2013年7月、デトロイト市が財政破綻した。
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ミシガン州を本拠地とするフォード、GM(ゼネラルモーターズ)、クライスラーという自動車産業を代表する企業(いわゆるビッグ3)の隆盛と共に、かつては工業都市として全米第4の都市と言われたデトロイト。全盛期には人口180万を超え、その半数が自動車産業に関わっていたという。1950年代には、まさにアメリカンドリームを象徴する都市だった。
しかし、1967年に多数の死傷者を出したデトロイト暴動により白人の郊外への脱出が増加。また70年代頃から日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業は社員を大量解雇、下請などの関連企業は倒産が相次ぎ、市街地の人口流出が深刻となった。同時に、ダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進んだ。
以来、デトロイト市内では人口の8割を黒人が占める。自動車産業関連の職を求めて南部から移住した人々である。一方、白人の多くは郊外に住んでおり、郊外の衛星都市では人口の9割以上を白人が占めている。郊外と市内の生活圏は分断されており、ダウンタウン周辺の空洞化は続いている。(以上、
Wikipedia参考)
2009年、同市に本社を置くGMが経営破綻。同年クライスラーも破綻した。自動車産業の空洞化により、デトロイトの都市基盤はいよいよ崩壊していく。180万あった人口は現在68万人にまで減少。人口の減少により、この10年間だけでも市の所得税からの収入は3分の1に。収入の約40%は退職給付の支払いと債務の返済に、過去10年に発行した債務のほとんどは年金拠出金に充てられた(このレガシーコスト問題については後述する)。不動産価格は暴落し、見捨てられた家は市に没収されたまま朽ちていくばかり。廃家屋は7万8000軒にも上り、固定資産税からの歳入を大幅に減らすと共に治安はますます悪化。管理の行き届かない公園は70%近くが閉鎖され、雑草が空き地を覆い荒れ放題になっている。街灯は10本に4本の割合でしか機能しない。稼働している救急車は3分の1。警官の人数も10年で40%削減され、警察に通報しても警官が現場にやってくるのに平均58分(全米平均の5倍)もかかるという。(以上、
Democracy Now!及び
WSJ.com参考)
そして2013年7月18日、デトロイト市は連邦破産法9条を申請。負債総額は推定180億ドル(約1兆8千億円)。自治体の財政破綻としては米国史上最大だそうだ。
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遠いアメリカの出来事である。だいたいが、デトロイトが合衆国の何処らへんに位置しているのかもよく知らなかった。その割には、日本でもデトロイトの破綻は話題になった。中でも印象的だったのは、廃墟と化した街の景観を写した写真の数々だ。財政破綻のニュースは、経済学に興味のある人ぐらいしか深く読み込まないであろうし、ぼくも理解できていない。議論などできるレベルにはないことは重々承知している。しかし、朽ち果てた建物が並ぶ写真を見るにつけ、「財政破綻」がもたらす現実にショックを受ける。やはりビジュアルが訴える力は強い。(「廃墟好き」にはたまらない、と別の意味でも話題にもなっているようだが…)
いちおう補足しておくが、「財政破綻」がもたらす現実、というと語弊があるかもしれない。デトロイト市が財政破綻に至るまでには、主力産業の衰退、それに伴う人口減少、ダウンタウンの空洞化があった。実際には、市が財政破綻する前から、街の廃墟化は進んでいたわけである。すなわちデトロイトという街は、都市機能としてはすでに破綻していた。ビジュアルが訴える廃墟の写真は、「都市機能の破綻」がもたらす現実、と言ったほうがいいかもしれない。
行政機能は崩壊し、企業の倒産、失業問題、犯罪増加、医療危機、格差拡大など、デトロイトの問題は、現在アメリカが抱える問題を凝縮しているように思える。アメリカ政府はそれらの問題を先延ばしにすることでなんとか生き延びているが、格差はますます拡大している。いつ第二のデトロイトが生まれてもおかしくない状況であると思う。オキュパイ運動(
Occupy Wall Street)は、それに対するカウンターカルチャーであったはずだ。
