で子供が騒ぐのは親のしつけが云々と説教を垂れて親を追い込むわけで。何の躊躇もなくスマホを与えて放っておく親、というモンスターペアレント像は、「啓発好き」な言説が作り上げた虚像に近いと思います。子供にスマホを見せたその一瞬だけを切り取って、親の教育が云々言い出すのは、あまりに早計で稚拙です。

くり返しますが、親の言動が子供に与える影響は間違いなくあります。そんなことは、多くの親御さんはわかってます。わかってる上で、スマホを使うことだってありますよ。いまうちの息子は4歳ですが、ぜんぜん言うこと聞きません。それはもうびっくりするくらい「言ってもきかない」。もう毎日おなじことでガミガミくり返し、こっちが嫌になります。それでも言い続けずにはいられないのは、親だから。何万回と言い続けることでいつかわかるようになるというのを信じるしかない。だけど四六時中子供と向き合っているだけの時間はありません。それに親だって疲れるし、休みたいときだってある。それを上から説教されたり、冷たい視線を投げ掛けられたりするのは、無言の同調圧力という刃にしかなりません。なんの助けにもならない。

たまたま外で見かけた他人の子育ての一コマを、勝手に脳内でモンスターペアレントに化けさせて、勝手に憂いて、勝手に正論を押し付けるのは、あんまり良い趣味じゃないと思います。日本小児科医会という「権威」を装ってこういう記事を吹聴するのはやめていただきたい。と、こういうことを書くのもあんまり良い趣味じゃないですが、愚痴りたかったので。駄文失礼しました。


スマホ子守やめてという正論やめて

スマホ子守やめてという正論やめて 2013.11.18 Monday [子育て・教育] comments(1)
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革命について(2)國分功一郎『来るべき民主主義』

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革命について(1)はこちら



「政治」というものが「政治家」によって動かされていると思ったら大間違いである。

居酒屋談義ではあたりまえの話かもしれない。政策のほとんどは官僚が決めており、政治家は官僚の作文を読むだけの存在である。そんなことは多くの人が経験的に知っている。だけど、それを言ってしまったら身も蓋もない。民主主義が成り立たないし、政治が成り立たない。民主主義という仕組みは、タテマエで成り立っている。

だから、あの政治家が悪いとか、政治なんてもともと信用していないとか、そんなもんでしょと諦観したり、なんだかんだと愚痴をこぼしながらも(居酒屋で行われる政治談義の99%は愚痴であろう)、ごくたまに行われる選挙の日には投票所に足を運び、一票を投じる。そして、どうせ何も変わらなかったと嘆息する。このくり返しだ。散々愚痴をこぼしながらも、馬鹿正直に票を投じることで、それが民主主義の結果なのであると諦観してしまう。選挙なんかやってもどうせ何も変わらない。それが「民度」の結果なんだよと。

だけど、ちょっと待って。政策のほとんどを官僚が決めているのだとしたら、なんで選挙なんてものが必要なんだ?開票から数秒で結果が出るような、選挙という名のお祭りは、はじめから結果が決まっているようなシロモノなんじゃないのか?お祭りとして、ただのガス抜きとして儀式的に行われているだけじゃないのか?

§



民主主義は、タテマエで成り立っているはずだ。結果としては多数決であるけれども、多数派の意見が絶対であり少数派を無視していいという理屈にはならない。政治家は国民に説明する責任がある。公約は守るものである。そういったタテマエがいまやほとんど蔑ろにされている。前言撤回など当たり前、なんでもありだ。

たとえばTPPでの重要5品目の件。簡単に覆される。その理由としてあれこれ屁理屈をこねるのが政治家の仕事になっている。TPP反対派の多くは、「そんなことはじめから分かっていた」と言うだろう。ぼくもそう思う。だけど、これはしっかりと批判すべきだ。なぜからそれがタテマエだからだ。はじめから分かっていたこととはいえ、タテマエとして公約で守ると言ってたわけで、それを現状追認を理由にこうも簡単に翻していいのなら、議会なんて必要なくなる。タテマエを蔑ろにしたら、民主主義は成り立たなくなる。民主主義はタテマエで成り立っているのに、マスコミはこれを批判しない。多くの無関心層はたぶん知りもしない。

いまや現実の世界では、タテマエなんてものは存在しないに等しいのだ。ぼくらはそういう世界に生きているという事実をまず認識しないといけない。

ひと月ほど前、思想家の東浩紀氏が「民主主義は本当にいいものなのかどうか」と発言していた。彼がどのように民主党に期待し、大きく失望させられ、またそれを取り巻く「大衆」の声に接してきたかを考えると、しごく当然の結果であると思う。

ここで東氏が言っていることは、非常に本質的なことであり、そして実は、革命家である外山恒一氏の言っていることとほとんど同じである。「革命について(1)」と題した過去記事で、ぼくは外山氏について少し書いた。参院選の数日後、朝日新聞紙上に掲載された彼のインタビューは、どんな「知識人」「インテリ識者」の言うことよりも腑に落ちる内容だった。困ったことに。

だって彼、過激派じゃないですか。選挙なんか意味が無い、民主主義を信じるな、ファシズムだ、と言っているわけじゃないですか。「民主主義」を前進させよう、成熟させよう、という土台で話をしようとしているのに、「それは欺瞞だ」「民主主義なんかでは、ものごとが決められない」と答える。困ったことに。

だけどいま、現実は、外山氏の言う通りになってしまっている。まじめに考えれば考えるほど、民主主義を疑いたくなる。「もはや政府転覆しか無い」という彼の言葉が脳内に反響する。選挙なんかやってもどうせ何も変わらない。結果はもう決まっている。民主主義なんて幻想である。選挙をすればするほど、自分がマイノリティであることを痛感させられ、そう思えてくる。政治家に対する不満をくどくど並べ立てて「政治」について語ったつもりになっている人も、実はほんとうのところ、深層の部分では「変わって欲しくない」と思っているんじゃないか。

現在の日本は、「民主主義を疑う」という段階に来ていると思う。

§



ぼくらには、政治に対する不満を延々と並べながら、どうせ何も変わらないと諦めながらも、実は前提となる信頼がある。それは「民主主義」に対する信頼だ。政治が変わらないのは「民度」が低いからなんだよと。つまり「民度」=「民主主義」が高まれば、良くなるはずだと。それはまるで、どこかに「理想的な民主主義」というものが存在している(だけど今はそこに達してないだけ)、という物言いだ。

社民党や共産党の人に聞きたい。圧倒的存在感を誇る自民党に対する野党として、その対抗勢力として長年ぶれずに存在してきたというその意義は分かる。ならば、そのような野党の声によって「民度」は高まったのか。いわゆる55年体制下で、日本の民主主義は高まったのか。一時は自民党に相対する存在であった社会党(民主党も)が息も絶え絶えになったのは何故か。現在の日本で、リベラルな意見を吸い上げてくれる場所があるのか。

カタチとしての二大政党制が、実は不満分子へのガス抜きとして利用されていただけだったとしたら。なんだんかんだで自民党は多数派の信用を勝ち得ていたわけで、本当は選挙なんか必要ないけれども儀式としての選挙があって、不満分子の溜飲を下げるために社会党があった。もしそういうことなのだとしたら、選挙で何かが変わるわけがない。それを甘受している野党側も、表面上は対立してみせながらも、実は深層のところでは自民党への信頼があったのではないか。

いや、正確に書こう。自民党への信頼ではない。日本の統治機構への信頼だ。それを表面上は長年自民党が担ってきたというだけの話である。では日本の統治機構とは何か。それはもうみんな知っているではないか。「政治」は「政治家」によって動かされているものではない。

§



國分功一郎『来るべき民主主義』は、この問いに真正面から向き合い、彼自身が小平市の住民運動に関わることを通して得られた深い洞察と思索に基づいた提言の書である。近代政治哲学を学んできた学徒である氏の「この問題に応えられなければ、自分がやっている学問は嘘だ」という言葉にぐっとくる。




國分氏はまずはじめに、そもそも「民主主義」とは何なのであるかを丁寧に解説してくれている。

近代国家が標榜する民主主義とは、三権分立が機能しているという前提に立っている。数年に一度、ぼくらには立法府に関わる機会が与えられる。それが選挙だ。選挙によって、ぼくらは自分たちの代表(代理人)を選ぶ。政治家はぼくらの代わりに、統治に関わるさまざまな法律を作り、予算配分を行う。行政府は、立法府が決めた予算と計画に従って粛々と事業を遂行する。法的な問題が発生すれば司法府が判断する。3つの権力が分立していることによって、お互いに暴走や癒着を防ぐという、先人の知恵である。

近代政治哲学は、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する権力を持つ、すなわち主権であるという考えに基づいている。であるから、ぼくらは政治家に政策決定プロセスを代行してもらうのだ。それが議会制民主主義というシステムである。主権はあくまでも国民にある。近代政治哲学は、この前提をもとに展開される。よもやこの前提が誤っているとは思わない。というか、その前提を排したら議論にならない。國分さんもおそらくそうした前提のもとで近代政治哲学を学んでいた。しかしある日、「バットで頭を殴られたような衝撃」を受ける。

少々長くなるが引用する。

國分功一郎『来るべき民主主義』より
確か2009年あたりのことであったろうか、驚くべきニュースを耳にする。この雑木林と玉川上水を貫通する巨大な道路を建設する計画があるというのである。早速思ったのは、「なんで車が減ると言われ、車が売れなくて困っているこの時代に、わざわざ新しい道路を作るのだ?」ということだった。自分としては、この素晴らしい住環境を道路と車に荒らされるのはたまらないという気持ちだった。酷い話だ、と思った。
ただ、同時に安心もしていた。住民の多くは反対だとも聞いていたからである。道路予定地は雑木林と玉川上水だけでなく、その南北に位置する大きな住宅地を貫通しなければならない。おそらく大変な数の民家に立ち退きを強いることになるだろう。その住民たちが反対しているのなら、土地を売らないから道路は作れない。「まぁ大丈夫だろう」というのがその時の正直な感想だった。
時は過ぎていった。私の頭の中で道路建設計画の話は少しずつ薄れていった。
そんな2010年の初頭、都道建設の説明会があると知る。「行っても行かなくてもどちらでもいいかな…」という気持だった。説明会の日、ちょうど娘と駅前で買い物をしていた。すると、若者が一人、「道路説明会はこちら」と書かれたスケッチブックをもって立っていた。あれは誰だったのか今でも分からないのだが、ある意味では彼が私をこの問題に対する考察に導いてくれたのだった。説明会は中央公園の体育館で行われることになっていた。私は娘に行ってもいいか尋ね、そして会場に向かうことにした。
冬なのでとても寒かった。そのためだろうか、会場に入ると、いきなりカイロと毛布を渡された。それを手渡す都庁の職員が信じられないほど丁寧であった。カイロと毛布をもらって廊下を歩いていくと、開店したばかりの朝10時のデパートのように、職員たちが通路の両側に並んでいて、頭を深く下げながら、「いらっしゃいませ」と大きな声で挨拶してくる。
何かがおかしかった。説明会ごときでなぜ職員たちがこんなに丁寧に振る舞わねばならないのか。どうもあやしいと思った。会場である広い体育館は満員である。どことなく緊迫している。私は後ろの方に座った。
定刻になり説明会が始まった。行政が行う「説明会」に参加するのは初めてだった。そしてそれは想像を絶するものだった。
最初に30分ほどのビデオを見せられた。どうしてこの道路が必要なのかを延々と説明するビデオである。大分お金がかけられているようだった。なお、巨大なスクリーンはわざわざ巨大なトラックで都庁から運んできたとのことである。
ビデオを見終わった後、質疑応答コーナーが始まった。その時に気づいたのは、この会場を満員にしている住民たちはほぼ全員が計画に反対であり、この質問コーナーを待っていたということである。ところが、司会を務めている都庁の職員から突然、次のような「ルール」が会場に課された。質問一人一回。そして、答えに対する再質問は禁止。つまり、都庁の職員が質問に答えたら、それに対して、「でも、それはこうじゃないですか?」とか「だとすると、こうなりますよね」とかいった応答は一切できないということである。つまり、話し合うつもりはないということである。
「ずいぶんお金がかかっていると思われるビデオを先ほど見せてもらったが、これにはいくらかかっているのか」という質問があったが、都庁の職員は答えなかった。「住民はこの計画に納得していない。なのになぜ説明会なのか? おかしいではないか。」という質問も、都庁の職員はこれをはぐらかした。要するに彼らは、「道路を作ることが決まりました。いいですね?」と、都庁のある新宿西口から小平まで言いに来ただけである。
私は呆然として聞いていた。「何が説明会だ」と激しい言葉を浴びせる人たちもいた。司会は「時間になりましたので」と言って会を閉じた。
何と言ったらよいだろうか。私はバットで頭を殴られたような気になった。私たちは民主主義の世の中に生きている。少なくともそう言われている。ところが、自分たちが住んでいる土地に道路が建設されると決まったら、それに対してもの申すことも許されない。質問に対する再質問もできない。行政は道路建設を勝手に決めて、「説明会」を開いて終わりということである。呆然としながらも、だんだんと怒りがこみ上げてきた。
だが、それと同時に自分の中で、ある問いが成立しつつあった。おそらく、このような「説明会」はこれまで何度も、全国で繰り返されてきたのだ。行政が勝手に決めて、住民には説明するだけというこのやり口は、何度も繰り返されてきたのだ。だが、それにもかかわらず、今の社会の政治制度は民主主義と呼ばれている。それはなぜなのか? これは単に行政のやっていることが酷いという問題ではない(確かに酷いが)。どこかにいる権力者がうそぶいて、民主主義でないものを民主主義と呼んでいるということでもない。こうしたことを行っていても民主主義を標榜できるような理論的なトリックがある。そのトリックに切り込まなければ、この行政の横暴を根底から覆すことはできない。
(以上、P32〜34より)