デトロイト市の財政破綻や、ビッグ3を経営破綻に追い込んだのは「レガシーコスト」だと言われる。レガシーコストとは、退職した市の職員の医療や年金に充てる費用のこと。景気の良かった時代を基準に設計された年金制度が、人口が半減した場合に立ち行かなくなるのは当然だ。財政問題を解決するには破綻申請しかなかったとのことだが、今後もレガシーコストをどう扱うかが焦点になる。
現在、180億ドルの負債処理を任されているのは、デトロイト市長ではなく、ミシガン州知事リック・スナイダー氏が任命した緊急財政管理官ケビン・オア氏。オア氏は連邦破産法の適用を認めるかを判断する審理で、負債のうち90億ドルについて、市職員1万人と退職者2万人の年金と退職者向け医療保険が占めているとの推計を提示した。これに対して労働組合や年金管理機関は、公的年金はミシガン州の憲法に守られているとして年金受給額の大幅カットを認めないよう訴えた。もし仮に破産裁判所がデトロイト市の年金支払額の削減を認めた場合、多くの年金生活者たちは貧困に陥ることになる。(
出典)
ひるがえって、これは対岸の火事ではない。少子高齢化が指摘されながら有効な手だてが講じられていない日本の年金制度だって近い将来、破綻することは目に見えている。ましてやアメリカのやること、言うことに右ならえの日本政府である。日本が「デトロイト化」「廃墟化」する可能性が無いとは言えない。
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話変わって。
ぼくが、所在地もよく知らずにいたデトロイトのニュースに興味を持つのには理由がある。デトロイトと聞いてぼくがまっ先に連想するのは「デトロイト・テクノ」だ。いまや世界中のクラブでプレイされているテクノ・ミュージックが生まれた街。子供が生まれてからは音楽の趣味も変わり、いまはもう聴いていないけれども、お小遣いの殆どをCD購入に充てていた音楽バカであった頃は、いろんなジャンルの音楽を漁るようにして聴いていた。クラブ系テクノを経由して知ったデトロイト・テクノ周辺の音楽にも一時期かなりハマった。その深淵なる世界のとりこになった。(記事下の
関連リンクに一例を紹介してあるので興味を持たれた方はぜひどうぞ)
先日、無料化を機に数年ぶりにヤフオク出品を再開した。押入れに放り込んであったCDの山を漁っている最中に、ロス・ヘルマノス(Los Hermanos)の1stアルバム『
On Another Level』が目に入った。デトロイトのアンダーグラウンド・シーンにおける伝説的な集団、アンダーグラウンド・レジスタンス(Underground Resistance)のメンバーでもあるジェラルド・ミッチェル(Gerald Mitchell)やDJロランド(DJ Roland)を中心としてリリースされた本作、日本盤帯のコピーには「デトロイト・テクノの金字塔、ここに現る。」と書いてある。
| 著者 : Los Hermanos Submerge 発売日 : 2005-09-13 |
何を隠そうこのアルバム、ぼくがデトロイト・テクノに興味を持つきっかけにもなった一枚だ。久しぶりに聴いてみたのだが、かっこよくて痺れた。たぶん日本人の耳にも馴染みやすいので「デトロイト・テクノ」を知らない人にも聴いてほしい。ちょっとうまく言い表せないが、“男のコ”が好きそうな音楽。アップテンポで、シリアスで、獰猛で、キラキラしてて、哀愁があって。
で、聴きながら思ったんだけど、これって労働歌だよなと(そういう単語は無いかもしれないが、労働者のための音楽という意味で勝手にそう名付けた)。反復するリズムはルーティンワークそのものだし、低音でうねるベースにフラストレーションをぶつけて。哀しいメロディに、やり場の無い鬱憤とちょっとの希望を託して。
デトロイトがアメリカでも有数の工業都市として元気だった頃、街は労働者で活気に溢れていたと思う。やっぱりそこでルーティンワークを与えられる労働者たちにとっての、はけ口というかストレス解消の一種として音楽があったのではないかと。テクノ(をプレイするクラブ)というのも、その同心円上に位置するものなんじゃないかと。イギリスの労働者にとってのパブみたいなもんで。そう考えると、デトロイト・テクノって、労働歌そのものなんじゃないかと。
もっともこれはデトロイト・テクノに限らず、黒人音楽(ソウル・ミュージック)はすべてそうだったのであろうけれども。デトロイト・テクノとは、マシンを使ったソウル・ミュージックに他ならない。反抗と、希望と、祝福の音楽だ。
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デトロイト・テクノについて書かれた日本でほぼ唯一の本がある。ぼくがデトロイト・テクノに特別な感情を抱くようになったのは本書の影響が大きい。500ページ近くのボリュームにも圧倒されるが、細部まで取材と洞察の行き届いたこの大作には、筆者のテクノに対する造詣と愛情の深さが溢れており、そこにロマンを感じずにはいられない。本書を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。
ディスコ文化からシカゴ・ハウス、Pファンクを経由して、デトロイト・テクノの創始者であるデリック・メイやホアン・アトキンスの名前が登場するまでに200ページも費やしているのだから、そのボリュームは半端ない(いまだに全部読めていない)。この音楽が生まれた背景を説明するためだそうだ。
デトロイト・テクノのオリジネイターと言われるデリック・メイは、1983年のシカゴでフランキー・ナックルズの音楽を聴き、衝撃を受ける。同じくオリジネイターと言われるホワン・アトキンスと共に、それまでパーティでDJもしていた彼だが、シカゴのクラブで出会った音楽は「そんなものではなかった」という。以下、本書よりデリック・メイの言葉を引用する。
「正直言って、おれはそのときほどスピリチュアルな体験をしたことがない。すべてが素晴らしかった。音楽、そこにいる人間たち、ダンス、雰囲気、サウンドシステム、それは未知のパワーのようなものだった。もう「ワーオ!」って、おれはもう、そこで何かを掴んだ気がした。なんて言うのかな、例えば、おまえは何故、音楽を聴く? 明日を生きたいと思うからじゃないのか。希望を見出し、ロマンを感じたいからじゃないのか。だとしたら、そういう類いのものすべてがそこにあったんだ。
初めてフランキーを聴いた翌日、すぐにホワンに電話したよ。「ホワン、おれはついに音楽の未来を見たよ!」もう興奮していろいろ喋った。そしたらホワンは「ああ、おかまディスコのことね」だって、もう全然信じてもらえなかった。「ノー!違うよ、ホワン、そんなんじゃないんだ!」おれは何回もホワンに説明した。「だから、たかがディスコだろ?」って、ホワンにはなかなか伝わらなかったけどね。だけどおれには確信があったんだ。これは音楽の未来だという確信がね。おれはしばらく、毎週末をシカゴで過ごすことにした。
(中略)
ある晩は本当に教会みたいになるんだ。教会みたいな状態というのがどういうことか教えてあげようか。ロン・ハーディのDJで、みんながコール&レスポンスみたいなことになるんだよ。彼のDJも騒がしかったけれども、フロアはもっとうるさかった。一緒に歌う者、叫ぶ者、信じられない熱気だった。パーティの翌日は、シカゴのキッズはフランキーやロン・ハーディのプレイの話でもちきりだった。パーティに来ていたキッズのほとんどは、フランキーやロンがかけていた音楽が何なのかを知らない。でもキッズはそんなことどうでもいい。彼らはこの街で最高のDJを知っているからだ。
(中略)
しばらくはシカゴに夢中だったね。それからデトロイトに戻って、自分たちの手でシカゴのようなパーティをやりたいと考えるようになった。おれたちは、<ザ・パワー・プラント>と<ミュージック・ボックス>にあった生気を、あの熱気を、あの素晴らしいひとたちの感情を自分たちの街にも欲しいと考えはじめたんだ。ストレートもゲイも男女も、誰もが本気で楽しんでいるあの体験をデトロイトでも創造したいと思った。希望のない、死んだようなデトロイトの街に、シカゴのようなファンタスティックなヴァイヴが欲しいと思った。
黒人のキッズがあんなに生気に溢れている現場を見たことがなかったんだ。おれたちには歴史もなかった。シカゴにあったものがデトロイトにはなかった。デトロイトにあったのは、子供にドラッグを売らせて、銃を撃つことだ。少女に売春をやらせることだ。そこに希望があるか? 人生を生き抜くロマンがあるか? だから、おれたちはおれたち自身のものを創造するしかなかった。」(以上、本書より)
メイが繋いだシカゴとデトロイトのアンダーグラウンドは、ホワン・アトキンスが1985年にモデル500名義でリリースしたシングル「No UFO's」に結実したという。以下に歌詞を紹介する。
希望はないという
UFOはいないという。
それならなぜ、おまえは高みを見るのか
やがておまえは飛ぶのを見るだろう
飛べ!