有権者は数年にいちどの選挙で立法権に関わる?それが民主主義の根拠だと?とんでもない。予算配分も事業計画も行政がすべてを決めていたのだ。それも住民の声など聞くこともなく。

小平市の都道328号線をめぐる住民運動については、全国的なニュースにもなったのでご存知の方も多いと思う。半世紀も前に作られた道路計画(雑木林の豊かな緑を壊す)を見直して欲しいという住民の声は、行政に届かなかった。その経緯や顛末については、長くなるのでここでは触れない。要点がまとめられている記事を以下にリンクしておくのでそちらもぜひご覧いただきたい。

「みんな、民主主義に飢えている」 小平市の住民投票に挑む哲学者、國分功一郎さん
東京初、直接請求で実現した小平市の場合―住民投票から考える民主主義の諸問題(1)
「私たちは年をとりました。あなた方は年をとらないけど」―住民投票から考える民主主義の諸問題(2)


住民投票の直前になって可決された、「投票率が50%未満の場合、住民投票自体を不成立とみなして開票もしない、結果も公表しない」とする小平市長による改正案。どう考えても理不尽きわまりないが、正式な手続きを経て承認されたものであり(むろん住民の意志は関係ない)、これが「現在の民主主義」の結果であるから、それは受け入れるしかないと國分さんは言う。がむしゃらに理不尽さをがなり立てても仕方がないと。学者らしいクールさである。

§



先日、閣議決定され国会に提出された特定秘密保護法案。「公表しない」「説明しない」という国民に対するマインドは、小平市長のそれと地続きだ。おそらく権力とはそういう性質を持つものなのだろう。小平市長も、もともと市民運動に長く関わってきた人物であるそうだ。菅直人氏が首相になってどういう態度であったかを顧みると、「権力が人を変える」というと、なんだか野暮ったいが、「権力の座とは、人をそう動かさせるものである」ぐらいの「構造的性質」はあるんじゃないかと思える。だからこそ、「権力を縛る」方策が必要なのだ。属人的な意味での「権力」じゃなくて、構造的問題としての「権力」。近代国家とは、その試行錯誤のプロセスで発展してきたはず。近代憲法による立憲主義とは、先人の試行錯誤から作られてきた人類学的な知恵の結実であるはずだ。

ぼくらが対峙すべき「日本の統治機構」とは何か。「悪代官」や「闇の勢力」といった分かりやすい権力者が世界を支配していると言うんなら話は早い。だけど、そういう単純な話じゃないとぼくは思う。


國分功一郎『来るべき民主主義』より
東京都が実施する例の「説明会」で、50年前からこの道路計画の問題に取り組んできた2号団地に住むご老人が、大変印象的な一言を東京との職員に向かって言ったことがある。

「私たちはもう50年も反対してきましたよ。だから私たちは年をとりました。あなた方は年をとらないけど」。

どういうことだかご理解いただけるだろうか? 50年前から今まで、計画を進めているのは「東京都の職員」である。数年ごとに担当者は変わる。説明会のたびに前に座る人が変わる。だから「東京都の職員」は50年前からずっと年をとらない。2号団地の方々は実際に年をとりながら、絶対に年をとることがない行政の職員を相手に、ずっと「私たちの声を聞いてください」と言い続けてきた。それが50年間叶わなかった。今の日本では、行政に対してもの申すとは、絶対に年をとらない「職員」に向かってものを言い続けるということになってしまっているのである。
(以上、P45〜46より)


行政の窓口に行けばわかるけれども、役所で勤める人たちのほとんどは良心的だ。分からないことは訊けば懇切丁寧に教えてくれる。高飛車な態度なんかは滅多に見られない。だがその一方で、いわゆる「役所的」な体質も持っている。担当者が匿名になればなるほど、意固地な体質になる。日本の統治機構は(東電とかもそうだけど)、そういうシステムになっている。

当たり前だと思っている(あるいは認識すらしていない)ことが、当たり前ではないことはたくさんある。鳩山由起夫氏が2010年に実現した首相会見のオープン化が、日本の憲政史上初だったというんだから驚きである。それも彼の退陣とともにすぐ閉じてしまったという事実からも、日本の統治機構とはそういう性質を持つものであるということが伺い知れる。

國分氏によれば、日本の統治機構とは行政機構のことである。政治家の承認を得たというお墨付きを貰って、行政はそれに従う。しかし実際にものごとを決めているのは霞ヶ関の官僚である。さらには(ここから先はぼくの個人的な見解であるが)、実質的に大きな発言権を持つ経済界である。もっと言うと、アメリカである。日本の統治機構とはアメリカである、などと言うと陰謀論のように聞こえる。しかしこの陰謀論を一笑に付すことができないのは、日本では(特にある年代より上では)外国といえばアメリカのことであるし、アメリカの傘下に入ることがまるで空気のように自明なこととして受けとめられているからだ。実は、この前提を疑いもせずに受け入れている日本人のメンタリティこそが、実質的な日本の統治機構なのではないかとぼくは思う。「なにかしら大きなもの」という漠然とした存在に対する無思索な信頼=依存心こそが、この国の統治機構を成り立たせているのではないか。

日本の統治機構とは、カオナシである。だから、長期的な展望については誰も責任を持たない。原子力発電所の放射性廃棄物だって、いまの統治機構が維持される限りは、永遠に誰も責任を持たないだろう。実際に予算組みをするのは財務省であり、霞ヶ関かもしれない。あるいは「政治的」に大きな影響力を持つ経済界かもしれない。それは決して表には出てこない。政治家は大根の腐ったような芝居を続けるだけであり、腐ったら首を替えられるだけだ。そういうシステムを日本は作ってしまった。誰が作ったのかも分からない。たぶんそれもカオナシだろう。