希望を主題にしたこの曲は、驚くほど的確にデトロイト・ブラックの気持ちを表していたと野田氏は指摘する。ホワン・アトキンスは次のようにコメントしている。
「デトロイトには希望のかけらもない。ストリートで育ったキッズを見ればわかるよ。ドラッグを売って生活する。生きるためには銃だって持たなくてはならない。そしてタフでなければならない。そうさ、ドラッグを売るなんて当たり前さ。そうする以外、ほかに手がないんだ。わかるかい? 希望のない環境は人為的に生み落とされたものだ。自然発生的な過程なんかじゃない。デトロイトの音楽はある種の祈りのようなものでもあるんだ。アメリカに住んでいる黒人たちのね」(以上、本書より)
ぼくが付け足すことは何もない。再びデリック・メイの言葉。
「何故、世界中のこんなに多くのひとがこの一片の音楽から何かを感じとるんだろう。なんで「Strings of Life」はそんなにひとびとにとって大切なんだろう。きみは、高い崖っぷちからダイブしたような、そんな気持ちにさせてくれる音楽を聴いたことがあるかい? 自分でそれはできないかもしれないと思っていても、心の中は満ち足りてしまったようなあの状態、あの曲はきっとみんなをそんな気持ちにさせたんだと思う」「"Strings"はマーティン・ルーサー・キングのことだ。彼が殺されたとき、希望や夢も破壊された。これはかなえられなかった彼の希望なんだ」
シカゴのアンダーグラウンド・パーティの中にデリック・メイが見出した「音楽の未来」とはこのことだった。
「アメリカにはつねにふたつの階級の対立がある」メイは彼の経験してきた“アメリカ”を次のように話す。「スマートなひととゲスなひと。金持ちと貧乏。白人と有色人種。弱者と強者。そしてそこにはつねに嫉妬や足の引っ張り合いがある。とくに黒人のコミュニティではこの50年間はそうだった。50年代に黒人がしっかりとした教育を受けることは同時に黒人のコミュニティからも快く思われないことでもあった。黒人が黒人同士で傷つけ合い、弱い者同士がいがみ合い、そして黒人のコミュニティにはつねに犯罪があり続ける。どうしてそうなってしまうのか、そのことを理解しようとする努力があまりにも欠けていた。だから単純に、多くの黒人の向上心は髪の毛をストレートにしたり、白人社会に迎合したりすることでしか果たせないものになっていたし、あるいはまったくその逆で白人と敵対することでしか自分を保てなくなってしまう人もいた。それでは、つねに誰かが悲しむことになるんだ。おれはそんな世界は望まない。
例えばイギリスのDJにカール・コックスがいる。彼はまさにイギリスの白人社会で成功した黒人DJだ。でも多くの黒人はカール・コックスを批判する。「やつは媚びている。白人のケツにキスしやがって」とみんなは言う。おれはそうは思わない。何故、カールをカールとして見てあげられないのだろう。何故、カールをひとりの人間として評価しないのだろう。彼は彼自身の実力があって人気DJになった。ただそれだけのことなのに。
(中略)
何故ひとは自分自身でいられないのだろう」(以上、本書より)
うーむ、デリック・メイ、かっこよすぎる。ちなみに、「Strings of Life」はデトロイト・テクノをまったく知らない人でもおそらく一度は聴いたことがあるはず。89年の貴重なライブ映像があったのでリンクを貼っておく。
Rhythm Is Rhythm - Derrick May with Carl Craign - Strings Of Life LIVE
デリック・メイはこのとき26歳。後ろにいるのは20歳のカール・クレイグだそうだ。
最後に本書から野田氏の言葉を紹介しよう。
これはクラブ・ミュージックについての話だ。と同時にアンダーグラウンドで生きる人たちの自由と快楽と、絶望と希望をめぐる物語でもある。そして願わくば、読者にとって希望の物語であって欲しい。(本書P13より)
くり返すけれども、この本を読む前と読んだ後では、デトロイト・テクノがまるで違ったものに聴こえてくる。単なる機械によるドラムの打ち込み音が、デトロイトの地下に集う彼らの息遣いに聞こえてくる。ルーティンワークのように反復するリズムが、自分の鼓動に聞こえてくる。そう、紛れもなくこれはソウル・ミュージックだ。