カオナシであるからこそ、このシステムを覆すのは容易ではないとぼくは思う。たぶん今まで多くの人たちが民主主義を前進させようと試み、そして挫折している。それで政治に失望を抱いている人も少なからずいるだろう。一度や二度投票所に足を運んだくらいで、失望したなんてうそぶいてみせるのは甘いかもしれない。それでも、ここ数年の総選挙あるいは首長選の選挙結果には失望を抱かざるを得ない。

§



政治家は只のお飾りで実際には行政がすべて決めているなんてことは、居酒屋談義ではあたりまえの話である。そして、有権者も政治家も体感的にそれを知っている。それが問題であり、それを変えようと考える人も少なからずいる。民主党とは何だったのか。政権交代可能な二大政党制を日本に根付かせる。それも大義名分のひとつであった。「コンクリートから人へ」というのも大事なテーマだった。だけど民主党がいちばん革命的であったのは、官僚主導から政治主導を訴えていたことである。すなわち、國分さんが指摘する「行政がもの決めるシステム」から、「政治家がもの決めるシステム」への転換を目指していたのだ。民主党による政権交代のキモはここにある。「政治家がもの決めるシステム」とはすなわち近代政治哲学が描くところの国民主権である。だからこそ、民主党は「情報公開」に力を入れていた。「行政がもの決めるシステム」ならば、国民にあれこれ説明する必要も無い。民主党が情報公開、情報の透明化に力を入れていたということは、政治主導を目指していたことの表れである。しかし、鳩山政権の終焉とともに情報は再びクローズな方向へ向かった。事業仕分けも、財務省だけが実質的に掌握している特別会計へ切り込んでこそ意味のあるものだった。だが実際には、ムダがどうのこうのというスケールダウンした茶番に終わった。民主党はなぜ失敗したのか。

鳩山由紀夫氏は「首相時代に普天間の移設をめぐって、当事の官僚を含む政府関係者が、私の指示に反し、米側と通じあい、その構想をなきものにしようとしたことがウィキリークスを通じ明らかになってきている。従来の追従型日米関係を絶対に損ないたくない力が情報の撹乱を含め働いたことがわかってきた。」とツイッターで発言している。普天間をめぐる顛末を顧みるに、そのような圧力があったのであろうことは想像に難くない(過去記事)。民主党の「政治主導」は、「行政がもの決めるシステム」に負けたのだ。政治主導を目指す議員は民主党を出て行き、そのほとんどは選挙で破れて政治の現場から去ってしまった。民主党に残った議員は、惨敗の原因を総括できていないのだから、今後に期待はできそうもない。

では有権者はどうか。圧倒的勝利によって民主党の政権交代を選んだのは他ならぬ有権者だ。しかし残念ながら、民主党による政権交代の意義をきちんと理解していた人はごくごく少なかったということは、その意思を受け継いだはずであった生活の党や未来の党の清々しいほどの惨敗を見れば分かる。有権者は国民主権なんか望んじゃいなかったのだ。自民党にいちど「お灸を据えた」だけであって、再びヨリを戻すことが念頭にあったのだ。ほんとうのところでは、変わることなんて望んでいなかったのだ。問題は根深い。ほとんど絶望的ですらある。

特定秘密保護法案が恐ろしいのは、それが権力側に都合よく利用されるからという理由ももちろんあるが、「出る杭を打つ」というカオナシのような国民性と符号するからだ。「自分はこんなに我慢している。だから我慢していない奴が許せない。そう考えて、他の人間に我慢を強いるようになる。声を上げるものを全力で引きずり下ろそうとし始める。」(本書P96より)というような気質は、誰もが少しは持っている心のクセではないだろうか。自らがカオナシの一部を形成していることに気づかずに、出る杭を叩いているつもりになっていると、そのうち自分も呑み込まれることになる。そんな社会がすぐそこまで来ている。

外山恒一氏は、「ある種の「絶望」を経由せずにファシズムに到達するのは困難(たぶん不可能)である」と言っている。彼自身、左翼活動を経てファシズムに転向したことを公言しており、「選挙なんかじゃ何も変わらない」というのは、彼の実感から出る言葉だろう。選挙なんかやってもどうせ何も変わらない。結果はもう決まっている。民主主義なんて幻想である。選挙をすればするほど、自分がマイノリティであることを痛感させられる。そういうことを、おそらく外山氏はもうずっと前から体感していたのだ。

逆らってもしょうがない、どうせ何も変わらない、どうしようもない、という現実にぶつかった時に、人は初めてスタートラインに立つのかもしれない。希望は絶望からしか生まれない。「いのちは闇の中のまたたく光だ」宮崎駿はナウシカにそう言わせている。

くり返すけれども、政治家は只のお飾りで実際には行政がすべて決めているなんてことは、居酒屋談義ではあたりまえの話かもしれない。だけど、政治学者が正面切ってそういうことを言うことはほとんど無かったのではないだろうか。

民主主義なんか嘘っぱちである。だからこそ知恵をしぼりたい。

§



民主主義はタテマエであり、タテマエをタテマエとして守ろうとすらしなくなった現在、現実としては機能していない。であるならば、どうすればよいのか。外山氏の言うように、もはや政府転覆しかないのか。政治哲学はその問いに答えることができるのか。

國分功一郎『来るべき民主主義』より
本書の主張は単純である。
立法府が統治に関して決定を下しているというのは建前に過ぎず、実際には行政機関こそが決定を下している。ところが、現在の民主主義はこの誤った建前のもとに構想されているため、民衆は、立法権力には(部分的とはいえ)関わることができるけれども、行政権力にはほとんど関わることができない。
確かに、県知事や市長など、地方自治体の長を選挙で選ぶことはできる。しかしだからといって行政の決定過程に民衆が関わっているとは到底言えない。そもそも個別の政策には全く口出しできない。それでも「民主主義」と言われるのは、行政機関は決められたことを実行していく執行機関に過ぎないと、つまりそこに民衆が関わる必要などないと考えられているからだ。
ならば、これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。主権者たる民衆が、実際に物事を決めている行政機関にアクセスできるようになるからだ。
(以上、P17〜18より)


では、行政権に民衆がオフィシャルに関われる制度とはどのようなものか。國分氏による具体案としての提言は、住民投票やパブリック・コメント等、どこかで聞いたことのある内容ばかりであるし、いささか拍子抜けする。だけど、その聞きかじった程度の具体案の中身をほんとうに知っているのかとよく考えてみると、実はよく分かっていない。改善の余地は大いにあるかもしれない。

パブリック・コメントなんかしてもほとんど意味が無いという意見をよく聞く。実際そうかもしれない。ぼく自身も何度かパブコメを送ったことはあるが、どうせ変わらないけどやらないよりはマシといった程度の気持ちでしかなかった。というか、もの申したいという思いをぶつける場所が他に無かったから、やむにやまれず送ってみたという感覚に近いかもしれない。國分氏の言うように「民主主義に飢えている」人は案外増えているのかもしれないとも思う。

当たり前であるが、國分氏が挙げた具体案はあくまでもひとつの例に過ぎない。民主主義を補強していく強化パーツは多ければ多いほどいいと氏は述べている。これまで議会制民主主義というと、議会という一つのアリーナにあらゆる政治イシューを集約し、そこですべてを決するという一元論的な体制が構想されてきた。それに対し、問題の性格に合わせて様々な制度を活用できる、決定プロセスを複数化した体制を作ったらどうか、というのが本書の提言である。

議会制民主主義がいかにして生まれたか、また哲学やデリダの思想を紹介しながら、デリダなんて名前も知らなかったような門外漢のぼくでも分かりやすく説明してくれる本書はとても興味深かった。とくに、「制度が多いほど、人は自由になる」というドゥールズの考え方は、目から鱗だった。「法」と「制度」をごっちゃにして考えていた自分にとっては、ある意味、革命的な考え方ですらあった。これからじっくり考えてみたい。

「様々な制度」を考えていくのは、國分氏だけの仕事ではない。ぼくら自身も含まれる。自分たちのことを自分たちで考えるという、当たり前のことが根幹になければ、いくら民主主義について語っても絵に描いた餅にしかならない。

もしかしたら、政治家がそれなりの度量と行動力を持っていた時代もあったのかもしれない。だけど、もはや政治家を「先生」と呼ぶ時代ではない。一から十まで政治家にお任せでは済まされない。一切の理由が公表されないという特定秘密保護法案とは、突き詰めればつまり「オレを信じろ」ということになる。これを承認するということは、政府がそんな酷いことをするわけがないという信頼(依存心)が前提にあることを意味する。自民党は基本「オレに任せろ」で中身をぜんぜん説明してくれないが、なぜそれを無思索に信用できるのか、自民党黄金時代を体感していないぼくには理解できない。

本書の中でも提示されているが、津田大介氏の「ツールとしての政治家」という表現がしっくりくる。政治家と住民は、お互いに利用し合う存在でいいはずだ。それとお互いへの敬意は共存し得る。すなわち、住民が自らの住む自治体の行政へ関わろうとする上での橋渡しとなる役割を、政治家が担う。なぜなら彼らは「先生」などではなく、自分たちで選んだ「代議士」なのだから。


§



震災以降この国に暮らして感じてきたこと、そしてこのブログにもぐだぐだぐだぐだと書き連ねてきたことのほとんどが、『来るべき民主主義』には書いてあった。腹の底にストンと落ちる内容てんこ盛りなのだ。

それは國分氏の感性が自分と近いところにあると感じることに由来するのかもしれない。本書の中でも特にぼくが好きなのはこの部分だ。

國分功一郎『来るべき民主主義』より
駅のすぐ脇の中央公園はその小高い丘が樹木で覆われ、駅からはいつも木々が見える。駅の南側には、有名な玉川上水が東西に走っている。その脇には木が生い茂る遊歩道があり、そんな贅沢な道を地域の人たちは当然のように行き交っていた。ここは休日になるとわざわざ遠くから散歩に来る人もいる、そんな「観光地」でもある。玉川上水遊歩道を通って、毎朝、娘を保育園に送っていくのを、私はとても贅沢なことだと感じていた。
もう一つ、大切な緑があった。それは都営住宅の正面にある大きな雑木林である。駅を出るとすぐに中央公園があり、公園を通り抜けるとその雑木林が現れる。都市部によくある保護樹林とは異なり、誰もが気軽に入って緑を楽しめるのがその雑木林の特徴だった。子どもも大人も老人も、なんとなくそこに立ち入り、なんとなくそこで遊び、なんとなく休んでいる。確か月曜日の朝早くは大きな犬を連れた人たちが集まっていた。太極拳をしている人たちもいる。近くの幼稚園・保育園、あるいは小学校からは子どもたちが来る。お弁当を食べて、どんぐりを拾っている。
(以上、P28〜29より)


國分氏が小平市の住民運動に携わるようになったのは、彼自身がそこに暮らす住民であったからだ。彼自身が、雑木林を日常として行き交い、その環境を愛でていた。そういう実体験に基づく理由があったのだ。テレビで報道されるような、全国民が共有可能であると同時にどこか他人事のようなイシューだけが「政治」ではない。むしろ、自分が住む地域の、自分の手が届く周りだけしか知らないようなイシューにこそ「政治」があるのだと思う。政治とは日々の生活に他ならない。自分の肌感覚だけがそれを知っている。

政治学は、学問の中だけでは完結しない。國分氏が直面した、小平市の問題。住民投票をめぐる住民の政治参加への盛り上がりと、冷酷な現実。そこから生じた、「この問題に応えられなければ、自分がやっている学問は嘘だ」という真摯な問いかけ。近代政治哲学が「前提」としている根っこの部分に欠陥はないか。それを考え抜くことこそが、政治哲学に携わる者としての責任だと國分氏は言う。

自らの知識や常識、あるいは派閥といったものに雁字搦めにされる「識者」が多い中、國分氏が本書で示したラディカルな問いとそれに対する提言は、ある意味では地味だし、ある意味では革命的だ。「現在の民主主義を見直し、これからの新しい民主主義について考えることが本書の目的である」と彼は言う。ほんとうの意味での「学者」そのものだと思う。國分氏のように知識と感性を兼ね備えた若き学者が、政策提言の現場に近いところにポジショニングされる未来がくるとしたら、「来るべき民主主義」にも希望を見出せるように思う。

もちろん、「新しい民主主義」について考えるべきは学者だけではない。ほんとうの意味での「自治」をぼくら自身が望むのかどうか。問題はそれに尽きる。もし望むのだとしたら、まず「前提」を疑うこと。革命はそこから静かに起こり得る。




(付記)
なお、「民主的であること」と「民主主義」は、性質の異なる言葉であると國分氏は言う。しかしぼくはまだよく理解できていないので、本稿では敢えて識別せずに、学者ではない一般人の感想として自然に言葉が出てくるに任せて書いた。ご了解いただきたい。
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革命について(2)國分功一郎『来るべき民主主義』

革命について(2)國分功一郎『来るべき民主主義』 2013.10.28 Monday [妄想] comments(0)
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ヤマザキマリ『スティーブ・ジョブズ』