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デトロイト・テクノはいわゆる商業的にはあまり流通していない。現在ではAmazonで簡単に手に入るが、10年くらい前まではずっとアンダーグラウンドな存在だった。(もっとも、彼ら自身がセールスやプロモーションに積極的でないという理由もあるだろう。たとえばムーディーマンことケニー・ディクソン・ジュニアは、音楽がデジタルとして消費されることに批判的な立場を貫いていることでも知られる。彼がヴァイナルにこだわるのは、音質ないしは手触りなどのフェティシズムの問題ではない。デジタルはヴァイナルという個人商店を駆逐するという政治的な理由からだ。(
出典))
もしかしたら、現地でもマイナー的な扱いなのかもしれない。彼らの活動の源はアンダーグラウンドにある。だけど、商業的な規模に関わらず、リスナーの数に関わらず、その土地に根付いた音楽であったのだろうと想像する。音楽にもルーツがある。それは、そこに住む人たちの生活から派生するものだ。音楽が生まれるところには、時代や環境といった背景がある。それが文化になる。文化というのは、土着的なものだと思う。デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかったであろう。
チープな図式かもしれないけど、資本家(あるいは経営者)と労働者という構造は資本主義社会では必ず出てくるわけで、そこから発生してくる経済格差や関係性、感情なんかは、どこの国でも、あるいは「
資本論」の頃からあまり変わってないのかもしれない。イギリスのオアシスがロックンロールの寵児となったのは、ギャラガー兄弟が労働者階級の出身であったことと無縁ではないと思う。ロックとは反抗の音楽だ。
黒人音楽は、ロックが誕生するずっと前からその歴史上にあった。何に対して反抗していたのかというと、権力や体制といった、「大きなもの」に対する反抗だった。ロックは黒人音楽から派生した。ファッションとしてのロックよりも、反骨精神としてのロックが力をもつ時代があった。いまの若い人は、そんなロックを知らないかもしれない。だって、何に反抗したらいいのか、非常に判りづらい時代だから。
デトロイト・テクノは紛れもなく「反抗の音楽」だ。だって「アンダーグラウンド・レジスタンス」だよ。デトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれなかった土着的な音楽が、国境や時代を越えて愛されるのは、その音色に共鳴する人々がいるからだ。勘違いしないでほしいのだが、はじめから普遍性をもって愛されるものを作ろうとしたのではなく、あくまでも個人的で土着的な発露から作られたものであるからこそ、国境や時代を越えて語り継がれるのだという、一見矛盾するような創造のマジックを彼らは体現していると思う。
だからこそ、オアシスがそうであったように、共に働き共に生活する同胞を讃え、そこに集う仲間を結束させる、祝福的なヴァイヴが、彼らの音楽の根底にはある。そして日本や欧州でも数多くのフォロワーを生んでいる。
スペイン語でロス・ヘルマノスとは、"ブラザー"を意味する。この言葉の裏には、異なる文化、環境、技術、そしてスピリットを持つ人間が音楽のために協力するという意味が含まれているそうだ。(
出典)
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デトロイト市の破綻に話を戻す。このニュースを耳にした時に、ぼくが思ったのは、デトロイト・テクノ(つまり現地のアンダーグラウンド・シーン)はどうなっているんだろうということだった。その手の音楽をめっきり聴かなくなってしまったので、現在のシーンには疎くてよく分からない。もっとも、市が財政破綻を申請するずっと前から、街の荒廃は指摘されてきたわけで、その中で作られてきたデトロイト・テクノがいまさらどうこう変わるわけでもないとは思う。ただ、彼らの「反抗の音楽」とは、野田氏の言葉を借りれば、絶望と希望をめぐる物語でもあった。そして願わくば、やはり希望の物語であって欲しい。今回の絶望を経過してもなお希望の種は消えずに、テクノの音色は鳴り続けるのかどうか、ちょっと気になる。
デトロイトの破綻は、アメリカの「貧富の格差拡大」の象徴である。この貧富の差の拡大に、米国経済に潜む病根が凝縮されている。内国歳入省(日本の国税庁に相当)の資料によると、2010年の米国全世帯の個人所得は前の年に比べて2.3%増加したが、所得上位わずか1%の富裕世帯が全世帯の所得増加分のうち、なんと93%を占めた。一方で、全体の80%の世帯は所得の減少に見舞われているという。(
出典)
前述したオキュパイ運動(Occupy Wall Street)は、1%対99%という社会構図に対するカウンターカルチャーであった。第二のデトロイトがいつ生まれてもおかしくない状況に現在のアメリカはある。
9.11同時多発テロを世界貿易センターで体験して以来ジャーナリストに転身した堤未果さんは、『ルポ貧困大陸』シリーズで、経済格差が急激に拡大し二極化するアメリカのすがたを克明に描写している。落ちこぼれゼロ法(教育ビジネス)、経済徴兵制(戦争ビジネス)、高額な医療保険(医療ビジネス)、フードスタンプ(アグリビジネス)。そして愛国者法。残酷なまでに99%を搾取する仕組みが、素知らぬ顔をして、あらゆる方向から逃れられないように迫ってくる。アメリカ建国の精神は、いまや自己責任を弱者に押し付けるための方便に矮小化されてしまった。アメリカ政府は、国民よりもグローバル企業の動向に歩調を合わせることに熱心だ。
最新作『
(株)貧困大国アメリカ』では、デトロイトの公共サービスが崩壊している様子についても言及されている。
堤氏は、教育の市場化がデトロイト破綻の一因になったと指摘する。以下に、本書から引用しつつ説明する。
「このままでは全米の自治体の9割は5年以内に破綻する」元ロサンゼルス市長は2011年にテレビ番組のインタビューでそう警告し、公務員の福利厚生や労働条件など労働組合の力が大きくなりすぎたことが地方行政の最大の問題だと指摘した。
ブッシュ政権が導入した「落ちこぼれゼロ法」では、生徒たちの点数が上がらなければ国からの予算が出ないだけでなく、その責任が学校側と教師たちにかかる。低所得者層の多いデトロイトの公立学校ではなかなか平均点が上がらず、教師たちが次々に解雇され、学校が廃校になった。公立校がつぶれると、すぐにチャータースクール(営利学校)が建てられる。7年で元がとれるチャータースクールは投資家にとって魅力的な商品なのだ。しかし入学には、高い授業料と一定以上の学力が要求されるため、デトロイトでは教育難民となった子供が路上にあふれ、失業した教師たちは州を出るか、SNAP(フードスタンプ)を申請した。
教育の市場化は、公教育を破壊して教育格差を作り出し、財政負担をさらに拡大させた。恩恵を受けたのは投資家と大企業、それにSNAPで売り上げが伸びた大型スーパーやファーストフード店、SNAPカードの手数料が入る銀行だけだ。
公務員と公教育が「教育ビジネス」のターゲットになっているのはミシガン州だけではなく、アメリカ中で起こってる動きだという。ハリケーン・カトリーナの後のニューオリンズでは、「もっと強い、国際社会で通用する人材を育てるために強い教育を」という政府の呼びかけのもと、被災により損害を受けた公立校を廃校するとともに、その跡地に大量のチャータースクールが建てられた。「災害」を理由にしたショック・ドクトリンはニューオリンズで成功したのだ。そして今度は「自治体破産」を理由に、デトロイトが次の市場に変えられていくのを投資家は熱い期待とともに待っている。
次々に町が破綻し、廃墟が広がるミシガンですら、上位1%の層は順調に収益を上げている。今のアメリカは、貧困人口が過去最大であると同時に、企業の収益率も史上最高なのだ。
ミシガン州スナイダー知事は、2012年12月、組合への加入と支払いの義務化を廃止する法律「労働権法」に、反対を押し切って署名した。これで労働コストは安くなり、企業にとっては効率のよい経営ができるようになる。労働権法を入れた州ではたしかに失業率は下がっているが、数字を改善しているのは、労働条件の悪い低賃金雇用が圧倒的だ。一方で、ミシガンのように組合の力が強い土地では、組合が既得権益にしがみつくあまり破綻を招いたというのもまた事実であるという。(以上、本書より適時編集)
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「特権にあずかる公務員や労組」を標的に据えるという切り口が大衆の支持を得やすいということは、日本でも同じような現象が起きていることからも容易に想像できる。民営化こそが善である、という単純な思い込みは、一部の成功例を引き合いに出されることで、大衆の間で根強く信奉されている。
安倍首相は、国会の施政方針演説において「世界で一番企業が活動しやすい国」を目指すと宣言した(
出典)。「強い日本」をつくる、「国際的な大競争時代」で「世界のフロンティアへ羽ばたく」人材を育成する、とことあるごとに強調している。いつから「経済発展」が「国是」のように扱われるようになったのか知らないが、ニューオリンズの施政方針とまったく同じである。断言してもいいが、現在の日本が「世界のフロンティアへ羽ばたく」ことは不可能だと思う。他でもない掛け声をあげている首相が、アメリカのやること、言うことに右ならえの「親米家」であるからだ。「1%」の栄光にはご熱心であるが、「99%」の現実などまるで眼中にないようにお見受けする。「アベノミクス」の恩恵など、待てど暮らせどわれわれ99%には巡ってこないであろう。