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ヒット作『テルマエ・ロマエ』で知られる人気漫画家ヤマザキマリさんが、スティーブ・ジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』をコミカライズした漫画を女性誌「Kiss」で連載している。先日、コミック第1巻が発売されたことを知り、買ってきた。ちなみに講談社のサイトで、第1話の冒頭を試し読みできる。



個人的に『テルマエ・ロマエ』の作風はあまり好みではなかったけれども、今作は全て筆ペンで描かれているそうで、絵のタッチがだいぶ変わっている。ざっくりした感じ、さらっとした感じ。これは、徹底して無駄を省くというジョブズの哲学・美意識を反映させたものだと、ヤマザキさん本人が語っている。女性らしい端麗な線の運びと、ざっくりとしたタッチがうまく相まって、男性でも読みやすい。

原作となる伝記があるので、基本的に原作に沿ってストーリーが進む。コミック第1巻では、ジョブズの生い立ちから、高校〜大学生活、アタリへの就職からインドへの旅までが描かれている。ぼくは原作を読んでいないので、はじめて知るエピソードばかり。ジョブズのことをあまり知らなかったということを改めて知れておもしろかった。

ジョブズのことを知らなくとも、Appleの製品が好きだという自分の感覚は以前から変わりない。2年前、ジョブズの訃報を受けて、ぼくはこんな記事を書いている。ジョブズの思想に対する深い洞察や、彼の経営手腕に対する見解があるわけではない。ただの「いちファン/ユーザー」としての思い出話であり、ぼくが勝手に妄想した、ぼくから見たジョブズ像だ。だけど、だからいいんじゃないか。思い出の中に入り込む「製品」なんてそんなに数あるわけじゃない。こういう思い出話をさせてくれるような「体験」を与えてくれたAppleにはやはり別格の思い入れがある。

ジョブズは「偏屈」だとよく云われるが、この第1巻では彼の偏屈ぶりが魅力的に(?)描かれている。もうほんと唯我独尊のイヤな奴で、小さい頃から「お前は特別なんだよ」と愛情を注いできた育ての親は困惑するほど。ここらへんは、自分も親になったいまはいろいろと考えさせられる。ジョブズもまた、宮崎駿のように「堀越二郎気質」の人間なのだろう。身内や周囲の人たちは大変だ。

おもしろいのは、ヤマザキマリさんがジョブズやAppleに対して格別の思い入れがなかったという点。講談社の担当編集から企画が上がった時には、「ジョブズに対してシンパシーがなかった」のでいったん保留したそうだ。Macファンである息子さんや旦那さんからの強い後押しで自伝を読み返し、ジョブズの偏屈っぷりが、自分の周りにいる人たちと似ているなと、ああ、こういう人なら描けるわ、となったとのこと。"シンプル"というジョブズの哲学を作品にも落とし込み、「ジョブズそのものが作品の魅力」と語るヤマザキさんはプロフェッショナルだと思う。

そういう、ちょっと引いた視線から描かれているため、感情移入することなしに淡々と物語が進行していく。機械などのディティールの描写にもこだわっており、いわゆる「マンガ」というよりは「伝記」っぽい。おそらく彼女は、ものごとを俯瞰した立場から描くのが得意なのかもしれない。『テルマエ・ロマエ』は、ローマ人から見た奇妙な日本という着想だったし、新作『ジャコモ・フォスカリ』はイタリア人からみた日本という設定だ。

それでも、漫画『スティーブ・ジョブズ』は、あくまでもヤマザキマリさんが描くジョブズだ。もちろん原作に沿った内容であり、そこから大きく逸脱はしないものの、漫画ならではの表現というものがあり、彼女の想像によって描かれたシーンもある。「私は絶対彼には惚れないし、一緒に働くのも嫌」だという彼女から見たジョブズだ。だからいい。

主人公は偏屈だけど、漫画『スティーブ・ジョブズ』はさらっと読めちゃう。どこか物足りない気もするし、「ジョブスに入り込めない」という理由でこの漫画を評価しない人がいるのも分かる。だけどそれは当たり前なのだ。なにせ作者自身がジョブズに入り込んでいないんだから。

入り込まないということと無視するということは違う。入り込めなくとも、対象を観察し、敬意をもって接することができるのは、作者がプロである所以だ。偏屈な人が偏屈な人を描いた『風立ちぬ』と、偏屈な人を周りに抱える常識的な人が偏屈な人を描いた『スティーブ・ジョブズ』、という対比で見比べてもおもしろいかもしれない。

続編が楽しみ。


追記:
ヤマザキマリさん(本人)から「自分も偏屈に近いと思いますが...」というリプライを頂いたことを報告しておきます。

ヤマザキマリ『スティーブ・ジョブズ』

ヤマザキマリ『スティーブ・ジョブズ』 2013.08.27 Tuesday [読書] comments(0)
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忘れる

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チェルノブイリを取材した『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』によれば、事故を体験した現地の人にとっていちばん怖いのは忘れ去られることだという。記憶を風化させないために、かの地が観光地化しているという同書の指摘にははっとさせられた。戦争の記憶も、原発事故の記憶も、語り継がれなければ風化する。忘れる。人間はひどく忘れっぽい。

§



忘れるーーー

映画『風立ちぬ』の中でも特に印象的だったその台詞は、軽井沢のホテルで堀越二郎が出会った謎のドイツ人カストルプが、ウッドデッキのテラスで二郎に戦争について語ったシーンで登場する。

「(ここ避暑地は)忘れるにいい所です。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本、破裂する。ドイツも破裂する。」

史実によれば、カストルプの言う通り、日本もドイツも破裂した。そして、カストルプの言う通り、忘れゆく。アメリカの庇護という名目の下で、戦争に負けアメリカに占領されたという事実を忘れた。ポツダム宣言を受諾し、本州、北海道、九州、四国以外の土地の主権は「連合国側が決定する」ことに従うとしたという事実(参考)を忘れた。現役の首相や閣僚から世界を敵に回すような言説がとび交い、それを簡単に「撤回」することで無かったことにする技術が横行している。都合の悪いことは「忘れ」ようとする技術だ。2年前に甚大な事故があり、事故を招いた杜撰な管理体制とその場しのぎの体質がなんら改善されていないという事実を忘れようとしているのと同じように。