中央政府は実質的に大企業が牛耳っており、彼ら(1%)の利益を正当化するために、「経済成長」というお題目が掲げられる。これは多かれ少なかれ、世界的な潮流なのであろう。この流れは加速していく予感がする。アメリカの1%は自国の99%を食いつぶし、今度は世界を99%化し始めている。TPPはまさにそれを象徴するアメリカ側のリーサルウェポンである。特定秘密保護法案は、「国家の株式会社化」プロセスの一環であると内田樹氏は指摘する(
参考)。
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もうひとつ、「切り売りされる公共サービス」いう流れでたいへん印象的だった出来事がある。デトロイトが破綻していく一方で、アメリカでは自治体を民間が運営する都市が誕生した。言うなれば、金持ちの金持ちによる金持ちのための都市である。ふたたび『(株)貧困大国アメリカ』から引用する。
2005年8月、ハリケーン・カトリーナによって大きな水害に見舞われたジョージア州では、アトランタ近郊に住む富裕層の不満が拡大していた。水没した地域住民のほとんどが低所得者層だったのだ。なぜ自分たちの税金が、貧しい人たちの公共サービスに吸い取られなければならないのか。莫大な予算をかけて被災地を復興させても、住民の多くは公共施設なしでは自活できないではないか。政府の介入はまるで社会主義だ。いったいどれだけ貴重な税金を投じなければならないのか。
納得のいかない彼らは住民投票を行い、ベストな解決策を打ち出した。群を離れ、自分たちだけの自治体を作って独立すればいいのだ。彼らは自治体の運営に関しては素人だったが、富裕層には大手企業がちゃんと近づいてきてくれる。すぐに両者の間に契約が成立した。この動きは、数ヶ月という短い時間で、目立たず速やかに進められた。全米の関心はハリケーン・カトリーナと被災地に集まっていたからだ。
かくして2005年12月、人口10万人、全米初の「完全民間経営自治体」サンディ・スプリングスが誕生する。雇われ市長1人、議員7人、市職員7人。余分な税金を低所得者層の福祉などに取られずに、効率よく自分たちのためだけに使えるのだ。警察と消防以外のサービスはすべて民間に委託し、費用に見合ったサービスが受けられる。市のホットラインは24時間対応可能。政府統治機構を株式会社に委託するというサンディ・スプリングスの誕生は、小さな政府を望む富裕層の住民と大企業にとって、まだに待ち望んでいたことの実現だった。
もちろん、権利ばかり主張する「いまいましい組合」など存在しない。何しろ住民はみな平均年収17万ドル(約1700万円)以上の富裕層と、税金対策で本社をおく大企業なのだ。外部の者が簡単に入れないよう警備も充実しており、住民には安心で快適な暮らしが約束されている。
過疎化が進む地域はどんどん取り残され、自治体の再分配機能は働かなくなってしまうと、周辺地域の政治家が頭を抱える一方で、この新しい民間経営自治体への関心はとどまるところを知らない。噂は世界中に広まり、中国やサウジアラビア、インド、ウクライナなどからも視察団が訪れるほど人気が高まっている。
サンディ・スプリングスが象徴するものは、株主至上主義が拡大する市場社会における、商品化した自治体の姿に他ならない。そこで重視されるのは効率とコストパフォーマンスによる質の高いサービスだ。そこにはもはや「公共」という概念は、存在しない。(以上、本書より適時編集)
内田樹氏は、日本は「シンガポール化」を目指していると指摘しているが(
参考)、それは「サンディ・スプリングス化」と置き換えてもいい。
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たまたま目にしたデトロイト・テクノの音楽を久しぶりに聴き、デトロイト破綻のニュースを思い起こしたときに、ぼくはふとサンディ・スプリングスのことが頭に浮かんだのだ。
いったい、サンディ・スプリングスのような街ではどのような音楽が鳴り響くのだろうかと。投資家による、投資家のための街では、いったいどのような音楽が生まれるんだろうかと。いや、果たして生まれるんだろうかと。前述したように、文化というのは土着的なものだと思う。そこに住む人たちの生活や息遣いから生まれるものだ。
少なくとも、サンディ・スプリングスではデトロイト・テクノのような音楽=ソウル・ミュージックは鳴らされない(生まれない)だろう。「邪魔な」低所得者層を排除したピカピカの街では、「反抗の音楽」は必要ないわけだから。株式会社が席巻する社会とはすなわち、「消費される商品」が正しいものであるという価値観によって形づくられる。その帰結として、汚いものは排除され、いつも綺麗でピカピカのショッピングモールのように「漂白された」社会になる可能性は大きいと思う。
デトロイト・テクノはデトロイトのアンダーグラウンドでしか生まれないということはすでに述べた。と同時に、ロックとかテクノって、基本的に暗い奴がやらないとダメなのだ。クラスの中で進んで学級委員長になりたがるような明るく元気な優等生や、プレゼンが得意な明朗快活ビジネスマンがやるものじゃない。数字や言葉で簡単に伝わるなら、わざわざ音楽なんて演りはしない。落ちこぼれの、鬱屈した、うじうじした少年が、やむにやまれず表出させてしまった音っていうのがロックでありテクノなのだ。
この記事にも書いたが、ピート・タウンゼントは、「ロックンロールは、別に俺たちを苦悩から解放してもくれないし、逃避させてもくれない。ただ、悩んだまま躍らせるんだ。 」という至言を残している。もちろんテクノも同様だ。そのきわめて「個人的な」衝動の中にしかアンダーグラウンドは存在しないんじゃないかと、ぼくは思ってる。
§
デトロイトの光と影。
光と影は表裏一体だ。しかし影は時として邪魔になる。とくに、利益優先のビジネスの場においては、排除の対象となる。「個人的な」衝動や意見は、損益が第一義の企業論理においては押し込められる。
ぼくが言いたいのは、デトロイトの犯罪や希望のなさといった影の部分が無くなることを望んでいないということではない。それらの生活圏から生じる衝動や感情といった、きわめて個人的なヴァイブというものは、そう簡単に消せはしないということだ。
緊急財政管理官のオア氏が財政再建に乗り出した現在のデトロイトには、再開発が進むのなら今のうち投資しておけと、これから生まれるかもしれない新たな住民たちに向けて安い物件を買う業者がすでにどしどし入ってきているという。人口の8割以上が黒人になったデトロイト市内では、2012年の大統領選で投票者の98%がオバマに票を入れ、共和党のロムニー候補への投票はわずか2%だったと言われる。人種とクラスで分断された地域で、オア氏やスナイダー知事が相手にしているのは、現在の住民ではなく、新たにやってくる人たちだという指摘もある。(
出典)
一方で、落ちるところまで落ちたデトロイトに明るい光がわずかばかり差している、という記事もある。無法地帯と化した街と人々の暮らしを救うべく立ち上がったのは、若い民間のスタートアップだそうだ。
破綻都市デトロイトをスタートアップが救う!コミュニティ再生の鍵は「民間」にある - WIRED.jp
民間による都市の再生と聞くと、どうしてもサンディ・スプリングスの例を思い浮かべてしまう。それはオア氏やスナイダー知事が舵取りをするネオリベ路線とも符合する。しかし、この記事を読む限りは、幸先は悪くないように思える。若い世代が立ち上がり、しがらみのない土地で「有機的なムーヴメント」を起こし、「コミュニティの人々が再生への道に参画」することに成功するならば、あるいはデトロイト再生の可能性はあるのかもしれない。
もし仮に、デトロイトが再生したとしたら、そこで鳴らされる音楽はいったいどのような音色を奏でるのだろうか。祝福に満ちた音楽だろうか。それとも漂白された音楽だろうか。聴いてみたいような、みたくないような・・・。
破綻都市デトロイトが、この先どのような道を辿るのかは、誰にも分からない。
今度デトロイトのニュースを耳にした時は、どこか物悲しく、しかし生命力に満ちたデトロイト・テクノの音色を聴きながら、再び妄想を膨らませることにしようと思う。
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追記(12/5)
12月3日付のニュースによると、連邦判事スティーブン・ローズは、連邦破産法は州法よりも優先され、公的年金を保護する州法を無効にすることができるという裁決を下した。この判決によりデトロイト市は、市職員の健康保険と退職手当の予算を大幅に削減できることになる。(
出典)
「デトロイト市の事例は、持続不能な年金費用という多くの地方・州政府が直面する慢性的な問題に対してどの程度対応できるかを示すテストケースとなり得る。」とWSJ誌は報じている。日本もけっして他人事ではない社会保障の問題として、デトロイトの今後に注視したい。