人間は忘れる生き物であると云われる。もしかしたら、忘れることでかろうじて正気を保っているのかもしれないが(参考)。

§



まず自分自身のことをふり返ってみる。
1976年生まれの典型的な核家族。父親はサラリーマンで、仕事と飲み会に一生懸命。母親は専業主婦であまり表に出ることは少なかった。なにより転勤が多かった。ぼくと弟、育ち盛りの男児をふたり抱えながら、2〜3年毎に見ず知らずの土地で生活するのは大変であったろうと、自分が親になったいまでは、母親の苦労がよく分かる。もちろん当時はそんなことつゆ知らず、クソババアだなんて悪態をついていたわけだが。それはともかく、つまりぼくは小さい頃から転校少年であったわけで、「地元」という感覚が希薄だ。幼なじみという存在も無い。コンプレックスとまでは言わないが、どこか自分は根無し草であるという感覚がずっとある。根無し草であることをアイデンティティと言えるのか分からないけれども、それが自分の感覚を形成していることは間違いない。良く言えば固定概念が無い、悪く言えば世間知らずということだ。

祖父と祖母は、盆と正月にだけ会うものだった(父親は次男)。親にとっては帰省だが、子供にとってはただ遊びに行くという感覚しかなかった。親もあまり特別視していないようで、お盆というものが本来何をするものなのか、今もってよく分かっていない。いわゆる伝統行事というか、風習とかしきたりといったものにぼくが疎いのは、そういうのに触れてこなかったからだと思う。いま思えば、父方の祖父は毎朝仏壇でお経を唱えていたような気がする。夏休みの期間中だけ、その光景を目にするわけだが、なんか難しいことやってるのかなという感じで、あまり気にも留めなかった。祖父は戦争を体験していたはずだが、戦争についての話を聞いたこともない。父も別段、説明してくれなかった。もちろんぼくが聞かなかったからであって、そもそもぼくは戦争にあまり関心がなかった。ミリタリーものに対する憧れもなかったし、トラウマになるような「戦争もの」の映画や本を観たり読んだりしてこなかった。3年ほど前に、ツイッターで長崎の友人と出会っていなければ、そして彼が語る、彼の祖父や祖母が残したという原爆の記憶を知らなければ、原爆忌のことも気に留めないような認識しか持っていなかった。

すごく薄情な人間だと思う。『風立ちぬ』で描かれた二郎のように。いまではそれを自覚している。

§



とり・みき『Mighty TOPIO』という漫画と、宮崎駿『風立ちぬ』には共通項があるという記事を前回書いた。抜粋して再掲する。

『Mighty TOPIO』は、震災と原発事故に真正面から向き合った漫画だ。幾度も幾度もザセツと失敗をくり返してきた、メンマ博士の夢のロボット開発。博士が何度目かの稼働スイッチを入れたその瞬間、大きな地震と津波が研究所を襲う。瓦礫の山と化した街。2年半前にテレビや新聞で目にした、あの光景だ。そんな中、「ある力」によって動力源を与えられた博士のロボット「トピオ」は、復興のお助けをすることになる。

思わず息を呑むラスト2ページ。その8コマには台詞が一切入っていない。あの出来事から何十年後、何百年後の世界であろうか、そこに至るまでのストーリーを、台詞のない8コマが雄弁に物語る。その末に訪れる景色を、モノクロでありながら色鮮やかに描く。想像力が喚起され、読み終わった後には、これほんとうにたったの8ページだったのか?と思わず確かめてしまうくらい、まるで一編の映画を観終わったような余韻に浸ることになる。


『風立ちぬ』についての論評で、内田樹氏は、宮崎駿が描きたかったのは「物語としては前景化しないにもかかわらず、ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの」ではないかと指摘している(参考)。これには大いに共感する。ぼくも映画を観て同じ質感を感じたからだ。

「あの時代」ーーーそう呼ぶしかないくらい、その時代のことをぼくは知らない。実感としてはもちろんのこと、知識としても、語り継がれた物語としても、ほとんど知らない。同じ国なのに、まるで別の国で起きた出来事のように、断片的な情報でしか、知らない。であるはずなのに、スクリーンに向き合っているうちに、知らないはずの、その国の出来事、というか景色が、人々の息遣いや仕草が、まるで子供の頃に記憶した景色であるかのように懐かしく思えてくるのだ。
車窓から見える、里山の萌えるような緑とか、土埃の舞う街並みとか、石ころの混じったぼこぼこの散歩道とか、この時代に生きたことはないのに、そのすべてが有機的で美しくて懐かしかった。全編から立ち上ってくる鮮烈なノスタルジーが、風のように美しく、愛おしさに溢れた映画だった。

『風立ちぬ』を観て感じた「懐かしさ」とは、内田氏の言う「私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのもの」なのだ。
1976年に生まれたぼくは、映画で描かれた「あの時代」の「時間の流れ」は知らない。けれども、少なくとも現在の「時間の流れ」よりはゆったりとしていた自分の子供時代のことを思い出し、映画の景色と重ね合わせていたのかもしれない。あるいは、これからの時代、ゆったりとした「時間の流れ」を味わうことが難しいであろう自分の子供たちのことを頭に浮かべながら。


とり・みき氏が『風立ちぬ』について書いた記事がある。
「風立ちぬ」戦慄の1カット - とり・みきの「トリイカ!」

同記事中でとり氏は、「「風立ちぬ」はエゴイスティックな映画だ」と述べている。「作家や職人の、家人や世の大事や、ときには顧客すら省みない、いや、省みないように見えるエゴ」がそのまま作品に反映されているという点で、とり氏はこの作品に共感すると言う。エゴイスティックであるがゆえに「恐ろしいほど孤独で美しい」この作品が「大好きだ」と言う。

ぼくも共感する。共感すると言うとり氏の文章にも共感する。「大好きだ」と言ってしまうこの人が大好きだと思う。

『風立ちぬ』は、宮崎駿が描きたいものを描いた作品だと、とり氏は言う。それと同じように、ノーギャラで描かれたという『Mighty TOPIO』には、とり氏が描きたいものが描かれているとぼくは思う。とり・みきが『Mighty TOPIO』のラスト2ページで描いたものと、宮崎駿が『風立ちぬ』で描いたものが、同じ質感を持っているのは、偶然ではあるまい。

戦争や震災という、圧倒的に残酷な現実を前にして。それらによって失われてしまった景色を美化したいという、単なる懐古趣味でもない。戦争や事故を殊更に憎むわけでもない。ある意味では、その片棒を担いでいるのだ。大いなる矛盾の中で、ロマンチストだとか、幻想だとか言われようが、それを描かずにはいられない。そういうことだと思う。

彼らが「それを描かずにはいられない」のは、それが既に「失われてしまった」ものであるか、あるいは「失われつつある」ものであるからだ。だからノスタルジーを感じるのだ。もしそれがすでに十分に満ち溢れているものならば、わざわざ描いたりはしない。

§



言うまでもないことだが、なぜ戦争の悲惨さを忘れてはいけないのかというと、「ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの」が一瞬で無くなってしまうからである。だから、どのような正義の下でどのような事情があったとしても、戦争はいけない。そういう理由で、日本は憲法九条を制定したはずだ。いやいや、日本という危険な国に武力放棄させるためという当時のアメリカの意向があったからだという見方もある。たしかに、そうかもしれない。しかし仮に制定された経緯がそうだったとしても、市井の日本人にとっての憲法九条とは「過ちは繰返しませぬから」という皮膚感覚こそが出発点になっているのではないか。たいせつなものを失うのはもうたくさんーーそれが大多数の日本人にとっての暗黙の合意であったはず。

『風立ちぬ』や『はだしのゲン』にまつわる表現規制によって失われるものと、「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、知らず知らずに日本人が喪失していくものは重なっている。それは敗戦に至るまでの物語。先に述べたように、ぼくは自分の国で起こった戦争のことをほとんどなにも知らないままに育った。物語を知らないのだ。そこに広がる景色や、人々の息遣いや手触りを知らない。

『風立ちぬ』の、ラストシーン数十秒が描かれるためには、そこまでの2時間が必要だった。あの大きなスクリーンに向き合う時間が必要だった。あのラストは真実である。と同時に、そこに至るまでの物語もまた真実である。そのことを「感じる」ためには、物語と向き合い、あの映画が醸し出す質感を共有する時間が必要なのだ。なぜなら、ぼくはその物語を知らないのだから。

もしかしたら、日本人が忘れてしまいつつあるのは、戦争の悲惨さだけではないのかもしれない。戦争や原発事故を越えた先に見える景色も、いまとなっては「失われてしまった」もの、あるいは「失われつつある」ものであり、忘れゆくものであり、語り継がれるべき物語なのかもしれない。だから表現者は表現し続ける。描かずにはいられないから。

「私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのもの」がかつて存在したということさえ、ぼくらは「忘れ」てしまう。失われて困るもの、そのもの自体を忘れてしまったならば、戦争は悲惨ではなくなり、正義や合理性で語られるものになる。なにせぼくは薄情な人間だ。

§



『はだしのゲン』閉架問題については、ぼく自身が作品を読んでいないので何とも言えない部分はあるが、次の文章がほとんどすべてを言い表していると思う。

小池一夫さんのツイートより
「はだしのゲン」の閉架問題。大人は子どもから、残酷な事実からただ遠ざけるのではなく、この世には信じられないほど残酷な真実がある、しかし、あなたの生きるこの世界はとても豊かで美しく優しい場所でもあるのだと、両方の真実を教えるべきである。(小池一夫)


いや、待てよ。子供たちには「両方の真実を教えるべきである」という言い回しでは、大事な点が誤読される恐れがあるかもしれない。そもそも、ぼくたち大人は「両方の真実」なんてものを知っているのかという疑問だ。少なくともぼくは知っている(だから教えてやる)という立場には立てない。

真実を「教えるべき」というよりは、両方の真実が「そこに在る」というだけでいい。

両方の真実が「そこに在る」という「状態」を、保持し続けること。それがつまり「語り継ぐ」ということの意味なのではないかと思う。すべての子供に一律に語り継ぐ必要はない。読みたい人が読めばいい。ただそれだけのことなのに。例の閉架問題のなにが問題かというと、それを「無かったもの」にしようとしているからなのである。都合の悪いことは隠して「忘れ」ようとする技術に他ならない。

つまりこれは、子供の知性を信じていないという態度だ。

§



史実や文化を知識や教養として身につけていれば、見えてくる物語もまた変わってくる。町山智浩さんの『風立ちぬ』解説を聞いて、ああぼくは分かっていないことがたくさんあるんだと知り、それを殊更に説明しようとしなかった同作品の懐の深さに改めて嘆息した。

作中において分かりやすい説明が少ないというのは、解釈を委ねるということであり、作り手が観る人の知性を信じているということでもある。観る人の知性を信じるとは、観る時点での知性もそうだけれども、その後その人が多様な経験を積み重ねていく中で形成されていくであろう未来の知性に対する信頼ということでもある。

考えてみれば、宮崎駿だって終戦時は4歳である。あの映画で彼が描いた景色は、彼が直接経験した真実というわけではなく、彼が語り継がれたものだったに違いない。「ぼくはこういう物語を見聞きしてきました」という彼の頭の中を提示したのがあの作品なのだとも言える。

もう一編、とり・みき氏のコラムを紹介する。
こどもたちは裸足で夏を駆ける - とり・みきの「トリイカ!」

とり氏は、話題になっている閉架問題について、「見せるべきではない」という意見にも「見せるべきだ」という意見にも、どちらにも違和感を覚えるという。子供の頃に一種のトラウマになった諸作品での原爆の描かれ方。しかし「遠ざけたい」とは思わなかったし、むしろ興味がわいたと言う。「原爆や戦争への興味のスタートは一時期の少年が抱く「恐いもの見たさ」やグロテスクなものへの興味と、さほど変わらなかった」と。

同記事より
自分の経験からいえば、そもそも子供は誤解や誤読をしながら、あるいは大人から見れば不健全な興味から作品に入るのだ。そうして年月をかけて学習をし、ここは正しくここは間違いだった、などと吟味しながら、それでもなぜ自分がその作品を好きになったのか、を突き止めていくのだと思う。


すばらしい見解だと思う。

人間は忘れる生き物である。そして、人間は学習する生き物でもある。「見せるべきではない」あるいは「見せるべきだ」という態度は、人間は学習するというそのこと自体を忘れてはいないか。わざわざ「教え」たりせずとも、ただ「そこに在る」だけで、子供たちは勝手に学習する。

『風立ちぬ』の主人公は語らない男である。ストーリーも時代背景も、作中での説明が極端に少ない。『Mighty TOPIO』は抑制された筆致で、台詞も必要最小限だ(ラスト8コマに至っては一切の台詞が無い)。作品に「正解」を求める人にしてみれば、非常に分かりにくい作品なのかもしれない。けれども、語られる物語と対峙する姿勢を持った人に対しては、どんな台詞やキャプションよりも雄弁に物語ってくれる。

戦争を起こすのは、いつだって戦争を知らない人たちだ。だから知らないぼくらは知る人の言葉に耳を傾ける必要がある。そこで語られる物語そのものよりもむしろ雄弁に物語るものーーそれは戦争を経験してきた人の「佇まい」なのかもしれない。仏壇に手を合わせる亡き祖父の佇まいを思い出しながら。しかしよく思い出せない薄情な自分とともに。


忘れる

忘れる 2013.08.22 Thursday [妄想] comments(0)
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